第45話 カキフライと複雑な秋の空・中
現代では牡蠣を殻からはがすとき、オイスターナイフを使う。だがこの時代は、小刀を使う。現代でも牡蠣の仕事をしている人の中に、小刀を使っている人は多い。しかしまだ十二の俺は牡蠣が掌に収まらず、手が滑ったら怪我をして危ないから、洋食用のステーキナイフを鈍らにして使う。牡蠣の口に捩じり込むと、貝柱を切って中身を取り出すようにしていた。最初は難しいかもしれないけれど、慣れると簡単だ。殻で手を怪我しないように、殻を持つ手には軍手をしている。でも、これは現代のものとは違う。ここでは
「遠野さん、筋がいいですね。最初の二個ほどは失敗しましたけど、後は綺麗に出来てます」
俺は二人で必死にむいた牡蠣を、塩水で洗いながらそう言った。失敗した分は、俺が食べればいい。
「はは、慣れてくるとつるんと出てくるのが可愛いな。あ、チビたちの
遠野さんは、指示をしなくてもやるべき事を見つけてすぐに動いてくれる。それを、りんさんとしのが微笑ましそうに見ていた。今日は二人が米を炊いてくれて、今は味噌汁と小鉢の卯の花と玉葱と
「よっちゃんも、ここで働けばいいのに」
「りんさん、無理ですよ。お給金が支払えないから!」
定食屋の方でそれなりの黒字を出していたが、薬研製薬ほどの給料は出せない。俺は、慌てて声を上げた。そんなの、遠野さんに申し訳ない。
「それが叶うと嬉しいが、俺は実家に仕送りをしているし難しいな」
鯵をさばきながら、遠野さんは少し困ったように言った。
「そう言えば、よっちゃんの
「兵庫――と言えば聞こえがいいが、淡路島だよ。親父と兄は、漁師をしている」
俺は淡路島と聞いて、明治三年に起こった『
俺は淡路島が徳島県だったことに驚いたし、明治に武士がいたことにも驚いた。そうだよな、明治の前は江戸時代だ。
「島育ちってことで、少し恥ずかしくてさ。田舎者って莫迦にされると思ってね。でも、俺は今では
鯵を綺麗にさばいて、遠野さんは少し遠い目をした。故郷の淡路島を思い出しているのだろうか。
「ふみちゃんの、神戸と近いよね」
「海を挟んでいるけどな」
しのはおからに切って茹でた野菜を混ぜながら、ふみを思い出しているようだ。神戸の織物工場で働いているふみは、先日の手紙で「こっちに帰りたい」と書いていた。まだ、遠い神戸に馴染めていないのだろう。
俺とりんさんは物思いに耽っている二人の邪魔をしないように気をつけながら、それぞれに作業を進めた。
ふきんで、牡蠣の水分を取る。優しく扱わないと、牡蠣が破れてしまう。この時代揚げ物には
「さ、ラードだね。ラードの缶は……これ」
しのは、ようやく卯の花が出来たようだ。並んだ缶から、ラードを取り出す。ラードは、牛脂を精製したヘットと似ている。ハンバーグのネタに混ぜたり、餃子の餡に混ぜたりする隠し味的な油だ。この時代の本来の揚げ方はヘットかバタを使うらしい。でも、人数が多いしバタを使っては高すぎる。ヘットも同じだ。天ぷらは植物性の油か胡麻油、コロッケなどの揚げ物はラードが多い。
秋が深まり寒さで半分固まっているラードの塊を鍋に入れると、竈に火をつけた。外は次第に暗くなってきている。竈の炎は、辺りを照らすだけでなくホッとする安心感がある。現代で光に慣れ過ぎていたせいなのかもしれない。
温度が上がってくると、俺はパン粉を落として跳ねで温度を確かめる――うん、いい頃合いだ。
さあ、カキフライの登場だ! 俺は、温度が下がり過ぎない数を油の中に入れた。途端、パチパチという油が跳ねる音に香ばしい香りが漂ってくる。
「あぁ、いい香り。あたし、お代わりしちゃうかも」
りんさんがそう言うと、しののお腹が小さく鳴った。
「食欲の秋だな」
遠野さんがそう言うと、しのが頬を膨らましてそんな遠野さんの腕を軽く殴る。遠野さんもしのも、楽しそうに笑っていた。
「しのちゃんの、初恋かねぇ?」
こっそりと俺に言ってくるりんさんに、俺は菜箸を落としそうになった。
すぐ前までは「兄ちゃん、兄ちゃん」と付いてきたのになぁ。俺は少し肩を落としながら、美味しそうなカキフライを揚げていく。俺の夕飯は、美味しいのかなぁ。
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