8 きらめきをさがしてみる
縁側のそばにしゃがみ込み、口元を手で覆いながら、佐野は、発見された老女の遺体を見つめていた。
目立った外傷は特にない。だが、吐き出された血の量は凄まじいものだった。
相原がかけ足でやって来た。
「やっぱり、家主の
「まだ、断定はできない?」
「昔から、近所の人とほとんど交流がなかったらしくて。特にここ数年は人目を避けるような生活だったそうで、お隣さんも顔がはっきりと分からないそうなんですよ。ただ、一人暮らしだったってことは確かだそうです」
「死亡推定時刻は?」
「ざっとですけど、十三時前後、ってところだそうです」
「譜久村美羽音は、ここの家主と顔見知りだったの?」
「いえ、全く面識がないそうです」
「じゃあ、どうしてこの家に?」
「まさゆきくんがいなくなったらしいんですよ」
「誰」
「もう忘れたんですか? ほら、ペーパーショップの店長さんが言ってたじゃないですか。譜久村美羽音が、いつも身につけてるうさぎのぬいぐるみとお喋りしてるって」
「あー」
「酉飾の雑貨屋にいるときに、まさゆきくんがいないことに気づいたらしくて。慌てて雛町の公園に戻ってきたら、今度はさちこちゃんを見つけて」
「さちこ?」
「猫の名前らしいです。野良猫なのか、飼い猫なのか分かりませんけど、とにかくここら辺をうろついてる猫らしくて。その猫にまさゆきくんのことを聞こうと思って追いかけたら、この家にたどり着いたらしいです。で、あっちのアプローチのとこで血まみれのまさゆきくんを発見して、おそるおそる庭へまわったら、遺体を発見したらしいです」
「お前その話すんなり受け入れたの?」
「受け入れてはないですけど、そう記録するしかないじゃないですか。本人がそう言うんだから。今、署の方で突っ込んだこと聞いてると思いますよ。あと、まさゆきくんに付着していた血液も鑑定に回してもらってます」
「それとさ。ここ最近、雛町内で不審死がなかったかどうか、調べて。あと、譜久村美羽音の〝散歩〟のルートも」
「了解です」
「上見た?」
「上?」
相原は空を見上げた。
「ちがうちがう。この家の二階」
「あ、いえ、まだですけど」
「すっげえ立派だよ。家は純和風っぽい造りだけど、洋間もいくつかあってさ。高そうな家具に囲まれた寝室とか、一部屋まるまる洋服だけの部屋とか、子ども部屋なのか分からないけど、すべり台やらジャングルジムがある部屋とかさ。一番広くてがらーんとした部屋に、なぜか雛人形が出しっぱなしで置かれてたんだけど、それが七段のすげーやつでさ。でも」
佐野は階下へ視線を下ろした。「生活してたのはこの居間だけみたいだね」
「布団も、そこにまとめてありますね」
「まだ五十代なんだって?」
「ええ。杉之谷聖恵だったらの話ですけど」
「それにしちゃ、随分……」
佐野は口を濁した。
相原には、佐野の言わんとしていることが分かっていた。遺体はつやのない白髪頭で、萎びたように痩せ細り、五十代とは思えないほど老け込んで見える。
「病死じゃないのかい、これ」
佐野は言った。「外傷もないみたいだし。何かしらの疾患のせいで吐血したけど、助けを呼ぶ余裕がなかったんじゃないの」
「じゃあ」
真剣な表情で、相原は言った。
「まさゆきくんはどうして」
長い睫毛の、きりりとした瞳が、まばたきもせずに正面を見つめていた。
「何?」
向けられた視線に気づき、えるは顔を上げた。
「何が」
四葉は頰杖を突いていた。
「何がじゃないでしょ。人の顔じっと見ちゃって」
「悪い?」
「ううん」
八階のライブラリールームのテーブルで、二人は向かい合っていた。
えるは本を伏せて、テーブルの上に腕を組み、四葉の方へぐっと顔を寄せた。「嬉しいよ」
四葉はぴくりともしなかった。
えるは言った。
「何考えてるの?」
「そっちこそ」
「え?」
「最近のえる、ずーっと考えごとしてる」
「僕、考えごとするの好きだから」
えるはくすくすと笑った。「四葉のこともちゃんと考えてるよ。『クローバーライン』の新作の準備、大変そうだなとか」
「そんなつまんない話聞きたくない」
頰杖をくずして体を起こし、四葉はぴしゃりと言った。
「えるっていつもそう。誰よりもみんなのこと見てるけど、一人で察して、一人で悩んでる」
「そんなことないよ。ちゃんとみんなに相談するし」
「みんなって、星来ちゃんにだけでしょ」
するどい目つきで、四葉は言った。「昨日、私たちがサンルームを出たあと、二人で何話してたの?」
「うん……」
えるはうつむて、両手を組んだ。
「僕たちって、下界のことに、どこまで干渉していいのかな」
四葉はするどい瞳のままえるを見つめていた。えるは続けた。
「誰かを助けたい、守りたい、幸せにしてあげたいって思っても、僕らが安易に手を出すと、その人の素晴らしい経験を、奪ってしまうような気がして」
「そうよ。だから私たちは、お話を聞いたり、見守ることしかできないんじゃない」
冷たく、四葉は言い放った。
「でもそれが、犯罪に関わることだとしたら?」
四葉の目を見て、えるは言った。「昨日亡くなった、デスワの店員さんの件にしたってそうだよ。僕らが警察に協力してあげたなら、もしかしたら、犯人はもっと早く————」
「警察だけを、特別扱いするってこと?」
にらむような目つきで、四葉は言った。「『答え』を欲している人なんて、この世には、警察の他にもたくさんいるわ」
「でも、これは犯罪なんだよ?」
「犯罪って、人間が決めた罪のこと? 国によっても時代によっても変わってしまう、無秩序な決まりのこと? 人間たちは、それに従って生きるべきだよ。自分たちで話し合って、ルールを作って、一生懸命正しい生き方を模索してる。平和な世界を作ろうとしてる。でも、私たちはちがうでしょ。えるは、人間たちが定めたルールが、天界に通用すると思うの?」
えるは息をついて微笑んだ。
「もどかしいね。曖昧なアドバイスしか、与えてあげられないなんて」
「そう? 私は楽しいわ。人間たちが思い悩んでいるのを見てると、愛おしくてたまらないって思っちゃう」
四葉はすっきりとした風にそう言って、クローバーの飾りがついた、金色のペンを手に取った。
「もう一つ、心配事が」
深刻そうな面持ちで、えるは言った。
「え?」
「矢弦のことだよ」
「何? どうしたの?」
「昨日、僕、矢弦と撮影だったでしょ?」
「うん。星来ちゃんが作った朝食持って、行ったんでしょ?」
「うん。なんか……ようすが変だった」
「矢弦?」
「うん」
「なんで?」
「分からない」
「分からないって……。どんな風に変だったの?」
「なんとなく、考え込んでるみたいだった。スタッフさんと接するときは、明るく振る舞ってたけど。休憩のときも、いつもはみんなで過ごすのに、一人でふらっとさんぽに行ったりして」
四葉は静かに視線を落として、言った。
「いつもふざけてるけど、あれでいろいろ考えてるからね、矢弦も」
「そっとしておいたほうが、いいのかな」
「うん。少しの間ね。私も、気にしてみるようにするから」
「ありがと、四葉」
えるはにっこりと微笑んで、本を手に取った。「そういえば美羽音、今朝は元気そうでよかったね」
えるが言うと、四葉はペンを走らせる手をとめた。
えるはにこやかに続けていた。
「いつもみたいに早起きして出かけていって。部屋に閉じこもってたら、どうしようかと思ってた」
四葉は黙っていた。
「どうしたの?」
不思議そうに、えるは言った。
「四葉?」
「える、知らないの? 美羽音ちゃんは————」
ライブラリールームの扉が開いて、矢弦が飛び込んできた。
表情は不安げで、緊迫したようすだった。
「どうしたの?」
穏やかに、えるが聞いた。
「美羽音が」
ふるえる声で、矢弦は言った。
「死体の第一発見者になって、警察で、事情聴取を受けてるって」
四葉は驚き、身をすくませた。
尚も穏やかに、えるは言った。
「美羽音が疑われてるわけじゃないんでしょ? 型通りの————」
「分かんない……。今、連絡があって、律子さんが、弁護士と車で————」
マカロニ・エンジェルのメンバーが、続々とサンルームに集まった。
星来が不安げな表情でお茶を配った。
みな、言葉は発さず、ソファに腰かけ、うつむいていた。
数時間後、サンルームの扉が勢いよく開き、工藤が飛び込んできた。
その次に美羽音が、とぼとぼと暗い表情でやって来た。
美羽音は、上下グレーのスウェット姿だった。
「美羽音ちゃん……」
四葉が慄いたように発した。
みな、恐ろしいものでも見た風だった。
工藤は薄いハンドバッグをソファに叩きつけるように放ると、深いため息とともに腰をおろした。
「全く。美羽音は善意で通報しただけだっていうのに」
工藤は、星来が持ってきた紅茶をすぐさま口へはこんだ。そして続けた。
「どうして何時間も拘束されなきゃならないの。これじゃまるで、美羽音が犯人みたいじゃない」
星来が美羽音の肩をそっと抱き、ソファへうながした。
美羽音はうつむいたまま、工藤の隣に腰かけた。
「美羽音ちゃん……服は、どうしたの?」
おそるおそる、四葉が聞いた。
美羽音は何も答えなかった。
「血がついてたんですって」
工藤が言った。「それで、警察に押収されたのよ」
「亡くなったのは?」
えるが聞いた。
「見ず知らずのご老人だったそうよ。美羽音は、猫を追いかけていて、偶然見つけただけなのよ」
「美羽音ちゃん、まさゆきくんは?」
萌榴が言った。
「落ちてたんですって。亡くなった方のお宅に」
工藤は言った。
「え、なんで?」
矢弦が言った。
「猫を追いかけて入ったとき、落としたのよ」
「ちがう」
ぽつりと、美羽音は言った。「公園にいたときは、ちゃんと肩にいたもん。それから、酉飾に行って、気づいたらまさゆきくんはいなくって。公園に戻って、それから、さちこちゃんを追いかけて、あのおばあさんにの家に行ったら、玄関の前で、まさゆきくんが、血まみれで————」
「血まみれ?」
怪訝な顔で、えるが言った。
「だからね、あなた混乱してるだけなのよ」
工藤は、美羽音の肩をつかんだ。「猫を追いかけて、そのおばあさんの家にたどり着いて、亡くなってるのを発見したのよね? それで、覗き込んだとき、まさゆきくんに血がついたのよ。それで、玄関の方へ戻ったとき、まさゆきくんが肩から落ちて」
「ちがう! まさゆきくんは、私があの家に入る前にはもう————」
美羽音は叫ぶように訴えた。
それから、顔を伏せ、声を上げて泣きだした。
「律子さん、休ませた方が」
不穏な表情で、えるが言った。
「美羽音ちゃん、部屋に行こう」
四葉と矢弦が、美羽音を連れてサンルームを出ていった。
「警察は、きっとまた来ますよ」
えるは言った。
「応じなければいいわ。任意なんですから」
まだ落ち着かないようすで、工藤は言った。「星来、甘い物は残ってないかしら」
「ええ、ございますわ」
「あとで部屋に持ってきて。萌榴、萌苺」
「はい!」
二人は、びくりとなって答えた。
「おはなし会まであと少しなんですからね。プレゼントの準備、きちんと進めておいてちょうだいね」
「はい。律子さん」
萌榴と萌苺は声を揃えて言った。
「える、
「……はい、律子、さん」
えるが言い終える前に、工藤は立ち上がってバッグを取り、扉の方へ向かっていった。
懐疑的なまなざしで、えるは工藤の後ろ姿を見ていた。
扉を閉める直前、工藤は言った。
「明日はずっと部屋にいるわ。誰とも繋がないで」
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