12 好きという気持ちを手放してはいけない

 アーチ型の門の前には、すでに人だかりができていた。

 佐野と相原が門をくぐると、ホワイトヘブンマンションの駐車場の一角には、すでに目隠し用のシートが張り巡らされていた。

 捜査のため、開け放たれたままのエントランスから、所轄署の刑事がかけつけて来て言った。

「屋上からと思われます。この周辺を散歩していた近所の住民が、転落の瞬間を目撃していました」

「時間は?」

 駐車場の方に目を向けながら、佐野はたずねた。

「二時頃だそうです」

「直後に、マンションから出てきた人物は?」

「いえ。転落の目撃者がいた場所からは、マンションのエントランス側は見えなかったそうなんですよ。警察に通報したあとも、怖くてマンションには近づいていないと。マンション内にいた者たちも同様で、事務所のスタッフは、不審な物音を聞いて窓の下を覗き、遺体を発見しましたが、パニックですぐには下に降りられなかったそうです。マカロニ・エンジェルの代表、工藤律子は、転落に気づいて一番最初に現場にかけつけていますが、それも、転落後五分以上は経っています。一階に人が集まりだしてからも、場は騒然としていましたし、被害者が外部の人間に突き落とされたのだとすれば、犯人が混乱に乗じてエントランスを抜ける隙や時間は、十分にあったと思われます」

 居た堪れない表情で駐車場を見つめ、息をついたあと、佐野は気を引き締め、エントランスの方を向いた。

「あれは、どうだった?」

 扉の外の防犯カメラに目を留め、佐野は言った。

「それが……」

 刑事は苦々しい表情を浮かべた。

「ここのオーナーは工藤律子で、防犯カメラの映像を管理しているのも、工藤律子なんですが、あのようすじゃとても……」

 刑事は首を振った。「今、マカロニ・エンジェルのメンバーを、上のサンルームに待機させているんですが……」

「分かった」

 佐野たちはエントランスを抜け、マンションのロビーへ入った。

「このマンションには、何重にもオートロックが設置されています」

 刑事は説明した。

「エントランスに一つ。一階には、こちらのオフィス用のエレベーターと、あちらの、住居用のエレベーターホールがあります」

 刑事は、エントランスの脇にあるエレベーターと、正面の短い階段を上った先にある、開け放たれた扉を指した。

「オフィス用のエレベーターは誰でも利用可能ですが、住居用のエレベーターホールは、住人が持っている専用の鍵がないと開きません」

「じゃあ、事務所のスタッフなら、オフィス用エレベーターから誰でも屋上へ行くことができた?」相原がたずねた。

「いいえ。オフィス用エレベーターは、完全に四階止まりなんです。たとえ事務所のスタッフでも、五階から上の住居階に行くことはできません」

 佐野たちは、今は開け放たれている住居用のエレベーターホールへ向かった。その先には、何もないがらんとした廊下が続き、突き当たりに、エレベーターが一台設置されている。

「住居用エレベーターは、五階まで直通、そこから上は屋上まで各階止まりです」

 エレベーターに乗り込むと、刑事は階数ボタンの『R』を押した。

 屋上のエレベーターホールに出ると、横手にある出口から外の景色が見えた。扉は開け放たれている。

 屋外はまだ鑑識作業中のようで、佐野たちは扉のそばから外のようすをうかがった。

 屋上はまるで雲の上のようだった。

 足元には、綿菓子のような素材でできたベンチやオブジェが敷き詰められ、上からは、今は灯っていない星型のライトがいくつも吊るされている。

 刑事は扉に取り付けられた、古墳型の鍵穴とテンキーを指した。

「ここまでたどり着いたとしても、実際に屋外へ出るには、また、例の住人専用の鍵が必要になります」

「なるほど。エントランス、住居用エレベーターホール、そしてこの扉。屋上へ行くには、三つのオートロックを突破しないといけないってわけか」佐野は言った。

「転落時、住居階には誰が?」相原が聞いた。

「工藤律子と、モデルの成願寺星来の二人だけです。その他のモデルたちは外出中でした」

「これが他殺だとしたら、単純に考えて、犯行が可能なのは鍵を持ってるその二人だけってことか」佐野は言った。

「仮に、外部の人間による犯行だったとして————」

 相原が言った。「住人やスタッフが出入りする瞬間を狙い、後から滑り込む方法で、エントランスと住居用エレベーターホールを突破できたとしても、屋上にいる被害者に近づくために、誰かがこの扉を出入りする瞬間を辛抱強く待っていた、なんていうのは、あまり現実的ではありませんね。マカロニ・エンジェルのメンバーが、日に何度も屋上に出入りする習慣がある、というなら別ですが」

「被害者がたまたま屋上へ向かったため、それを追いかけてこの扉を突破し、突き落として殺害、というのが妥当かね」

「もしくは、屋上から被害者が出てこようとしたところを、押し入って殺害、とか」

「それか」

 佐野は言った。

「被害者が、犯人を屋上まで招いたか」


 サンルームの窓際で、工藤律子は床に這いつくばって泣き叫んでいた。

 そばには数人の警官と、悲しげな表情で工藤を見下ろす藍澤えるの姿があった。手の施しようがないというふうに、力なく立ち尽くしている。

 鈴掛萌榴と鈴永萌苺はソファに身を寄せ合い、バックパックを抱きしめながら泣いていた。

 幸坂四葉は泣き腫らした目で、呆然とソファに座っていた。隣に座る大貫矢弦も、やりきれないというふうだった。

 成願寺星来はキッチンの奥から、一同のようすを見つめていた。

 佐野たちがサンルームへやって来ると、星来はかすかに微笑みかけた。

 えるも、佐野たちの姿に気づいて顔を向けた。その目は救いを求めるようだった。

 佐野は宿敵と対峙でもするかのような堂々とした動きで広いソファを周り、窓際へ向かった。

「工藤さん」

 佐野はしゃがみ込んだ。

「お気持ちはお察しします。ですが今は、一刻も早く防犯カメラの確認をしなくては」

 工藤は床にうずくまったまま、ふるえていた。

「工藤さん」

 佐野は繰り返した。

「力を貸してください」

 工藤はほんの僅かに顔を上げた。佐野は続けた。

「今、我々が何かをしたところで、譜久村さんが戻ることはないでしょう。ですが我々は、こういうやり方でしか秩序を守れない。誰かを癒すことも、見送ってやることもできないんです」

 工藤は垂れた髪をかきあげながら、ゆっくりと起き上がった。それから、見慣れているはずのサンルームを見まわした。

「律子さん」

 えるが手を貸した。

 四葉もソファから立ち上がり、工藤の手を取った。

 えると四葉に支えられ、工藤は歩き出した。


 工藤は、階段で九階へ上がった。

 自室の前へたどり着くと、ドレスのポケットから、手のひらのサイズほどの、比較的大きな金色の鍵を取りだし、鍵穴に差し込んだ。キラキラとした電子音がし、ドアは開いた。

 工藤は書斎らしき部屋へ向かうと、ノートパソコンを開き、それを手早く操作して、防犯カメラの映像を再生した。

 佐野の指示で、当日の午後一時半からの映像が早送りで再生された。

 午後一時五十六分、マンションのエントランスに、白いロングコートと白いブーツ姿の人物が現れた。フードを深くかぶっているため、顔はよく見えない。

「これ……」

 四葉が言った。「理比人君じゃ……」

「誰です?」

 佐野はたずねた。

「二條理比人」

 落ち着いた口調で、工藤は答えた。「先月まで、マカロニ・エンジェルにいた者です。三日前、ここを出ていきました」

「そのコートとブーツは、間違いなく理比人のものです」えるが言った。「マカロニ・エンジェルで、数量限定で販売したもので、持っている人はそう多くはありません」

「彼がマカロニ・エンジェルを辞めた理由は?」

「もっとちがう町で、いろいろな人たちの助けになりたい、ということでした」工藤は言った。

「その時に、何かトラブルは?」

「いいえ」

「円満退職ということですか?」

「そういうことになるんでしょう」

「彼の引っ越し先は分かりますか?」相原が聞いた。

「いいえ」

「引っ越し先どころか……」

 不安げな表情で、えるが言った。「理比人とは、あれから一切連絡が取れないんです」

「先程、ここへ入るときに使った部屋の鍵」

 佐野は言った。「あれが、マンションの住人専用の鍵ですか?」

「ええ」

 工藤は金色の鍵を取り出した。「これ一本で、エントランス、エレベーターホール、自室、屋上、すべての扉を開けることができます」

「みなさんも同じものを?」

 佐野がたずねると、えると四葉はそれぞれ頷いた。

「もちろん、二條さんもこれと同じ鍵を?」

「ええ。ですが、彼の分の鍵はここを退去する際にちゃんと返却してもらっていますし、それに————」

 鍵を見ながら、工藤は言った。「こんなおもちゃみたいな見た目ですが、これは簡単に複製のできない電子キーなんです。わたくしの許可なく、合鍵を作ることはできません」

「では、入室用の暗証番号が外部に漏れた可能性はありませんか?」

「暗証番号を知っているのはわたくしだけです。業者はもちろん、この子たちにも————」

 工藤は、えるや四葉の方を見た。「教えたことはありません」

「佐野さん」

 スマホを手に、相原が言った。「本村君たちが」

「え?」

「さっき、譜久村美羽音と会って話したそうです。今、下に……」


「美羽音さんは……」

 いまだ騒然としているマンション一階のロビーで、本村は聞いた。

 佐野は首を振った。

「屋上からだって。今、他殺の線で調べてる」

「譜久村さん、何か言ってなかった?」

 相原が聞いた。「これから誰かに会う、とか」

「いいえ」

 大槻は言った。「俺らが話したことは、警察の事情聴取の内容と、ほとんど同じだと思います……」

「ヘアピンを、どこかで見た気がするって言ってました」

 本村は言った。「市井明日見さんが亡くなった日、音楽が聴こえる場所」

「なんだその、具体的なような、そうでないような」佐野は顔をしかめた。

「譜久村さん、昨日はそんなこと言ってなかったよ?」相原は言った。

「でも今日は言ってたんです」

「他殺の線で調べてるってことは」

 じと目になって、倉沢が言った。「建物から立ち去る怪しい人物がいたんだ」

 相原がため息とともにスマホを取り出し、一人のマカロニ・エンジェルの写真を見せた。

「『二条理比人』。三日前まで、ここに住んでたらしい」佐野は言った。「現在消息不明」

「へぇー。マカロニ・エンジェルにこんな子いたんだ」大槻が言った。

「何かトラブルがあって、マカロニ・エンジェルをやめさせられたんですか?」本村は聞いた。

「いいや、社長は本人の希望による円満退社だって言ってるけど」

「俺————」

 腕組みをしながらタブレットを覗き込んでいた池脇が、言った。

「こいつ知ってます」



「りっちゃんなら、ずっと俺らといましたよ」

 酉飾町にある老舗ライブハウス『ドーナツホール』の楽屋で、scapulaスカプラのメンバー、ワカメは棒立ちのまま言った。

「ずっとって?」

 佐野はたずねた。

「今日は二時からリハだったんで、その少し前くらいから」

「じゃあなんで今はいないの」

「弁当買いに行ったんです。もうすぐ帰ってくると思いますよ」

「リヒトって子は、楽器得意なの?」

「りっちゃんのペットはマジ神ですよ」

 一人掛けのソファに悠々と座る、赤毛のメンバーが言った。

「ギターのアンリさんっす」

 池脇が佐野に小声で言った。

「ペットって、トランペットのこと?」相原が聞いた。

「そうっす」ワカメが答えた。

「珍しいね。ロックバンドの楽器編成でトランペットなんて」佐野は言った。

「そうっすけど、うちは基本スカメタでやってるんで」

「スカメタ?」相原は言った。

「いろいろあるんすよ」池脇は言った。「オルタナとか、プログレとか」

「彼の、前の職場のことは知ってる?」佐野はたずねた。

「いえ」ワカメは言った。

「別に前世が何とかどうでもいいんで、俺ら」アンリは言った。

「りっちゃん、やっぱヤバいことやってたんすか?」

 棒立ちのまま、ワカメがたずねた。

「ヤバいこと?」

「俺らと大して年変わんないのに、りっちゃんすげー金持ちなんですよ。バイトもしてないのに、いい家住んで、飯も健康的なの食べて、服もメイク道具もハイブラで、空いてる時間は全部音楽やって、みたいな。入ってきたばかりの頃なんか、俺らがビンボーだと察したのか、やたら奢ってくれようとするんですよ。『施しとかいらねーから』って言ったら、もう言ってこなくなりましたけど」

「りっちゃん、心配になるくらいいい子なんですよ」

 アンリは言った。「多分、俺らが『困ってる』って言えば、助けてくれるだろうし、本当は、全部投げ売って、俺らと一緒にカツカツでアホみたいな暮らしがしてみたいって、変な憧れ持ってるんですよ。『いや、貯金は大事だよ』って、冷静に言いましたけど」

「ただいま〜」

 弁当屋の袋を手にした、黒髪の青年がやって来た。

 青年は佐野たちを見ると、戸惑いながらも、優しげに微笑んで会釈した。

「リヒトォー、約束じゃーん」

 ワカメはリヒトの方へゆらゆらと近づくと、軽く体当たりした。「俺たち、絶対悪いことはしないって」

「そうそう。バンドマンなんてただでさえイメージ悪いんだから」ソファに座ったまま、他人事のようにアンリは言った。

「え、何? なんの話?」

「二條理比人さん?」

 佐野はたずねた。

「え……」

 リヒトは、純朴そうな顔を向けた。

「そう……ですけど」


「マカロニ・エンジェルのことは、大好きでした」

 丸いパイプイスに小さく座り、リヒトは言った。

 ワカメとアンリは部屋を出ていた。

「ホワイトヘブンでの生活も、メンバーのみなさんのことも、嫌いになったことはありません」

「じゃあ、どうして脱退を?」

 佐野はたずねた。

「ヴィジュアル系に、なりたくて」

 リヒトは言った。

「こういう衣装を着て、こういうメイクをして、こういう音楽をやりたい。こういう世界観を作りたいって、自分の部屋でV系の動画を見ながら、毎晩思ってました。最初は悩みました。だって、マカロニ・エンジェルのことも好きだったから……。でも、どうしてもあきらめきれなくて……」

「これ、見てもらえますか?」

 相原が防犯カメラの、白いコートの人物の写真を見せた。

「どなたですか?」

「分かりません。この服に、見覚えは?」

「マカロニ・エンジェルの服と靴だと思います。僕も、同じのを持ってました」

 緊張感を漂わせていたリヒトの表情が、ふと、和らいだ。「すごいですね、この人。この服、限定数十着しか作ってなくて、持ってる人、少ないんですよ」

「あの、リヒトさん」

 後ろから、本村が顔を出した。「『同じのを持ってました』っていうことは、今は……?」

「ああ、マカロニ・エンジェル時代の物は、このトランペット以外、すべて処分してしまったんです」

 足元に置かれたトランクケースを見て、リヒトは言った。「雛町商店街に、『天使の館』っていう、不用品回収のお店があるんですよ。あの服には、結構思い入れがあったので、なかなか捨てられなくて————。天使の館は、そういう物の処分代行をしてくれるんです。そこに預けました」

『天使の館』の名前に、佐野と相原は眉をぴくりとさせていた。

「あの、この人……」

 おずおずと、リヒトは聞いた。「どうかしたんですか?」

 一瞬、佐野は躊躇った。

「いずれ、分かることでしょうが……」

 佐野は言った。「つい先程、譜久村美羽音さんが亡くなりました」

「…………え?」

「まだ断定はできませんが、この写真の人物が、譜久村さんの死に関与していると見ています」

「美羽音さんは、殺されたってことですか?」

 必死なようすで、リヒトはたずねた。「マカロニ・エンジェルのみなさんは?」

「相当、ショックを受けているようで……」

 佐野が言うと、リヒトはもどかしそうに、両手を組んでうつむいた。

「すみません、本番前に、動揺させるようなことを」

「いえ……」

 リヒトは首を振った。「あの、僕のこと、マカロニ・エンジェルのみなさんには……」

「どうしてですか?」

 本村はたずねた。「確かに方向性はちがいますけど、でも、リヒトさん、何も悪いことはしてないです」

「はい、多分————絶対。マカロニ・エンジェルのみなさんなら、今の僕の姿を、素敵だって言ってくれると思います」

「じゃあ、どうして……」

「僕は本当に、マカロニ・エンジェルが好きなんです。だから」

 リヒトは何もかもを受け入れるような、泰然とした笑みを浮かべた。

「あの人たちの世界を、壊したくはないんです」

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