第31話 お別れには炊き込みご飯握り・下

 その日は早くに起きて、俺は出汁をとりながら鳥肉と山菜、沢山のきのこを切っていた。時刻は朝の四時だ。最近は明るくなるのが早くなったが、今はまだ薄暗い。竈に火を焚いて、その灯りで俺は準備をしていた。しのはまだ起きていない。ふみが朝の七時には出るから、それに間に合うように俺は起きた。俺はお別れの品を何にしようか迷ったが、俺には美味い飯を作るしか出来ない。汽車の中で食べられるように、鶏肉ときのこの炊き込みご飯を作る事にした。これは、尊さん達にも渡すため、多めに作る。


 しのがふみの家に行き訊いた話だが、ふみは新橋駅から神戸駅に向かうという事らしかった。明治二十一年には、東京から神戸まで行く列車が走り出している。神戸港に近い最近盛んな織物工場で、海外に向けて販売するため人手を多く探していたそうだ。ふみはまだ十歳なのに、知らない土地に行くのは不安だろう。俺が、この時代に来た時のように。しのとかよも、それぞれお別れの品を用意しているらしい。


 白米に切った具材を入れて、酒、みりん、醤油、だし汁を入れて水を加える。竈の上に乗せていると、次第にいい匂いが漂ってくる。その香りで目が覚めたのか、五時を回るとしのが部屋から出てきた。

「おはよう、兄ちゃん。いい匂いだねぇ。ふみちゃんたちにあげるの?」

「おはよう、しの。そうだよ。汽車で食べて貰おうかと思ってな――尊さん達も、最後の日本食になるだろうし」

「ふみちゃんと尊さんがいなくなるの、寂しいね」

 しのは新しい長火鉢の俺の部屋兼茶の間で、下駄に足を入れぶらぶらとさせた。尊さんは、独逸の維也納ウィーンに三年間滞在するらしい。確か第一次世界戦争が一九一四年から始まったように覚えているから、尊さんには絶対に三年で帰って欲しいと俺は願っていた。歴史は変えないが、やはり知ってる人の命は出来る限り守りたかった。



「こんなに早くに来てくれて、有難う」

 六時過ぎにふみの家に着くと、ふみはもう泣いていたのか目が真っ赤だった。かよも、少し遅れて慌てて来た。ふみが手にしている荷物は、少なかった。風呂敷に着物や肌着をたたんだものと筆記用具が少し、それらだけが入ったたった風呂敷一つだけだ。

「ふみちゃん、最初は大変だと思うからこれ使って」

 かよがふみに渡したのは、切手の束だった。三銭の文字が見えるから、封書用だろう。

「こんなにたくさん! 駄目だよ、かよちゃん」

「わたしもしのちゃんも、ふみちゃんの手紙楽しみにしてるんだよ。だから、使って」

 返そうとするふみの手を、かよが押し返して強くそう言った。かよの熱意に負けたのか、ふみは小さく「有難う」と言って大事そうに風呂敷の中に切手を入れた。

「あたしからは、これ」

 しのはおっかさんにお願いをして買って貰った、小さな手鏡が入った箱を渡した。流石に新品は無理なので、しのは中古の鏡を綺麗になるまで一生懸命磨いていた。

「わあ、しのちゃんまで……嬉しい、有難う。あたし大事にする。自分の鏡ないから、向こうで使うね」

「俺は――ふみが何喜ぶか分かんなくて。こんなのでごめん」

 そう言って、しのと一緒に握ったきのこの炊き込みご飯握りと漬物を包んだ竹の皮の弁当を差し出した。それと昨日鶏肉を買いに行った帰りに寄った、赤坂氷川神社の厄除け守りを一緒に出す。

「いいの、お守り大事にする! 有難う、あたしこそ皆に何もあげれなくてごめんね」

 ふみは俺の手からお弁当とお守りを受け取ると、そのお守りをそっと兵児帯の前に入れた。

「ふみ、そろそろ用意しなさい」

 家から、ふみの父親と母親が出てきた。神戸に行く他の子達との集合場所まで、親が連れて行くらしい。かよはふみの手を握った。その上に、しのが手を置く。俺も、そっと手を重ねた。


「また必ず、こうして会おうね」



 ふみやかよと分かれて、俺としのは一旦家に戻り尊さん達の為の弁当が入った風呂敷包みを担いで、赤坂の薬研製薬まで向かった。薬研氏と門田さんが乗った馬車がその十分後くらいに来てくれて、俺達を乗せた。船は、横浜港から出るらしい。俺達は「おはようございます」と挨拶したきり、到着するまで誰も何も言わなかった。しかし空は雲が一つもない――尊さんの旅を祝うかのように綺麗な青が広がっていた。


「恭介にしの――お前たちまで来てくれたのか」

 横浜港に着き俺達が尊さんの姿を探していると、向こうから声をかけてくれた。人が多い中自分を呼ぶ声に「ひゃ!」としのが変な声を上げた。

「父さん、行って参ります」

 そんなしのの頭をポンと撫でて、尊さんは薬研氏に頭を下げた。真新しい洋装姿の尊さんは、歳より大人びて見えた。その後ろで、陸奥さんと男の人が三人同じように深々と頭を下げている。同じようにこの船に乗るだろう人と見送る人――沢山の声で、辺りは賑わっていた。しかし俺達の空間は、どこか静かに感じられる。

「沢山学んできなさい。人を導くのに恥じないくらい、立派になってきなさい」

「はい」

「……体には、気を付けなさい」

「父さんこそ」

 ふみの家では感じなかった、短いが親愛がこもった親子の別れの会話だった。俺は、懐かしい令和の両親や祖母をほんの少しだけ思い出した。

「尊さんも陸奥さんも――皆さん、気を付けて行ってらっしゃい」

「気を付けてね」

 俺としのも、薬研氏の隣に立って尊さん達に頭を下げた。そうしてから、お弁当の入った風呂敷を陸奥さんに渡す。

「俺が帰ってくるまで、お前も立派な料理人になるように頑張れ。たまには便りを送る――最後の日本食は、船の中で頂く。有難う、お前の飯が恋しくならない内に、必ず帰ってくる」

 尊さんが笑ってそう言うと、俺はそっと尊さんにだけ聞こえるように囁いた。


「必ず、必ず三年で帰ってください――でなければ、大きな戦に巻き込まれます。必ず」


 その言葉に、驚いたように尊さんは瞳を大きく見開いた。

「それはどういう意味だ?」

「尊様、船に乗る時間です」

 理由を聞こうとした尊さんだったが、陸奥さんに声をかけられた。みれば、人々が順番に船に乗る所だった。尊さんは眉を寄せたが、ジャケットの胸ポケットから懐中時計を取り出して俺に押し付けた。

「その答えは、帰ってからゆっくり聞こう。これは、俺からの餞別だ――達者でな。父さんもしのも、元気で」


 尊さん達も船に乗り込んで、俺達は大きく手を振って見送った――必ず、帰ってきますように。俺は恩人の無事を、心から願っていた。



「もう十日ほどで食堂が始まる。覚悟は出来ているな?」

 帰りの馬車で、薬研氏がそっとハンカチで涙を拭ってから俺にそう声をかけてきた。俺も気持ちを入れ替えて、力強く頷いた。

「はい! 献立は紙に書いてもう提出しています。頑張って蕗谷亭を始めます!」

「頑張ります!」

 俺の隣のしのも同じようにそう言って、ズレそうな眼鏡を押さえた。

「――儂にもくれんか? 尊にやった、弁当を」

 薬研氏の言葉に、しのは不思議そうな顔で余った包みを取り出した。それを受け取った薬研氏は、竹の皮を開いて炊き込みご飯握りを一口齧った。

「――うん、美味い。きのこの香りが引き立っている。成程、香りのよい松茸に味のいいヒラタケと椎茸か。鶏肉もいい油で出汁と混じって、味わい濃くなっている。だがしつこくない油で、米が光り目も楽しく食べやすい。洋食も美味いが、お前は和食も上手に作る――きっと、尊は早くお前の飯が食いたくなって帰ってくるだろう」

「俺もそう信じてます。尊さんが帰ってきたら、びっくりするほど美味い飯を作りますね!」

 俺の言葉に、薬研氏はようやく小さく笑った。


 こうして、しばらく尊さんがいない不安を抱えたまま、俺は新しい道を進んだ――これで歴史は変わらないといいな、と思いながら。

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