第36話 初夏にさっぱり鯖の卸煮・中
皆の朝飯が終わると、ようやく俺達の食事時間だ。りんさんの夫の勝吉さんは、昨日から大阪に行っている。知り合いと一緒に、大阪の活動弁士を研究する為だそうだ。大阪の活動弁士は、口が達者らしい。少し有名になって来たからこそ、真面目な勝吉さんは勉強をしたいらしい。りんさんは笑顔で見送ったけど、三日間が寂しいと嘆いていた。確かに現代でも、大阪の芸人さんの漫才は勢いがあって面白い。
「なら。今夜はうちに来ないかい?」
昨日ようやく新作の美人画が描けた辰子さんが、起きるのが遅くなって俺達と一緒に朝飯を食べていたのだ。その言葉に、りんさんが嬉しそうな顔になった。
「いいのかい? あたし、前から辰子先生とゆっくり話したかったんだよぉ。藤堂先生と、どこまで進んでるのか聞きたくてさぁ」
ぶっ、と俺はお茶を吹き出しそうになった。やめてくれ、しのが興味を持ったらどうするんだ。
「な、何もないよ! 絵描きと字書きの友人ってだけだよ。それに藤堂さんは、女の人には困ってない筈です」
辰子さんは眠そうな顔だったのに、真っ赤になって顔の前で手を横に振った。
「え? 辰子さんと藤堂さんは、恋人なの?」
「しのは興味持たなくていいから!」
俺は慌てて、会話に参加した。人妻と大人の女の恋愛話は、まだ十のしのには早すぎる! ってか、しのに好きな人が出来たらどうするんだ! 俺の大事な妹なのに。
「あはは、冗談だよ。恭ちゃんは耳年増だねぇ」
りんさんはそう言って、しのに向き直った。
「しのちゃんには、少し早いお話だよ。もう少し年取って好きな人が出来たら、話しておくれ。今日は、辰子先生とあたしだけの秘密のお話なんだよ」
「えー、ずるいよ」
しのがふくれっ面をすると、りんさんと辰子さんが楽しそうに笑った。
「じゃあ、あたしは絵を持っていくよ。ご馳走様。あ、りんさん。座布団並べるのでいいなら、布団は要らないよ」
そう言って、辰子さんは蕗谷亭を出て行った。
「さて。まだそんなに暑い訳じゃないけど、さっさと作っておこうか。皆が食べる前に温め直せばいいよ」
「急に元気になったね、りんさん」
「恋の話はねぇ、女にとって楽しみの一つなんだよ」
食事を終えて手を合わせると、手早くりんさんは食器を片付ける。慌ててしのがそれに付いて行く。
「今日の夜の為に、あたしは頑張るよ。あたしとしのちゃんは洗い物しておくから、恭ちゃんは鯖を捌いておくれ」
確かに急いで準備すれば、昼飯の用意にそう時間がかからない。りんさん、昼寝して夜遅くまで起きてるんだな?
ま、息抜きになってよかった。
二人が井戸まで洗い物を持っていくと、お喋りをしながら洗い物を始める。本当に、りんさんには感謝している。しのにお姉さんが出来た気がするんだ。
俺は、くすりと笑ってからおっかさんに買って貰った大事な三徳包丁を取り出した。鯖は、油はあるようだが少し小ぶりだった。薄く大きな
頭をおろして肛門から腹を裂くと、内臓があふれ出て来る。それと血合いを削り取り、血を洗ってから三枚におろす。そして、腹骨も取った。これを五匹分するから、結構面倒だ。血と内臓さえ取れば、りんさんもしのも触れるようになる。
俺が魚と格闘していると、洗い物を終えた二人が帰って来た。しのが布で水気を拭いだすと、りんさんが台所に来た。鍋に胡麻油を入れて、再び竈に火を焚き始める。その横の竈にも火を分けて、鍋でお湯を沸かす。
「素揚げだったよね?」
「うん、お願いします」
だんだん温度が上がってくると、頃合いを図って俺が切り身にした鯖を入れていく。上げた鯖を入れる為の竹ザルを、しのが用意してくれた。
「食べたばっかりなのに、胡麻油は本当に良い香りだねぇ。まだ食べられる気がするよ」
旦那さんが居なくて寂しいと嘆いていた人と思えない。でも、食べれば元気が出る。食べていれば、生きていける。
そう言えば、現代の
悲しい時、寂しい時は腹いっぱい食べて眠るんだよ。食べ物は、人を元気にしてくれるんだ。祖母ちゃんのお母さんも、そう言ってたよ。
俺は今、その言葉をしのに教えている。家族で飯を食って、笑って仲良く寝る。そんな小さな事を幸せだと感じる大人になって欲しいからだ。
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