16 サイアクな日を過ごしたっていい

「はぁ————————」

 受付のカウンターに肘をつき、パソコンの画面をにらみながら、島崎悠太は大きくため息を吐いた。「説明文読めよ」

 店のドアが開いた。

「いらっしゃ——」

 反射的に口を開くと同時に、顔を上げて姿勢を正した。

 ここ数日で見慣れた二人の刑事と、四人の若者の姿があった。

「どうかされたんですか?」

 愛想よく、島崎はたずねた。

 寝癖頭の少年が、真っ先に受付の前にやって来た。

「美羽音さんは何をしに来たんですか?」

「え?」

「今朝、ここに来たって言ってましたよね?」

「ええ、ですから、上でお茶を——」

「でもそれは嘘ですよね?」

「う——?」

「どうなんですか?」

 佐野がたずねた。

 島崎は一瞬で、不機嫌な表情になった。それから、苛立った口調で言った。

「今朝は客として来たんですよ、あの子」

「客としてってことは、何かを預けに?」

 島崎は大袈裟にため息を吐いた。それから、バックヤードへ向かうと、すぐに露骨な迷惑顔を浮かべて戻った。

 島崎は持ってきた物を、粗野な手つきで佐野に手渡した。三日前、本村が譜久村美羽音からもらったものとまったく同じ、マカロニ・エンジェルのロゴが入った、小さな金色のチャームだった。

「メダロワ?」

「あぁ、知ってるんですか?」

 冷めた口調で、島崎は言った。

「ええ、でも、どうしてこれを隠す必要が?」

「今朝調べたら、これ、非売品だったんですよ」

 ふてくされた口調で、島崎は説明した。

「それどころか、コアなファンでも、入手方法が分からないらしいんです。どれだけマカロニ・エンジェルの会員歴が長かろうと、どれだけ購入実績があろうと、手に入れられるものじゃないそうで。いくらお金を積んででも、欲しがる人はいるだろうなって……」

「なるほど」

 相原が言った。「預かった品を、客に無断で転売しようとしてたわけですか」

「あぁ」

 ぼんやりと、倉沢が言った。「リヒトの服も、転売するつもりだったんだ。あれ、数量限定で稀少だから」

「美羽音さんが預けたのはこれだけですか?」

 本村が聞いた。

「え……そうだけど」

 困惑したようすで、島崎は言った。佐野が、疑いの目を向けた。

「ほ、ほんとですって!」

 島崎はうったえた。

「箱の中に緩衝材大量に詰めて、ご丁寧にリボンまでかけて、結局入ってたのはそのちっこいお守り一個だけですよ! ほんとです! これ以上嘘つかな——」

 池脇が、受付を横切ってバックヤードの扉へ向かった。

「ちょ、ちょおま——」

 とっさに止めようとした島崎が、背後にあったゴミ箱を蹴り上げた。

 中から、大量の黒い紙屑があふれ出た。

 本村は歩み寄り、紙屑の一つを拾い上げた。

「佐野さん、所轄から連絡が——」

 スマホを手に、緊迫したようすで相原が言った。

「今、犯人が自首してきたと————」

 本村は折りたたまれた紙屑を広げた。ハート型の黒いメモ用紙に、ホワイトペンでメッセージが書かれていた。


『橘川さんが幸せになれますように。』


 池脇も、バックヤードのそばまで雪崩れた一枚を拾い上げた。

『橘川さんが幸せになれますように。』

 大槻と倉沢も歩み寄り、それぞれメモを手に取った。


『橘川さんが幸せになれますように。』

『橘川さんが幸せになれますように。』

『橘川さんが幸せになれますように。』

『橘川さんが幸せになれますように。』————……



「もう、一年以上前からです」

 取調室で、橘川直道は述べた。

「『橘川さんは不幸じゃないです』『橘川さんは不幸じゃないです』って。うざったい、ぶっ殺したいって、毎日思ってました。もう、説得力はないですけど、本気でそう思ってたわけじゃないです。心の中で苛立ちをぶつけるとしたら、そういう表現になってしまうというか————」

「心の鬱憤が、実際に犯行に及ぶまでに至ったのは、どうして?」

 佐野はたずねた。

「今朝も、あの子が来たんですよ」

 ややうつむきながら、落ち着いて、橘川は話していた。

「オープン前に、店の前で作業してたら、背後から急に話しかけてきて……。あの子、いつもにこにこしてますけど、今朝はいつも以上に嬉しそうで、なんか気色悪かったです」

 橘川は顔色を変えずに続けた。

「僕、普段から、あの子の話を聞くふりして、適当に相槌打ってるだけなので————。最初の方、あの子が何を話していたのかは、よく覚えてません。気づいたら、勝手に屋上の話をしてました。『ホワイトヘブンの上には天国があるんです』『今日は、天国へ行くには絶好の日和です』とかなんとか。そうですねって、また適当に相槌打って————」

 橘川は続けた。

「そのあと、天使の館に配達に行きました。店長さん、受付にいなくて……。それは別に珍しいことじゃないんです。受付に誰もいないときは、適当にバックヤードに置いておくようにって、言われているので……。バックヤードへ入ると、棚の上に、白いコートとブーツが置いてあるのが目に入ったんです。なんとなく、あの子のブランドで売ってそうな服だなって思って……。ほんとにそうだったのは、ついさっき気づきました。こういう服を着ていれば、マンションのそばをうろついていても、怪しまれないだろうなって思って。それで、盗みました」

 橘川の表情に、じんわりと、罪悪感がにじんだ。

「それから、何軒か配達先を回って……。あの子のマンションを通り過ぎたあと、少し走って、適当な場所に車を停めて、盗んだ服に着替えてから、徒歩で引き返しました。それから、暗証番号を適当に打ち込んで……」

「適当って?」

 佐野は眉をひそめた。「暗証番号が一致したのは、偶然だったってこと?」

 橘川は顔を上げた。

「エンジェルナンバーって、知ってます?」

 佐野と相原はすぐに返答が出なかった。

 橘川は続けた。

「昔からよくありますよね。7や8は縁起がよくて、4と9は不吉とか」

「ラッキーナンバー、みたいなものですか?」

 相原が言った。

「似てますけど、数字の羅列に、もっと具体的なメッセージがあてがわれているんです。『願いが成就する前兆』とか、『運命の出会いがある』とか。『扉が開く』とか、『鍵を手にする』とか、そういう意味合いの数字を入力したら、開きました」

 橘川はまた、うつむいた。

「マンションの中は静かで、モデルさんたちはおろか、事務所の人も、誰も歩いていませんでした。正面のエレベーターでまっすぐ屋上へ向かうと、本当に、あの子がいました。僕が後ろから近づいても、全く気づかずに。ずっと、手すりから身を乗り出して、下を覗き込んでいました」

 橘川は前を向いた。

「脚を持ち上げて、そのまま手すりの向こうに押しやりました。少しも抵抗はされませんでした。あの子は、自分の身に何が起きたのかも、分かっていなかったと思います」

「一昨日、私たちがお店に伺ったときのこと、覚えてますか?」

 佐野は言った。

 橘川は小さく頷いた。

「彼が言いましたよね。警察に相談してはどうかと」相原を示しながら、佐野はたずねた。「そういう選択肢は、なかった?」

「説明が——とても————」

 橘川は顔をこすった。

「正直、自分が何をしたかったのか、今でもよく分からないんです。服を盗んで、マンションにまで侵入して、何を言ってるんだって、思われるでしょうけど————」

 両手をどけた橘川の顔は放心していた。

「どのタイミングで、〝殺そう〟と思ったのかは、分かりません。でも、〝殺せる〟とは思いました。屋上で、あの子の後ろ姿を見た瞬間。半分、苛ついたし、半分、可笑しかったです」

「何が、可笑しかった?」

 落ち着いて、佐野はたずねた。

「羽にです。あの子がいつも背負ってる鞄についてるんですよ、羽の飾りが。ばかじゃねえのって思いました」

 橘川は、ほんのかすかに、嘲るような笑みを浮かべた。

「それで、近づいて、〝やってみた〟ら、〝できてしまった〟んです」

 橘川の顔がまた、糸が切れたように放心した。

「帰りの車を運転していたときにはもう、事の重大さに気づいていました。でも、考えないようにしていました。動揺して、事故ったら大変だとか、妙に冷静なことを考えたりして————」

 少しの間、取調室の中が、しんと静まった。

 体をぴくりとも動かさずに、橘川は言った。

「店に戻って、呑気な母の姿を見て、我に返りました」

 深く頭を落とし、声をふるわせた。

「申し訳ないことをしたと、思っています。本当に。償っても、償いきれないことをしたと————」

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