第37話 初夏にさっぱり鯖の卸煮・下
油で素揚げした切り身が乗った竹ザルに熱湯をかけて、水気を良くとる。しのとりんさんがそれをしてくれている間に、俺は空いた鍋に
素揚げした鯖は五分ほど煮ると、醤油を入れた。そうして火から鍋を上げて竈の火を消す。本来はこの上に大根おろしを乗せて、皿に盛るのだ。
火に通した上醤油の塩分もあるから、こうしておけばすぐに腐らないし食べる前に温めればいい。おまけで貰ったわかめの酢の物を付けて、あとは味噌汁と糠漬け、白米を焚けばそれでいい。昼食の用意をする時間が、少し遅めにできた。りんさんの昼寝時間がちゃんと確保出来て良かった。
りんさんは今日は洗濯ものはせず昼寝をすると家に戻り、俺としのは火の始末をちゃんと確認してから蕗谷亭を出て洗濯をして畑の世話をした。
昼食の用意をするまでまだ少し時間があるので、しのはちゃぶ台の上で神戸のふみに手紙を書いている。俺は、ふと思い立って蓄音機の箱を取り出した。これが、以外と重い。箱の中にはレコードが何枚か入っている。英語で書かれているが、クラシック音楽のレコードだという事は、俺にも分かった。それとは別に、レコード針が沢山入っている。そう言えば、針は使い捨てだ。一枚のレコードで一針だった気がする。その為、昼しか流さなかったんだ。レコードも、確かSP版で現在のものと違う。詳しい仕組みは、俺には分からない。叔父さんが「LP版は使えないから、新しいレコードを探すのは大変だ」と言っていた気がする。その違いが俺には分からない。この時代なら、SP版というレコードは沢山あるだろう。
ハンドルを回して、適当にレコードを乗せて針を置く。すると、ハスキーボイスの様な古めかしいメロディが流れ始めた。音楽の時間に聞いた事がある曲だった。
「わあ、素敵!」
すぐにしのが反応した。手紙を書く手を止めて、蓄音機の音を楽しんでいた。小さい頃、俺達が聞いていたかもしれない音楽だ。そう思うと、俺と入れ替わってしまった恭介がどこにいったのか心配になる。元気だろうか――俺達が本当の姿に戻れる時が来るのだろうか。
自分が『平塚恭志』だと忘れないうちに、元の姿に帰りたい気持ちはあるのだけれど……しのとおっかさんの事が気になり、複雑な思いを抱きながら俺はレコードを聞いていた。
レコードを聞き終わると、俺達は蕗谷亭に戻った。白米を洗っていると、眠そうなりんさんもやって来た。そうして米を焚いて味噌汁を作り、二本分の大根おろしを作った。
そうこうしている内に、薬研製薬の皆が入って来た。
「あれ? 魚は夜じゃなかった? それに、アジフライだった気がするけど」
望岡さんは食事が楽しみらしく、一日の献立を覚えている。そんな彼に、りんさんが答えた。
「ま、人助けしたら献立が変わっちまったんだ。美味しく出来たから、許しとくれ」
「構わないよ。さっぱりしたものだし、確かに良く味が染みてて美味しそうだ」
皆文句を言わず受け取り、何時ものように静かに食べ始めた。食べ終わると「美味しかったよ」と何人かは口にして出て行くが、静かな食卓は少し寂しく感じる。
「恭ちゃん、食べに来たよ」
高藤さんが来た。気恥ずかしそうに、後ろには辰子さんがいる。りんさんは、ニコニコして二人にお盆を渡した。
「鯖かい。美味そうだねぇ、頂きます」
温め直した時に、大根おろしを半分くらい汁に混ぜ、皿に盛ると汁をかけて上に乗せる用の大根おろしを乗せる。大根『おろし』との魚の『煮物』なんだ。
「大根おろしのお陰でさっぱり食べられるのは当たり前かもしれないけど、醤油の辛さもまろやかになるね。油で揚げてあるから、少し噛み応えも出ていいね。味醂の照りも、鯖の皮を綺麗に魅せてるよ。ああ、色合いが綺麗だ」
早速鯖を口に入れた藤堂さんが、「美味い!」と言ってからそう言ってくれた。
「揚げてから、油抜きしてあるんだね? 胡麻油の香りはするけど、油くどくない。うん、夏の始まりにはいい献立だよ。流石だね」
辰子さんも、瞳をキラキラさせて食べてくれた。食生活の乱れがなくなったおかげか、辰子さんは少し痩せ気味だったけど今は丁度いいくらいにふくよかになって、女性の魅力が増してきたように思う。
りんさんじゃないけど、二人が幸せになってもいいんじゃないかなって、俺は何だか思ってしまった。だって、二人は俺から見てもよくお似合いだったからさ。
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