第30話 お別れには炊き込みご飯握り・中
新しい家のお陰なのか春が近づいてきたからなのか、日が昇っていると随分温かくなってきた。聞こえて来る鳥の声も、何だか陽気で明るい。
そうしてめでたくこの三月に、俺達は尋常小学校を卒業した。
まかない食堂はもう綺麗になって、必要な台所用品も薬研氏に揃えて貰っていた。
俺には、藍染めの前掛けだ。割烹着にも前掛けにも、『
食堂の食材の仕入れ先は、俺と薬研氏ときちんと話し合った。月末に献立を考えて提出すると、翌月の材料を薬研家の使用人がまとめて用意してくれる事になった。ちなみに仕入れ先は、俺が頼むより前に「野菜は源三さんの店、細々したものはまつさんの店で」と言って貰えた。肉や魚なんかは、薬研氏の知り合いの所から用意して貰う。それ以外のものはつけ払いにして月末にかかった経費を薬研さんの会社で計算して貰い、そちらでまとめて各店に支払いをして貰う。現代的でスムーズで安心した。
それから長屋の皆の食費は、家賃と共に赤坂の薬研研究所の経理に渡すようにと教えられた。家賃は六十銭。食費は一か月一人二十五銭。まつさんの子供の食費は、大きくなるまで二人で十五銭で良い。家であまり食事をしないおっかさんも同額、と決まった。
「それに、もし食材が余っていて食べにくる者が来たら、お代を貰って食べて貰うといい。それは、店で貯金しておけ」
薬研氏の製薬会社の豪華な部屋で契約書のサインや店の運営の話をしている時、薬研氏は条件にそう付け加えた。長屋の住人の家賃も食費も赤坂という立地なのに破格だ。その上、商売までしていいらしい。本当に薬研氏は、まだ十歳の俺を高く評価しているらしい。
「ただ、こちらからの願い事もある。儂の商売相手の飯も、時々作って欲しい」
『蕗谷亭』は、玄関を入ると土間が広がる。その奥に、大きな台所。左手の部屋は襖を開けて広げた六畳と八畳の続き部屋がある。その奥には休憩用の四畳の部屋と、六畳の謎の部屋があった――多分だが、何かあまり聞かれたくない商談をする時や本当に客に食事をして貰う時はここを使うという事だろう。その部屋の奥の襖を開ければ台所のすぐ脇で、勝手口から出入りできる。そこは、畑が広がっている道に繋がっているので目立たない。
「分かりました。台所は通りやすいようにして、美味しいものをご用意いたしますね」
「お前が考えている通りだ、よろしく頼む。恭介は賢くて助かるな」
まさか、こんな店? で薬研製薬のような大きな会社が極秘の商談をするとは思わないだろう。薬研氏こそ、やり手だ。
「そうだ――明後日、尊は船に乗る。もし見送りをするなら、朝の十時にここに来るといい。馬車に乗せてやる」
しのと揃って立ち上がり執事の門田さんにドアを開けて貰って帰ろうとした時に、薬研氏が寂しそうな声音で小さく呟いた。俺は「必ず来ます」と返して部屋を出た。薬研氏は商人として素晴らしい才能がある上、博打も女遊びもしない。酒も付き合いや軽い晩酌程度で、「商売人」と同じくらい「父親」としても理想的な人だ。きっと、子供達を分け隔てなく可愛がっているのだろう。この時代海外に行くにはまだ船で、片道一か月程の長期間の旅になる。陸奥さん以外に使用人が何人か付いて行くそうだが、息子の旅を心配に思っているようだ。俺も、万が一――考えたくないが最後の別れになるかもしれない恩人の旅を、絶対に見送りたかった。尊さんには、色々お世話になっているのだから。
「しの、ここまで来たし丁度いい。お前の眼鏡取りに行こう――忘れてただろう」
「あ! 本当だ。おっかさんに悪いから、取に行こうよ」
薬研製薬を出ると、帰ろうとするしのの手を握って引き留めた。おっかさんもしのも忘れていたんだなと、俺はのんびり屋の二人に思わず小さく笑う。その言葉にしのが慌てて、俺の手を引っ張り下駄の音を高く眼鏡屋に向かった。
眼鏡を受け取り家に帰ってくると、しのは小箪笥から自分の手鏡を取り出して色んな角度で自分を見ていた。俺は竈に火を点けながら、そんなしのを時折眺めている。
「確かに見えやすいけど、変じゃないかなぁ」
要は、見た目を気にしていただけだ。もうしのは身なりに気を遣うようになっていて、三つ編みを結ぶにもおっかさんの鏡でおっかさんの椿油を使い少し時間をかけるようになっていた。
「可愛いじゃないかい。よく似合ってるよ」
そこに、おっかさんが顔を見せた。時計を見れば、もう昼の三時過ぎだ。俺達は薬研製薬所で
「本当に? 良かった」
「それよりしの、友達が来てたよ。手紙を預かってる、ほらこれだよ」
おっかさんの言葉で、ようやく満足したようだ。しのは鏡から顔を離したが、おっかさんの言葉に首を横に傾げた。麦飯が入った茶碗と漬物を持って来た俺に「小箪笥に直して」と手鏡を渡して、しのはおっかさんから手紙を受け取った。
「兄ちゃん、ふみちゃんだ。ふみちゃんも、明後日汽車に乗るって。朝の七時には行くみたい」
「そうか。なら、ふみを見送ってから尊さんの見送りに行こう」
しのは、尊さんの話を聞く時より沈んだ顔をしていた。しのにとっては、確かに尊さんより四年間一緒だったふみの方が気になるのだろう。俺は小箪笥の引き出しを開けながら、しのに返事した。そうして開けた小箪笥には――何か入っていた。開ける場所を間違えたのかと思い閉めようとして――なんだかその中のものに、どこか見覚えがある様な気がしていた。
――あれ? なんだろう……これ、確か……。
俺が無意識に「それ」を取り出そうとする様子を、手紙から顔を上げたしのが見たらしい。
「駄目! 兄ちゃん、閉めて!」
しのが大きな声を上げた。俺とおっかさんは、しのの声にびっくりして動きが止まった。しのはそのまま唖然としている俺から手鏡を取り、開けていた引き出しをぴしゃりと閉めた。そうして、上の引き出しを開けて手鏡を直した。
「兄ちゃんは、これから絶対この小箪笥開けないで! 絶対だよ、約束!」
そう言うと、「ふみちゃんの家に行ってくる」と、下駄を鳴らして出て行った。俺とおっかさんは、きょとんとした顔でお互い見つめ合った。
「しのらしくないねぇ、どうしたんだい? でも恭介、しのがああ言ってるんだから開けちゃだめだよ」
おっかさんはちゃぶ台の前に座ると、俺がさっき用意した急須のお茶を飯が入った茶碗に注いだ。
「分かってるよ、勝手に見ない」
そう言いつつ、確か引っ越しの時にしのの兵児帯に挟まっていたのと同じ大きさに見えたそれが何か、気になって仕方なかった。
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