14 直感は、天使たちからのメッセージ

「打ち込んでるよね、これ」

 工藤の部屋の書斎で防犯カメラの映像を確認しながら、大槻は言った。「鍵なんて持ってないし、間違いなく暗証番号押して入館してる」

「でも、暗証番号は工藤さんしか知らないんだろ?」

 書斎の中央にある、デスクに背を向けて置かれたソファから、池脇が首を向けて言った。

「じゃあ、工藤さんがリヒト君の服を着て、暗証番号を使って入館した」

「なんでわざわざ」

「そりゃ、外部の犯行に見せかけるためよ」

「だったら、『暗証番号は自分しか知りません』なんて証言しねーだろ。『暗証番号が漏れたかも』って言った方が、外部の人間に疑いを向けやすくできるわけだし」

「と思わせるために、わざとそう言ったのかも……」

「いいや、防犯カメラの映像を見るかぎり、昨日の夜から、今日の二時過ぎまで、工藤律子は一度もマンションから出ていない」

 大槻の隣で映像を早送りしながら、倉沢が言った。「外部犯のふりをするために、一旦マンションから出て、リヒトの服を着て入館して、犯行後にリヒトの姿で退館したあと、もう一度入館して、エントランスから飛び出してくるのは、工藤律子には不可能」

「スタッフの姿を装って出入りした、とか」大槻は言った。

「それも無理。事件直後に、リヒトの服を着た人物が退館。その数分後に、工藤律子が退館。その間、マンションを出入りした人物は誰もいない。工藤がリヒトの服を着て退館したなら、もう一度マンションに戻ってくることはできない」

 倉沢はさらに映像を早送りした。

「そのあと、警察がかけつけるまでの間も、マンションに入館した人は誰もいない。つまり、なんらかの方法で暗証番号を入手して、リヒトの服を着て正体を隠し、エントランスの出入りはできたとしても、再び入館することは不可能。この時マンションの中にいた人たちには、外部犯を装うことはできない」

「じゃあやっぱり、暗証番号が誰かに漏れたか、工藤さんが、共犯者に暗証番号を伝えたのかなぁ……」

「それ、暗証番号じゃなく、部屋番号だったりしない?」

 ソファの背もたれから、本村が顔を出した。「工藤さんか星来さんが中からロックを解除して、共犯者を招き入れた、とか」

「部屋番号の線で行くなら、譜久村美羽音本人が、客として犯人を招き入れた可能性もあるな」池脇は言った。

「部屋番号の線で行くなら、外にいたマカロニ・エンジェルのメンバーによる、単独の犯行も可能」

 デスクに頰杖を突いて、倉沢は言った。「前もって、自室のインターフォンの解錠ボタンにスイッチロボットを取り付けておけば、エントランスから自室の部屋番号を呼び出したあと、スマホの遠隔操作で扉を解錠できる」

「ない! それはない!」

 大槻は言った。「部屋番号で入館した可能性はない!」

「なんで」

 間の抜けた調子で、本村は言った。

「あのね、エントランスの集合インターフォンには、ICカードやICタグのリーダーが設置されてるの」

「あれ? でもここの電子キーって、鍵穴に差し込むタイプじゃなかった?」

「そうだよ。でも、事務所のスタッフさんが出入りする用に、IC系にも対応してるの。いーい? あの集合インターフォンにそういうスマート機能が搭載されているにもかかわらず、マカロニ・エンジェルの人たちは、毎日あんなごつい金の鍵を持ち歩いて、自室にたどり着くまでに、三回も操作盤の鍵穴にキーを差し込む作業を強いられるっていう生活をしてるんだよ? それはなんでかっていうと、マカロニ・エンジェルのメンバーが、現実をファンタズィーで演出しようとしてるからよ」

 大槻はパソコンを操作した。本村と池脇は、ふらりとデスクに向かった。

 画面に映る、集合インターフォンの操作盤を指しながら、大槻は説明した。

「このインターフォンで住人を呼び出すには、ここに! 並んでる! 音階ボタンを指示通りに押して! 短いメロディーを奏でなくちゃならない。リヒト君の服を着た侵入者が、このボタンを操作してる素振りはない。それに、中の住人と会話をしてるようすもなければ、スマホやスマートウォッチを操作してるようすもない。よって、テンキーで打ち込んでるのは、暗証番号としか考えられない!」

 部屋の中がしんと静まった。

 池脇はため息を吐いた。「オートロックは何個も設置してあるのに、なんで防犯カメラはエントランスの一台だけなんだよ」

「扉は何重にもしたいけど、プライバシーは侵害されたくないって理由らしいよ」

 頭の後ろで腕を組みながら、倉沢が言った。「工藤律子が、さっき警察の人と話してるの聞いた」


 本村たちは書斎を出た。

 リビングの広々としたソファに、ティーカップを手にした工藤が、ぽつんと座っていた。

「あの……防犯カメラの映像、見終わりました。ありがとうございました」本村は言った。

 工藤はそっと目線を向けた。

「あなたが、美羽音と最後に話した人……?」

「え……た、多分……」

「お昼頃に、商店街のカフェで話をしました」大槻が言った。「そのあと、美羽音さんが誰と会ったかまでは……」

「そう」

「あの、昨日の夜から、工藤さんはずっとマンションにいたんですよね?」本村はたずねた。

「ええ。昨日は、美羽音が警察に連れていかれて、いろいろとあったのよ」

 工藤は疲れた顔をしながらも、淀みなく、丁寧に言葉を紡いだ。「たくさん人と話をして、とっても疲れてしまったから、星来に、『誰とも繋がないように』と頼んで、今日一日中、気分がよくなるまで休んでいるつもりでいたわ」

「事件が起きたときも、この部屋に?」

「ええ」

「工藤さんは、一番最初に駐車場にかけつけていますよね? すぐに転落に気づいたのは、何か物音を聞いたからですか? 屋上で、争う声が聞こえたとか」

「いいえ。私は何も聞いていないし、何も見ていないわ。星来が呼びに来たのよ。私が休んでいると言ったのに、わざわざ部屋まで呼びに来たものだから、最初は、事務所の方で何かトラブルがあったのだと思ったわ。そうしたら、『サンルームの窓から、美羽音が落ちるのを見た』と……」

「それで、一緒に一階へ?」

「いいえ。下へ降りたのは私だけ。星来は、ずっとサンルームにいたと思うわ」

「怖くて、近づけなかったんですかね」大槻が言った。

「それもあるかもしれないわね。けど、あの子は何が起きても、下へは降りないから」

「何が起きても?」

 本村は言った。

「ええ。あの子にとって、外の世界は常に騒がしいところなの。誰かの悲鳴も、誰かのくしゃみも、同じように聞こえてしまう。私の部屋の前に来たとき、美羽音のことをとても心配したようすだったけれど、降りるという選択肢は、なかったはずだわ」

「工藤さん、オートロックの暗証番号は自分しか知らないと、警察に説明したそうですね」

「ええ。そうよ」

「断言できるのはなぜですか?」

「え?」

「番号が漏洩した可能性が、ゼロとは言い切れないですよね?」

 大槻も言った。「確実に漏洩していないと断言できる、理由があるんじゃありませんか?」

「……理比人を……信用していないわけでは、ないのだけど……」

 目を伏せて、工藤は言った。「私には、子どもたちを守る義務、そして、安心して生活をさせるという義務があるわ」

「ええ、分かります」

 本村は言った。

「元々、暗証番号を誰にも伝えていなかったのは本当よ。でも、私の気づかないところで、漏洩した場合や、なんらかの方法で解読された可能性があるかもしれない。理比人が部外者という位置づけになったこともそうだし、警察の出入りや、美羽音が事件に巻き込まれてしまったことも、私を不安にさせたわ。それで、今日、暗証番号を変更したのよ」

「今日?」

「ええ。一時四十五分くらいだったと思うわ。だからね、もしも犯人が暗証番号を入手していたとしても、一時五十六分、マンションに侵入した時間には、その番号は使えなくなっていたのよ。尤も————たった数分で新しい暗証番号を知ることができたというなら別だけど……」

「二日前の、朝のことなんですが」

 本村は聞いた。

「二日前? ああ、市井さんとかいう、お嬢さんが亡くなられた日ね」

「はい。その日の朝、美羽音さんがどこにいたか知りませんか?」

「サンルームにいたわよ」

 不思議そうに工藤は答えた。「特別なことじゃないわ。私たちは、朝はサンルームに集まってお茶を飲むのが日課だから」

「サンルームでは、音楽がかかっていましたか?」

「いいえ。朝は静かに過ごすの。なぜ?」

「その日の朝、音楽を聴いたって言うんです、美羽音さん。何か心当たりはありませんか?」

「この階に、楽器の置いてある防音室があるけれど……」

「そこは、誰でも入れるんですか?」大槻が聞いた。

「ええ。住居階の鍵さえあれば。美羽音はピアノを弾くし、理比人も……いなくなる前は、よくそこでトランペットの練習をしていたわ」

「その日の朝、サンルームに集まったとき、何か変わったことはありませんでしたか?」本村は聞いた。

「いいえ。えると矢弦が仕事で不在だったけれど、それを除けば至って普段通りだったわ。萌苺が寝坊して遅れて来たけれど、それもここ最近じゃいつものことよ」

「誰かが、羽のヘアピンを身につけていた覚えはありませんか?」大槻がたずねた。「もしくは、どこかの部屋で見た、とか」

 力なく、工藤は笑った。

「市井さんが事故に遭った日、初めて刑事さんがここを訪れてから、もう何度もそれについて質問されたわ」

 工藤はティーカップをテーブルに置いた。「あのヘアピンがうちの商品でないことは確かよ。私の知るかぎり、誰かがあのヘアピンを身につけていた記憶も、それについて話していた記憶もないわ」

「あの、美羽音さんの部屋を見せていただくことはできませんか?」本村はたずねた。

「ええ————そうだわ」

 工藤は立ち上がり、書斎の方へ向かった。それから、金色の大きな鍵を手にして戻った。

「使ってちょうだい。これで防音室にも入れるわ」

「これ、工藤さんの鍵ですか?」

「いいえ、マスターキーよ」

「これ、いつも書斎に?」大槻がたずねた。

「ええ」

「鍵つきの金庫とかに?」

「いいえ。ただの壁掛けのキーボックスに入れてあるだけだけど」

 そう言ったあと、工藤は何かを察したように小さく笑った。

「昨日の夜、部屋に戻ったあと、中を確認したときには、このマスターキーはちゃんとキーボックスの中にあったわ。それから事件が起こるまで、私は一度も部屋を出ていないし、誰も部屋に招いていない。私の就寝中に、誰かが部屋に侵入してマスターキーを盗みだした可能性はゼロではないけれど……だとしたら、事件のあとでご丁寧にキーボックスまで返しにくるなんて、リスクが高すぎるでしょう?」

 本村は両手で金の鍵を受け取った。

「あの、いろいろ協力してくださって、すっごい信用してもらえてるのは有難いんですけど」大槻が言った。「僕ら実際、警察の人間でもなんでもなくて————」

「あなたたちが社会的にどういう立場であるかは、私には関係のないことだわ」

 きっぱりと、工藤は言った。

「ただ、私には分かるの」

 それから、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「美羽音は、あなたたちの力になりたかったのよ」



 防音室の扉を開けると、大貫矢弦がピアノを弾いていた。

 でたらめに鍵盤を打ち叩き、不協和音を響かせている。

「こんにちは」

 本村たちの気配に気づき、体をそらせて矢弦は言った。口元だけが笑っていた。

「工藤さんに、鍵を借りて……」本村は言った。

「そう」

 ポーンと、鍵盤を一つ、矢弦は打ち鳴らした。

「俺、ピアノ弾けないんだよね」

「僕もです」

「カメラを向けられると笑っちゃうし、服のデザインも浮かばない」

「…………」

「なんにもできない」

「…………」

「君たちはどこから来た人?」

「美羽音さんと、亡くなる前に話をしました」

「ふーん」

「美羽音さん、何か言ってませんでしたか?」大槻がたずねた。「今日の午後、誰かと会う約束をしていたとか」

「さあ。美羽音はいつも気まぐれだから」

「今日の二時頃、矢弦さんはどこにいましたか?」本村はたずねた。

「散歩。公園行ったり、駄菓子屋行ったり、ふらふらしてた。証明してくれる人は、誰もいない。どうしよう」

 矢弦はいらずらっぽい笑みを向けた。

「矢弦さんは、この部屋によく来るんですか?」

「ううん。さっきすごい久々に来た」

「二日前の朝、美羽音さんがこの部屋に来たかどうか、知りませんか?」

「いいや」

 不思議そうに、矢弦は言った。「そんな話は聞いてないけど。なんで?」

「二日前の朝、羽のヘアピンを身につけた人物と会っていた可能性があるんです」

 大槻が言った。「音楽が聴こえる場所で」

「ああ、それ、さっき刑事さんも言ってたな」

 矢弦は腕組みをして考えだした。「羽のヘアピンを見なかったかって」

「覚えはありませんか?」

「ぜんっぜん」

「三日前、美羽音さんと一緒に、天藤さんという方のお宅を訪ねてますよね?」本村は言った。

「ええっ」

 矢弦は顔中にしわを寄せた。「三日前でしょ? 何軒目の人かな?」

「家の裏手が、お寿司屋さんの————」

「ああ! 思い出した! 天藤さん!」

 矢弦は、矢を射るように人差し指を向けた。「確か、おじいさんが亡くなったばかりだったんだよ」

「天藤さんの家へは、どうして行ったんですか?」

「話を聞きに。あの日は美羽音と待ち合わせして、何軒か回ることになってたんだ」

「天藤さんのおじいさんが亡くなられたことは、知ってたんですか?」

「いいや。訪問する家は、いつもふらふらさんぽしながら、適当に決めるから」

「家の中に、入ったりしました?」大槻が聞いた。

「家の中に? いや、なんで?」

「じっくり話を聞くために、とか」

「そんなことしたら迷惑でしょ。玄関先でちょっと話しただけだよ」

「美羽音さんは、ずっと一緒にいましたか?」本村はたずねた。

「うん。俺とずっと一緒にいたよ」

「一秒も離れずに?」

「うん。一秒も。二人で一緒に、話を聞いた。天藤さん、平気な顔して、おじいさんの話をいろいろしてくれたけど……」

 腕組みのまま、矢弦は思い起こしていた。

「おじいさんのことは、考えてなかった」



 エレベーターで、美羽音の部屋がある五階まで降りると、脇にある階段に、萌榴と萌苺が並んで腰かけていた。揃いのバックパックを胸に抱き、暗い表情でうつむいている。

 大槻が先に二人のそばへ行き、しゃがみ込んだ。

「お話を聞かせてもらえませんか?」

 安穏とした笑みを浮かべて、大槻はたずねた。

「お話?」

 ぽつりと、萌榴は言った。

「いつも、町のみなさんにお話を聞くのは、きっと意味があるからですよね?」

 後ろから、静かに、本村が聞いた。

「話せば、少しは……」

 瞼をこすりながら、萌苺が言った。「気づきや、癒しを、得られるかもしれないから」

「じゃあ今日は、僕らに話を聞かせてもらえませんか?」大槻は言った。「気づきや、癒しを、得られるかもしれない」

 萌榴と萌苺は、二人揃って、小さく頷いた。

「今日の二時頃には、どんなことがありましたか?」

 大槻はたずねた。

「パンケーキ食べた。カフェで」

 萌榴は言った。

「ザクロとベリーのパンケーキ。スタッフさんたちとシェアして食べた」

 萌苺は言った。

「二日前の朝、サンルームでは、どんなことがありましたか?」

 大槻はたずねた。

「四葉ちゃんが、みんなにお土産をプレゼントしてくれた」

 萌榴は言った。

「お土産?」

 本村が言った。

「入浴剤とか、クリームとか、いい匂いのするやつ」

 萌苺は言った。

「お土産の中に、ヘアピンは入ってなかった?」

 大槻はたずねた。

「入ってない」

 萌榴は言った。

「サンルームでは、すてきな音楽がかかっていた?」

 大槻はたずねた。

「音楽?」

 途端に、萌苺が眉をひそめた。「そんなのかかってない!」

 二人はまた、しゃくりあげながら泣きだした。

「め、萌榴さんと萌苺さんって、なんだか双子みたいですよね!」

 慌てて本村が言った。

「名前も似てるし。一緒に活動してるのって、すごい運命的ですよね」

 大槻も言った。

「誕生日も近いの」

 顔を上げて、萌榴は言った。

「よく見たら顔は似てない」

 顔を上げて、萌苺は言った。

「これも、ザクロとイチゴって感じで、二人のイメージに合ってます」

 赤い果実が二つ並んだようなデザインの、揃いのキーホルダーを指差して、本村は言った。

「これ、マカロニ・エンジェルのものですか?」

 大槻はたずねた。

「ううん。これは四葉ちゃんがくれたの」

 萌榴は言った。

mel moiメル・モイラインができたとき、お祝いにって」

 萌苺は言った。

 二人は同時に、涙をじわりと滲ませながら言った。

「四葉ちゃん……すごく悲しんでる」



 マスターキーを使い、美羽音の部屋の扉を開けると、リビングの中央に、幸坂四葉がへたり込むようにして座っていた。

 背中に薄いランドセルを背負ったまま、真っ赤な泣きはらした目で、まっすぐに壁の方を向いている。

 本村が歩み出た。

「あの……工藤さんの許可を得て————」

「あなたたちが救ってくれるの?」

 へたり込んだまま、振り向いて、四葉は言った。

「美羽音ちゃんを殺した犯人を、捕まえてくれるの?」

 本村たちが黙ったままでいると、四葉は静かに向き直った。

「もし、犯人が見つかっても、私————」

 四葉は声を絞りあげた。

「その人を許してあげられるか、分からない————」

 本村はまた、歩み出た。

「四葉さん、今日の二時頃、どこで何をしていましたか?」

宮の城みやのしろ公園で、考えごとしてた」

 淡々と、四葉は答えた。「昨日、美羽音ちゃん、警察から帰って、すごく傷ついてた。まさゆきくんとも、離ればなれになっちゃって。どうしたら元気づけてあげられるか、考えてた。私のアリバイを証明してくれる人は、誰もいない」

「二日前の、朝のことについて聞きたいんです」

「二日前の朝? どうして?」

「二日前に亡くなった、市井明日見さんが握っていたヘアピンのことです。美羽音さんはそのヘアピンを、その日の朝、音楽が聴こえる場所で見たと言っていたんです」

「その日の朝なら————」

 四葉はきりりとした表情で考えはじめた。

「私ちょうど、八階のエレベーターの前で、美羽音ちゃんと鉢合わせしたの。私はエレベーターを出てサンルームに向かうところで、美羽音ちゃんもサンルームに行くために、階段を上ってきたところだった」

「上ってきた? 防音室のある九階から、下りてきた可能性は?」

「ううん。間違いなく下の階から上ってきてたよ。美羽音ちゃん、住居階のエレベーターはほとんど使わないの。毎朝、この階からサンルームのある八階まで、階段で行くから」

「それまで誰かと防音室にいたとか、そんなようなことは言ってませんでしたか?」大槻が聞いた。

「ううん」

「そのあとは?」本村は言った。

「それで、二人で一緒にサンルームに行って……。仕事でいなかったえると矢弦と、寝坊した萌苺以外は、みんな揃ってた。お茶を飲んでしばらくして、私、みんなのために用意したお土産を、部屋に忘れてきたことを思い出したの」

「それで、取りに行った?」

「うん。お土産を持って戻ってきたら、律子さんと、萌榴もいなくなってた」

「星来さんと美羽音さんは、一度もサンルームを出なかったんですか?」

「さあ……何も聞かなかったから」

「ねえ」

 一同が声の方を振り向くと、倉沢が、リビングの奥にあるドレッサーのそばに立っていた。

 ドレッサーの上には、ピアノの形をした置物があった。鍵盤の前に、小さな天使が座っている。倉沢は言った。「これ、例のオルゴールじゃない?」

「それ、いつだったか、えるが美羽音ちゃんにプレゼントしたの」

 四葉は言った。

「音楽って、まさかオルゴールのことだったんじゃ……」大槻は言った。

「二日前の朝、羽のヘアピンをした誰かが、この部屋に来た?」池脇は言った。

 本村はドレッサーの方へ向かった。

 ピアノの屋根の部分を開けると、繊細なメロディーが鳴り、鍵盤の部分が、メロディーに合わせて自動演奏のように上下した。屋根の下は布張りの小物入れになっていた。中には何も入っていない。

 ドレッサーの引き出しを開けると、厚紙や、ハート型の黒いメモ帳、音符の飾りがついたペンなどの文房具が入っていた。本村は振り向いた。

「四葉さん、美羽音さんが持っていたアクセサリーが、どこに行ったか知りませんか? 美羽音さん、ヘアピンをたくさん持ってるって言ってたんですが」

「ああ、そこは、メイク用のドレッサーじゃないの。美羽音ちゃんの、お祈り用のドレッサーだから」

 四葉は立ち上がると、本村たちを隣の部屋へ案内した。そこには、広々としたドレッサーや、クローゼットが備え付けられていた。ドレッサーの前のイスとは別に、中央に、小さなスツールがぽつんと置かれている。

 本村はドレッサーの方へ向かった。台の上には、いくつかの化粧品や、五線譜や音符の形をしたヘアアクセサリーがいくつも並んでいた。

「四葉さんは、この部屋に何度も来たことがあるんですか?」

「え、うん……時々お泊まりしてたから……。ここで、まさゆきくんと三人で、ヘアセットし合ったりして————」

 カチッと小さな音がして、本村は振り向いた。

 倉沢が、ドレッサーに置かれていたコンパクトを開いていた。

「化粧品かと思った」

 コンパクトの中には、簡易的な裁縫道具が入っていた。

「佐野さんが言ってた」

 池脇が言った。「譜久村美羽音が、三日前に手芸屋で裁縫道具を買ったって」

「もとむ」

 大槻が、ハンガーラックに掛けられたワンピースの布地をひっくり返しながら言った。

「ボタン、付け替えられてる。一個だけ、糸も留め方もちがう」

 大槻がワンピースの布を元に戻すと、フロントの金色のボタンには、大文字のAの字が羽を広げたような絵柄の、マカロニ・エンジェルのロゴが刻まれていた。

「それ、一着だけそこに掛かってたから、さっき私も気になって見たの」

 四葉は言った。

「ボタンが取れそうになって、留め直したのかなって思ったんだけど、これの————」

 四葉は、壁際に置かれた小さな箱の中から、マカロニ・エンジェルのロゴが入った袋を取り出した。

「付属の予備ボタンが一個減ってたから、どこかで失くしちゃったんだね、きっと」



 美羽音の部屋を出ると、廊下の奥の窓辺に、藍澤えるが佇んでいた。

「ごらん」

 本村たちがそばへ近づくと、窓の外を見上げながら、えるは言った。

「この澄んだ青空は、僕たちの世界と一緒だよ。星が瞬き、雲が移ろいゆく町並み。小鳥たちの営み。どこかへ飛んで、また舞い戻って。何を思って、どうしてその一生を終えるのか、分からないけれど————」

 えるは本村たちの方を向いて、微笑んだ。「僕たちの一生は、空合いと、その青と、同じことなんだ。だから人生は不規則に、楽しくって、悲しくって、恐ろしくも、美しい————」

「今日の二時頃、どこで何をしてましたか?」

 本村は聞いた。

「え?」

「アリバイがあるか知りたいんです」

 えるはくすりと笑った。

「撮影が終わって、車で移動していたところだったよ」

「スタッフさんが証人ということですね」

「そういうことになるね」

「美羽音さんの部屋にあったピアノのオルゴールのことなんですが」

「ああ、あれ」

 えるは驚きながらも、楽しそうに語った。「僕がプレゼントしたんだ。もうずいぶん前のことだけど」

「どうしてですか?」

「どうして?」

「名目はなんですか?」

「そんなものないよ」

 えるはまた、窓辺に向かった。「雛町の雑貨屋さんで、あのオルゴールを見つけたとき、ぴんと来たんだ。〝この子、美羽音のところへ行きたがってる〟って。だから僕が連れていってあげた。それだけのことだよ」

「美羽音さん、喜んでましたか?」

「多分、そうだといいけど。そういうことは、あまり聞かないようにしてるんだ」

 えるは微笑んだ。それから、ふと思い出したように言った。

「でも、大事なものを入れておくって、言っていたかな」



 八階のサンルームの扉を開けると、成願寺星来がテーブルに、焼き菓子の用意をしているところだった。

「どうぞ」

 にっこりと笑って、星来は言った。「お疲れになられたでしょう」

 うながされるまま、本村たちは中へ入った。入り口のそばには、大きな棚が置かれている。中には何も置かれていなかった。

 倉沢が一番乗りでソファに座り、ティースタンドからスコーンを選び取った。

「お飲み物は何になさいますか?」

 星来はたずねた。

「コーヒー」

 倉沢は言った。

「僕らも、同じものをお願いします」

 本村は言った。

 星来は返事代わりに微笑んで、キッチンへ向かった。

 サンルームは静かだった。

 静寂の中で、徐々に、コーヒーの薫りが漂ってくるのが分かった。

「あそこの棚には、何があったんですか?」

 入り口のそばを指差して、本村がたずねた。

「何も置いていませんわ」

 キッチンに立ったまま、星来は答えた。「その棚は、クローク代わりなんです」

「荷物置き場ってことですか?」

「ええ。ここへはみなさん、毎朝出かける準備をしてから、いらっしゃる方が多いですから。そこに荷物を置いて、このソファで寛ぎますわ」

 星来が、四人分のコーヒーを運んできた。

「他に何か必要なものはございますか?」

「星来さんは、いつもこのサンルームに?」

 本村は言った。

「ええ」

 少し目を丸くしながら、星来は答えた。「自室はちゃんとありますが。就寝時以外は、ここにいることが多いですわ」

「二日前の、朝のことを伺いたいんですが————できるだけ正確に」

「正確に?」

「誰が来て、誰が出ていったのかを知りたいんです」

 星来は暫しきょとんとした表情を浮かべたあと、トレイを抱えたまま、ソファに浅く腰かけた。

「わたくしが、一番最初にここへ来ましたわ。そのあとに萌榴さんが、その次に律子さん。そのあとで、四葉さんと美羽音さんが、同時にいらっしゃいましたわ。えるさんと矢弦さんはお仕事のため外出中で、萌苺さんはまだ就寝中でした」

「それから?」

「四葉さんが、みなさんにお配りするお土産を取りに、一旦自室へ戻られましたわ。そのあと、電話が鳴って、律子さんも部屋の外へ。萌榴さんも、萌苺さんを起こしに行くと言って出ていかれましたわ」

「星来さんと美羽音さんは?」

「ずっとここにおりましたわ」

「それから、みなさんが戻った?」

「ええ。四葉さん、律子さん、それから、萌榴さんが萌苺さんを連れて戻りましたわ。萌苺さんはとても眠そうでした。それから、萌榴さんと萌苺さんがお出かけになって、そのすぐあとに美羽音さんも。少ししてから、四葉さんもお出かけになりましたわ。わたくしと律子さんは、ずっとここに」

「今日の二時頃も、ずっとここに?」

 コーヒーに手をつけないまま、本村は続けた。

「ええ」

「いつ、転落に気づいたんですか?」

「〝その瞬間〟ですわ」

 微笑んで、星来は言った。「わたくし、あの時、窓際に立っていたんです。そうしたら、上から————。一瞬の出来事でしたが、ちゃんと美羽音さんだと分かりましたわ」

「それで、工藤さんに伝えに行った?」

「ええ。律子さんの部屋は一つ上の階でしたので、階段で行きましたわ。あの時、わたくしがエレベーターを使っていれば、犯人の顔を見ることができたかもしれません」

「工藤さんの部屋に着いてからは?」

「チャイムを鳴らしても、なかなか応答がありませんでしたわ。しらばくすると、怪訝な顔で律子さんは現れて。当然ですわ。その日は、『誰とも繋がないよう』にとおしゃっていたんですから、何事かと驚かれたのでしょう。わたくしが〝見たこと〟を説明すると、律子さんは慌てて、エレベーターで下に降りて行きましたわ」

「星来さんは、どうしたんですか?」

「サンルームに戻りましたわ」

 星来はにっこりと笑った。

「天使は悲しまないんですか」

 倉沢が言った。

「悲しみますわ」

 言って、星来は倉沢に微笑みかけた。「悲しみを、存分に味わっているんです」

「星来さん、あなたは」

 本村は言った。「美羽音さんの罪を隠そうとしてるんじゃありませんか?」

 星来は穏やかな笑みを浮かべていた。

「市井明日見さんが握っていた羽のヘアピン。あれは、美羽音さんの持ち物だったんじゃないかと、僕は疑っています。それから、杉之谷聖恵さんの遺体の近くには、まさゆきくんが血まみれで落ちていた。それに、先日、雛町で亡くなった男性の自宅からも、マカロニ・エンジェルのロゴが入ったボタンが発見されています。そして美羽音さんの部屋にあったワンピースには、ボタンを付け替えた形跡があった」

 星来は穏やかな笑みを浮かべていた。

「あなたは美羽音さんの転落を目撃し、工藤さんにそれを伝えたあと、美羽音さんの部屋に行ったんじゃありませんか? そして警察が来る前に、美羽音さんが、一連の事件の犯人である証拠を残してしまっていないか、確認をしておきたかった」

「わたくしにそんなことはできませんわ」

 余裕ある口調で、星来は言った。「美羽音さんはバックパックを背負ったまま転落したんです。いつも背負っている、羽つきのバックパック。美羽音さんの部屋の鍵は、その中に入っていたはずですわ。警察に聞けば分かることです。わたくしがこのマンションを出ていないことも、防犯カメラの映像を確認すれば知ることができるでしょう。鍵を手に入れられない以上、わたくしが美羽音さんの部屋に入ることはできませんわ」

「ええ、でも、工藤さんの部屋に入ることはできたはずです」

 本村は言った。「あなたは工藤さんの部屋へ行き、扉が開いたままで会話した。事情を聞いた工藤さんが慌てて下へ降りたなら、扉が閉められたかどうかも、見てはいないはずです。それから部屋に侵入し、このマスターキーを手に入れた」

 本村は金色の鍵をつまみ上げた。

「美羽音さんの部屋に入ったあなたは、証拠となるものを見つけだし、持ち出した。それから工藤さんの部屋へ行き、マスターキーを元に戻し——」

「目に映るものを、持っておいでですか?」

 静かに、星来は言った。

「え?」

「それがないと、あなた方は、〝わたくしがそのようなことをした〟と、信じることさえできないのでしょう」

「星来さん、僕は、美羽音さんを死に追いやった犯人を見つけだしたいだけなんです————」

「死んでいません」

 力強い口調で、星来は言った。

 それから、微笑んで、繰り返した。

「美羽音さんは、死んでなんかいませんわ」

「はい。そうです」

 本村は言った。

「今も、きっとどこかで、僕らを見守ってくれているんだと思います」

 星来は超然としていた。

「美羽音さんは僕らにヒントをくれました。すべてを口にしなかったのは僕らのためです。僕らに、謎解きを楽しんでもらうために。お願いします」

 本村は言った。

「美羽音さんが、僕らのために残してくれた手がかりを、消さないでください」

 星来は視線を落とした。

 それから、焼き菓子を食べ終え、コーヒーを飲んでいる倉沢に微笑みかけた。

「お菓子は、お口に合いましたか?」

 倉沢はカップを口につけたまま、ゆっくりと身を引いた。

「わたくしは部屋へ戻ります」

 星来は立ち上がり、エプロンをはずした。

「お菓子が足りないようでしたら、まだ————」

 星来はキッチンの方を指差した。

 それから、本村たちとは目も合わせずに、静かにサンルームを出ていった。

 本村たちは立ち上がり、キッチンに向かった。

「何を探せばいいわけ?」

 整頓された作業台を見渡しながら、大槻が言った。キッチンでは、ピンクがかったオレンジ色の、銅製の小鍋やフライパンが規則正しく並び、淡い輝きを放っている。

 ガラスのケーキスタンドや、ガラスポットの中にも、出来上がったパンや焼き菓子が保存されていた。倉沢は、ドーム型のガラス蓋を持ち上げて中の焼き菓子を頬張った。

「どんだけ焼いたんだよ、これ」

 ケーキクーラーの上に並んだ大量の焼き菓子を見ながら、池脇は言った。

「気ぃ使ってくれたのかな? 警察がいっぱい来るからって」大槻は言った。

 本村は、二台並んだ冷蔵庫の、片方を開けた。

「やだぁー。人んちの冷蔵庫あさるなんて」

 横から、しっかりと中を覗き込みながら、大槻が言った。中には、肉や野菜や調味料などありふれた食材が、きちんと整理された状態でしまわれている。

 本村はもう一台の冷蔵庫を開けた。中には、牛乳、バター、卵、フルーツやチョコレートなどが入っていた。

 本村は奥の方にしまわれている、丁寧に包装紙とリボンがかけられた、細長い包みをひっぱりだした。それから、リボンを解き、無造作に包装紙を開いた。

「もとむ、これはだめじゃない?」

 大槻が言った。

 包みの中は、光り輝く金色の袋でさらに覆われていた。

 本村は、しっかりと封がされた袋の口を容赦なく引きちぎろうとしていた。

「は、かない……」

「ほい」

 倉沢がキッチンバサミを差し出した。

 それを受け取ると、本村は細長いの袋の端を切り落とした。

 反対側を手で押し出すと、開いた口から、にゅるりと、黒々とした物体が顔を出した。

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