9 風の声をきく
所轄署の刑事と共に、
「よろしければ、ホテルまでお送りしますよ」
刑事は言った。
「いえ、あの……」
申し訳なさそうに、雅美は言った。「実はまだ、宿泊先も決めていなくて……。いろいろとありすぎて、ちょっと疲れてしまったので、近くで喫茶店でも探して休もうかと。帰りは、タクシーを拾いますので」
「そうですか。では、後ほどご連絡を」
刑事が乗り込むと、車はすばやく出発した。
雅美と友子は振り向いて、立派な和風家屋を見上げた。
「はぁ……。父さんたちに、なんて説明すればいいんだよ……」
ため息とともに、雅美はつやつやの丸い顔をこすった。
「あなたほんとに知らないの? その、聖恵さんて人」
雅美に寄り添うようにして、友子は言った。
「うん……。
「ご家族が亡くなったときも、一切連絡が来なかったの?」
「うん……。ほとんど絶縁状態だったし。残されたのがその聖恵さんって人だけだったとしたら、俺たちのこと、知らなくて当然だよ」
「遺産は、どうなるの?」
「遺産?」
「だってすっごい成金だったって、お義父さん、昨日話してたでしょ?」
「それは……知らないけど……。御遺体だって引き取るつもりもないって言ってるのに、金だけはもらいますなんて言うわけないだろ、あの頑固オヤジが」
「もおぉ、あなた説得してよぉ」
友子は雅美の二の腕を叩いた。
「いやだよぉ……それに……」
雅美は再び家屋を見上げた。「ほんとに金持ちだったのか? この家」
友子も眉をひそめた。「立派は立派だけど、なんか寂れた感じよね」
「あの」
ふわりとした声がして、雅美と友子は振り向いた。
白いワンピースを着た、ツインテールの若い女だった。
「聖恵さんの、ご家族の方ですか?」
「ええ……まあ……」
参ったような顔をして、雅美は言った。「僕、いとこに当たるらしいんですが、何せまったく面識がな————」
「おたくどなた?」
雅美を遮って、友子は言った。
「あ、申し遅れました。私、マカロニ・エンジェルというライフスタイルブランドの者です」
「マカロニ?」
「エンジェル?」
「はい。突然のことで、いろいろと大変だとは思いますが、少しお時間よろしいでしょうか?」
「ライフスタイルブランドって? なんなの? 聖恵さんが何か買ったの?」
厳しい口調で、友子は言った。
「いえ、私も、生前の面識はありません。でも、悲しいお気持ちは、お二人と一緒です」
雅美と友子は顔を見合わせた。女は続けていた。
「生きていれば、『死』はどこにでも転がっているんです。空の上、海の上、森の中、街の中、暖かい縁側の上にも。この世は、音楽ホールと一緒なんです。風のざわめきや川のせせらぎ、鳥のさえずりがあるだけで美しいはずなのに、上等な楽器を用意して、たくさん練習をして、壮大なメロディーを奏でたりする。私には、聖恵さんと過ごした思い出がありません。でも時々、目に見えない聖恵さんのことを思うんです。聖恵さんは庭の掃除をしているか、猫と遊んでいるか、ソファの脇に飾る置物を選んでいるかもしれません。大切な人を失っても、お二人はどこも欠けたりしません。失くしものをするくらいで不幸になる世界なら、神様は最初から、何も産んだりはしないんです」
雅美と友子は固まっていた。
「失礼します」
女は深々と頭を下げた。
それから、ふわりと舞うように立ち去った。
「胃がん?」
池脇は言った。
「そう、だいぶ末期の」
佐野は言った。「外傷もなければ薬物も検出されなかったし。杉之谷聖恵の死に、事件性はないだろうって」
「それっておかしくないですか?」
倉沢が言った。「まさゆきくんは、玄関の前に血まみれで落ちてたんですよね?」
「それは……。譜久村美羽音が落としたんでしょ」
「実際そうなんすか?」池脇は言った。
「いいや、本人は否定してるけど」
「遺体の身元は、その杉之谷聖恵って人で間違いないんすか?」
「うん。家の中に残ってた指紋やDNAのほとんどが、遺体のものと一致したし」
「今朝、聖恵のいとこって人が署に来てくれたんだよ」相原が言った。「DNA鑑定に協力してもらったから、今はそれの結果待ちなんだ」
池脇、倉沢、佐野と相原は、岩月市内のカフェにいた。
「なかなか、数奇な境遇だったみたいよ」
カップに入ったコーヒーを、スプーンでぼんやりとかき混ぜながら、佐野は言った。
「聖恵さんすか?」
「うん。聖恵さんの両親は、元々他県の出身の人らしいんだけど、若い頃に株で大儲けして、莫大な資産を手に入れたらしい」
「バブルっすね」
「でも、それからは親戚のことを、『たかり屋だ』って罵るようになったんだ」相原が言った。「親戚は誰一人として、金の無心なんてしてないのに」
「あれだ。大金を手にして、急に周りが全員敵に見えちゃうやつ」倉沢は言った。
「それで、両親は親戚と縁を切るつもりで、幼い娘を連れて雛町にやって来たんだ」佐野は言った。
「それが、聖恵さんすか?」池脇は言った。
「いや、その子は聖恵さんの姉に当たる人。聖恵さんは三人姉妹の末っ子で、杉之谷家が雛町に越して来た数年後に生まれたの。だから、親戚は聖恵さんの存在すら知らなかったって」
「で、両親と姉たちは?」
「うん……。聖恵さんが二十一のときに、旅先で事故に遭って全員亡くなってる」
「聖恵さんだけが、助かった?」
「うん。近所で、当時のことを覚えてる人を、ようやく見つけてさ————」
「聖恵ちゃん?」
「ええ。ご家族のこと、何か覚えてませんか?」
「ご両親と、お姉さんが二人。貴恵ちゃんと
道子は警察の訪問に驚きながらも、つらつらと語った。
「三人とも髪を長くしてね、お人形さんみたいにきれいだったの。小学生の頃は、毎日お揃いの服着て登校したりして————。それにあの立派なお宅でしょ? 当時はみんな、あの子たちのこと嫌ってたの。お高くとまってるっていうか、浮世離れしてるっていうか……。向こうも、私たちに関心がないみたいな感じでね。休み時間になると、いつも窓際でぼーっとしてるの。今思うと、うらやましかったのよね、私たち。お金持ちのきれいなお嬢さんだもん。みんな子どもだったし、そりゃあ妬みの材料にもなるでしょ。あ、親同士は、ちゃんと交流があったみたいよ。ホームパーティーなんかに呼ばれてね、私たち、しぶしぶついていったんだから。食事が終わって、しばらくしたら、子どもは二階で遊んでなさいって。あの家、二階に、そりゃ広い子供部屋があるの。みんなそこに追いやられたんだけど……それでも遊ぼうとしなかったの、あの子たち。自分の家なのに、隅っこに三人固まって、ジュース飲みながら本読んでた。あれにはみんな呆れちゃって、誰もかまいもしなかったけど。だからね、聖恵ちゃんのことも、その家族のことも、大して知ってることはないのよ」
「聖恵さんのご家族が亡くなられたときのこと、覚えてますか?」
「あれー。うーん。いつだったかな。ひな祭りの前だったのは、覚えてるんだけど……。確か聖恵ちゃんが、二十歳過ぎのときだったかな。家族全員で海外旅行に行く予定だったらしいんだけど……。運良く……って言い方はあれだけど、聖恵ちゃん、その日体調をくずして、お手伝いさんと家に残ることになったらしいの。それで、旅行先で事故があって、聖恵ちゃん以外の家族は、みんな……」
佐野は頷きながら聞いていた。相原はメモを取っていた。
「あのあと……。聖恵ちゃんの家に、たくさんお客さんが来てね」
急に沈んだ面持ちになって、道子は言った。
「お客さん?」
「あれよ。『生前お父様にお世話になりました』とか、『何かお手伝いできることありませんか』とか、『お約束の件、どうなりました』とか、所謂そういうやつよ」
「あぁ……」
「どこからどう見ても箱入り娘だったから。ほとんど騙される形で、土地も株も失って……。あとから聞いた話じゃ、お手伝いさんの一人もグルだったって。本当はあの家も持っていかれるとこだったんだけど、うちのお父さんたちが説得して、なんとか取られずに済んだって。貯金も、一人で細々と生活していく分は残ってたみたいで。お手伝いさんは全員打ち切って、それからは、ずっと一人だったと思う」
「最近、聖恵さんの家に、小さいお子さんがいたような様子はありませんでしたか?」相原がたずねた。
「え?」
「いえ、家の中に、すべり台やジャングルジムがあったもので」
「ああ、あれは」
道子はくすりと笑った。「聖恵ちゃんのお母様。思い出の品、なんでも取っておくんだって。学校時代の教科書や工作はもちろん、赤ちゃんの頃のおくるみやらベビーシューズやら。だからね、あの家の子供部屋は、聖恵ちゃんたち姉妹が成人したあとも、ずーっとそのままなの」
「まあ、成人したあとどころか今の今まで手つかずだったわけだけど」
佐野はまだコーヒーをかき混ぜていた。
「それから聖恵さんは、ずっと隠居生活ってことっすか?」池脇は言った。
「うん。ろくに外出もせず、近所の人とも交流も持たず、末期の胃がんを患っていたはずなのに、通院歴すらなかったって」
「え、やば」
倉沢が言った。
「あの状態なら、吐血したのは一度や二度じゃないだろうって」
「それでも、病院に行かなかった?」池脇は言った。
相原が一枚の写真を取り出した。
同じ服装、同じ髪型をした三人の若い女が、豪華な雛飾りの前で正座している。写真は色褪せ、縁の部分がよれてボロボロになっていた。
「ご家族が亡くなる直前に撮った写真だと思う」
相原は言った。「アルバムは二階に何冊もあったのに、その一枚だけは、居間に裸で置いてあった」
写真に写る三人の女は、確かに日本人形のように美しかった。あまり年の差は感じられず、どれが末の妹の聖恵なのか、見当もつかない。
だがその傷んだ写真からは、杉之谷聖恵が〝時を止めた〟という事実が、はっきりと伝わった。
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