第46話   カキフライと複雑な秋の空・下

 今日のカキフライは、みんなに好評だった。ウスターソースをかけて、ご飯と一緒にもりもり食べてくれた。ウスターソースは、俺たちのおとっつあんの祖国の英吉利えいぎりすで作られたものだ。明治三十三年に明治屋というお店が輸入を開始して広まった。小瓶で二十三銭だから、かなりの贅沢品だ。見た目が醤油と似ているし、しょっぱさが日本人の味覚に合ったらしい。でも、実は江戸時代に日本産のウスターソースが作られていたんだ。安政元年に醤油醸造家が作り出したのが始まり。日本人の、こういうチャレンジ精神っていいよね。

 色々試行錯誤してようやく明治二十七年、大阪の越後屋が「三ツ矢ソース」という名前で販売を開始した。次の年に、やっぱり食の街大阪で「錨印イカリじるしソース」が売り出された。ここ東京では、遅れて明治三十九年に「MTソース」と「犬印ソース」が売り出された。錨印ソースは、日露戦争当時に出来た会社だ。俺たちが産まれる前の年くらいか。

 でも、本場のウスターソースと日本のソースは味が違う。「アンチョビ」が入っていないんだ。日本のウスターソースは果物や野菜がたくさん使われて、砂糖、酢、塩などの香辛料が使われているんだって。英吉利では肉料理に合う味付け、日本産は揚げ物や焼きそばに合う味。俺がここまで詳しく知っているのは、薬研氏の秘密の会食で来た商人に教えて貰ったからだ。薬研製薬は、色々な商売人と交流している。俺に知識を与えようと、食に関する商人とは話をさせてくれていた。


 俺たちが用意しているウスターソースは、日本産。安いし、やっぱり揚げ物に合うからね。日本産が出るまで醤油を使っていた。そうして初めて買った時、「舐めたい」とりんさんとしのは興味津々だったけど、そのままじゃ少し酸っぱい。揚げ物に合うと知ってから、ウスターソースはまかない食堂の人気調味料だ。


 俺は温かいうちに食べて欲しかったので、みんなが来てからもう一度油に落としてカリッとさせて出した。遠野さんは一度部屋に戻って、さっきまで台所にいたのに知らん顔で食べに来た。しのと目が合うと、二人はくすりと笑った。俺はそんな二人が気になりながらも、知らん顔してカキフライを温めた。


 薬研製薬の人たちが帰り、高藤さんと辰子さん、まつさん一家、源さんも食べ終わって帰っていった。明るいうちに、食べ終わった人たちの食器を洗う。勝吉さんは、仕事がないときは遅くに来る。暗くなるから、用心のためりんさんと一緒に帰るからだ。本当に、仲のいい夫婦だ。

「そよさん、先日はありがとうございました」

 今日は、おっかさんは仕事が休みだ。最後に俺達が食べる時間になると、蕗谷亭にやってきた。そのおっかさんに、先に食事を始めていた勝吉さんが声をかけた。長屋のみんなは、あまりおっかさんの事を「よひら」とは呼ばない。りんさんくらいかな?

「構わないよ、たくさん集まったかい?」

 化粧をしないおっかさんの顔は、美しいけど幼く見える。そのギャップも、人気があるんだ。

「あんた、よひら姐さんに何か頼んだのかい?」

「うん。僕たちの後輩の初舞台があってね。無名だから、なかなか人が集まらなかったんだ。でも、実力がある。そこで、失礼だとは思ったんだけどそよさんに座敷で宣伝してくれないか、とお願いしたんだ。そうしたら、連日満員で! お菓子でも持って、改めてお礼に伺います」

「あたしは、初日の公演に顔を出してくれないかと、ちょいと口添えしただけだよ。最終日まで人が来てくれたのは、あんたの所の弟子に実力があったからさ。お礼なんていらないよ」

 おっかさんは、少し照れているように見える。今までは、あまり誰かのために何かを率先して手伝うことはしなかった。まつさんたちが、おっかさんの面倒を見てくれていたくらいだからね。でも、俺たちがこのまかない食堂を始めてから少し変わったように思う。

「いえいえ、後輩も本当に感謝してるんです! それに、そよさんに会えるのを期待している所もあって」

「まあ、これだから男は! でも、よひら姐さんに会えるなら嬉しいだろうねぇ」

 りんさんは笑って、おっかさんのご飯を茶碗によそってくれた。しのも、膳の用意を手伝う。俺は、今日最後のまかないであるおっかさんの分のカキフライを揚げ直した。一番美味しそうな牡蠣を、おっかさん用に残しておいたんだ。

「いただきます」

 俺たち一家と勝吉さん一家で、並んで夕食を食べる。

「美味しいねぇ。どこの牡蠣なんだい?」

「深川の牡蠣だよ。大きな身で、美味しいよ」

 しのが、嬉しそうにおっかさんに話す。実は、江戸湾では上質の牡蠣が盛んに獲れていて、今東京湾では養殖もしている。この時代、いかに東京湾が綺麗だったのかが分かる。

「それでね、遠野さんも手伝ってくれたんだよ」

「最近のしのの話は、遠野さんが多いねぇ。あたしは、よく顔を覚えていないよ」

 おっかさんは、少しおかしそうに笑った。しのによく似た顔だ。

「牡蠣は磯の香りもほんのりと残っていて、身はふっくらしている。カリッとした衣との相性がいいね。ウスターソースがしょっぱいから、油臭くなくて美味しい。やれ何処産の方がうまいとか聞くけど、やっぱり東京のが口に合う」

「あ、それは僕も思います。故郷の味が、一番ですよ」

 勝吉さんが頷いた。


 故郷の味、か。俺は、本当に現代の事を懐かしんだり思い出すことが少なくなっていた。このまま、恭介として生きて死ぬのだろうか。そうなったら、しのの花嫁姿を見ることが出来る。そうしてしのが嫁に行っても俺は、一人でもおっかさんを守って、恭介として生きていこうと思うようにした。

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