7 見えない羽を感じる

 翌日の午後、小林アリスはデスワのストックルームにいた。

 売り場へ出ようとしたアリスは、ドアを開きかけて目を疑った。

 店の入り口のそばで、店長の植木が、譜久村美羽音と話をしていた。

 アリスはドアを引き戻して、隙間から二人のようすをうかがった。植木は言った。

「私たちは平気だから。お気遣いありがとう、美羽音ちゃん……」

 美羽音は満足そうに微笑むと、頭をさげて、ふわりと舞うように身をひるがえした。

 美羽音がいつも背負っている、バックパックについた羽飾り。それを目にしただけで、アリスは胸が痛くなった。

「なんですか?」

 美羽音が店を出るなり、アリスは植木のもとへかけ寄った。

「明日見ちゃんのこと……」

 弱々しく、植木は言った。「明日見ちゃんは大丈夫だから。けして不幸じゃないからって。それに、私たちのことも、誰かを失っても、不幸にはならないって。それから、ソファの横の置物がどうとかこうとかって……」

「はあん?」

 アリスは、だんだん腹が立ってきた。

「怒らないであげて、アリスちゃん。あの子なりに、私たちを励まそうとしてくれたのよ、きっと」

「でも、てんちょお……」

「私は気にしてないから。仕事に戻って。ね?」

 アリスは不満げに息をついた。それから、小さく「はい」と答えて、陳列棚の方へ向かった。

 ふと、姿見が目に入る。

 そこに映った自分の顔を見て、アリスはぎょっとした。悪鬼のような、凄まじい形相。

 アリスは姿勢を正して微笑みを作った。大げさ過ぎない、空気を乱さない、控えめで上品な微笑みだ。

 それから、ほんの一瞬のうちに、片足を引き、膝を小さく曲げて、さりげなくカーテシーをおこなった。

 お嬢様、本日は新作のワンピースが入荷しておりますわ。

 アリスは、呪文のように心の中で唱えた。

 お嬢様————

 アリスは、トルソーに掛かっていた洋服を整えた。

 この世には、天使のお顔をした悪魔がいましてよ————。



 譜久村美羽音は天使の像の噴水のある公園へ向かった。

 美羽音はベンチに腰かけた。公園には、美羽音の他には誰もいなかった。

「里美さん、元気そうでよかったね」

「アリスちゃんにも会えたらよかったんだけど」

「明日見ちゃんのご実家って、どこにあるんだろう」

「今度、里美さんに聞いてみよう」

「私?」

「私はもう平気」

「私には、みんながついてるから」

「え?」

「うん、うん……」

「そうだ! 矢弦ちゃんが言ってた、酉飾のおもちゃ屋さんに行ってみない?」

「もしかしたら、まさゆきくんの家族に会えるかも!」

 美羽音はふわふわと舞うように歩きながら、公園を出ていった。


 矢弦がピストル型の水鉄砲を購入したという店は、酉飾町にある、珍妙なアイテムやジョークグッズを取り扱う雑貨店だった。

「矢弦ちゃんの嘘つき」

 美羽音は、他の客とすれ違うのもやっとの細さの、狭い通路をそろそろと歩いた。

「おもちゃ屋さんだって言ったのに」

 しばらくして、美羽音は、矢弦が購入したのと同じものと思われる水鉄砲を見つけた。そばには、押すと刃が引っ込むナイフや、ドクロのマークが描かれた小瓶、血糊などが置いてある。

 さらに進むと、今度は吸血鬼のコスチュームや黒マントが並んだコーナーへやって来た。

 ふと、姿見が目に入る。

「はれ?」

 美羽音は一瞬、何が起きたのかが分からなかった。

 肩に乗っているはずのまさゆきが、いなくなっていた。

 美羽音は振り返り、通路の床を見渡した。まさゆきの姿はなかった。

 店内の通路を、何度も何度も行き来した。どこにも、まさゆきはいなかった。

 美羽音は、頭の中が真っ白になった。

 思い出して、思い出して。

 美羽音は肩に手を当てた。

 まさゆきくんを、最後にちゃんと見たのは————。

 美羽音は店を飛び出し、雛町にかけ戻った。

 ああ、どうして————。

 悔しさで、涙がこぼれた。

 わたしに羽があったなら、まさゆきくんのところまで、一瞬で飛んでいけるのに————。


 美羽音は天使の像の噴水のある公園へ飛び込んだ。

 息を切らしながら、ベンチの方へ向かう。

 まさゆきはいない。

 注意深く地面に目を落としながら、園内を歩き回る。

 まさゆきはいない。

 どこにも、まさゆきはいない。

 美羽音は呆然となっていた。

 ふと、気配がして振り向くと、見覚えのある、黄色い目をした猫がいた。

「さちこちゃん!」

 美羽音が言うと、猫はかけ出して公園を出ていった。

「さちこちゃん! 待って! 話を聞いて!」

 美羽音は猫のあとを追いかけた。

「まさゆきくんがいないの! さちこちゃん、何か————」

 猫は塀の向こうへ飛び込んだ。

「さちこちゃん……」

 美羽音は門のところまで行き、猫が潜り込んだ民家を、そっと覗き込んだ。

 立派な、和風家屋だった。だが、あまり手入れは行き届いておらず、どことなく、悲壮感の漂う雰囲気だった。

「まさゆきくん!」

 まさゆきはアプローチの上にうつ伏せで転がっていた。

 美羽音は思わずかけ寄り、まさゆきを抱き上げた。

「まさゆきくん! まさ————」

 まさゆきを仰向けた瞬間、美羽音は絶句した。

 白地に、黒ブチ模様をした、まさゆきの体。

 だがそれ以外に、明らかに模様ではない、焦茶色のものがべったりとついていた。

 美羽音は何かを感じ取っていた。

 まさゆきを抱きしめ、玄関へ向かう。扉には鍵がかかっている。

 美羽音は庭へとまわった。

 雑草だらけの、荒れ果てた庭。塀の陰に、ひび割れた鉢とジョウロが、物置小屋の前には、ゴミ袋がまとめて置かれている。

 反対側の、家屋の方へ首をまわして、美羽音はゆっくりと息を吐き出した。

 縁側の上で、老いた女が、口から血を吐いて倒れていた。

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