十三膳目
第38話 初めてのお客にトマトぶっかけ素麺・上
「おや、こんな所に食堂があったのかい」
「入ってもいいでしょうか?」
薬研製薬のみんなの食事が終わって、長屋のみんなの食事を準備している時だった。暑い、八月の夏の昼。だけど令和の「温暖化」の影響で、夏の気温が上昇している現代より、まだ過ごしやすい気温だった。しかし台所仕事をしていてエアコンがないのは、身体には少々きつかった。窓や玄関は開けて、蕗谷亭の中は風通りをよくしていた。扇風機は明治二十六年に
「あるものでしか用意は出来ませんが、よければどうぞ」
蕗谷亭の前に立っている男性二人に、俺は声をかけた。西洋風のスーツを着た、上品そうな二人だった。
ちょうどしのが井戸で汲んできてくれた水に手拭いを濡らして、お茶と一緒に二人の前に来た。そして、涼しそうな窓の横の席に案内した。
「薬研製薬との取引で、ここまで来たんだ。薬研社長に、工場の近くにいい食堂があるから昼を食べるならそこをお勧めする、って言われたんです。年末に来たときはなかったと思うけど、最近できたのかい?」
「はい、春から開いています。ご来店いただきありがとうございます」
接客している俺を、しのとりんさんが台所からこっそり覗いていた。
「最近は西洋料理ばかりで、何か目新しいものが食べたいな」
茶色のスーツの男が言うと、口髭の男も頷いた。
「洋食もいいが、こう暑くてはこってりしたものを食べる気になれないな。野菜を多く摂ることも必要だと分かってはいるが……何か、おすすめのものはあるかな?」
冷たい手拭いで首筋や顔を拭いている二人に訊ねられて、俺は少し悩んだ。
「お嫌いな食材などありますか?」
「いや、俺たちは特にない」
「分かりました! 当店の夏のおすすめをお作りいたします! 少しお待ちください」
俺はそう言って、二人に頭を下げて台所に戻った。「蕗谷亭」の初めての客だ!
「しの、畑から赤茄子と
俺の指示に疑問の声を上げず、二人は「あいよ」とそれぞれ支度し始める。夏野菜は一年目の畑なのに、松吉さんの指示のおかげで豊作だ。それに素麺は薬研製薬がお中元で届いたものを「好きに使ってくれ」と、沢山貰っている。お金はそうかからずいいものを提供できる。
洋食好きだが、夏バテをしている男性にぴったりな献立を思いついた。俺はまだこの時代一般的に普及されていない、大豆もやしを育てていた。その大豆もやしをもぎり、水で綺麗に洗った。
トマトのぶっかけ素麺と、ささみと野菜の梅肉和えを作ろう!
夜に鶏料理を予定していたので、そこから少しささみ部分を拝借することにした。鳥は三羽を買っているから、二人の副菜分ならそこから取っても融通が利く。
この時代に食べる素麺の
どちらかと言うと、メインの素麺は簡単に出来る。俺は、副菜の準備を始めた。食堂を利用するみんなが来たときに味噌汁を温め直せるように、竈の火はしっかり残っている。鍋に入れた湯が沸いてくると、りんさんが素麺を入れた。これを茹でて吹きこぼれる時に『びっくり水』を入れる。普通の水だが、高くなりすぎたお湯の温度を一度下げると、美味しく茹で上がる。
よく夏に「簡単に素麺でいいよ」と言っていた俺の言葉に、母さんが「素麺は簡単じゃないのよ!」と怒っていた理由が、料理をする身になって分かった。素麺は暑い台所で茹で、流水で油分とぬめりを取る、大変な食べ物なのだ。料理に簡単はない。「美味しい」料理をふるまうなら、ある程度知識や努力をしなければならない。
でも、たまに「ずぼら飯」を作るのも悪くはない。毎日献立を考えるのは、それだけでも料理する人にとって大変だからだ。
電気器具がなく旬のものしか食べられないこの時代だ。現在のような「簡単ずぼら飯」は多く存在しなかったため、「簡単な料理」を作ることが困難だ。家族で簡単なずぼら飯を作るなら、お茶づけかな。でも、お金をもらい提供する『蕗谷亭』のメニューには手抜きが出来ない。対価に見合った献立を、三人で作れることに感謝しているんだ。三人なら、負担がずっと楽になる。そのおかげで毎日人に食べて貰える料理を作る、修行になるからさ。
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