十膳目

第29話 お別れには炊き込みご飯握り・上

 三月になると、尋常小学校を出た後の話が話題になるようになった。俺としのは身内食堂で働く事になっているから、食堂となる元茶屋の修繕が終わるのをのんびりと待っている。優雅なものだ。

 しのと仲の良い二人も、進路が決まったらしい。


「あたし、高等小学校に通う事になったの」

 かよの父親は、町医者だ。看護婦かんごふになって欲しい親の為、進学して勉強を頑張るらしい。確かにかよは頭が良いが一人娘だったので、「男だったらなぁ」と親や周りによく言われていたらしい。令和の現代なら考えられない言葉だ。進学するのに、男女は関係ない筈なのに。

「看護婦よりも、あたしは医者になる。女の医者になってやるの」

 かよは周りの言葉に、返ってやる気が起きたらしい。毎日寝る前に、予習をして難しい医師免許を取ると笑っていた。俺としのはその言葉にかよと同じように笑っていたが、ふみは沈んだ顔をしていた。


「あたし――あたしは、上方に行くの。織物工場で、働く事が決まったの」

 意外な言葉に、俺達はびっくりした顔でふみを見つめた。ふみは五人兄弟の末っ子で、進学する金はなく家族の為働きに行くしかないようだった。それで、ここ数日浮かない顔をしていたのか。しかし、上方――つまり関西か。この時代の俺達には、途方もなく遠い距離だろう。何人かの女の子が、迎えに来る工場の人と共に織物工場へまとまって行くらしい。

「向こうに行っても、皆に手紙を書いていいかな?」

 泣きそうな顔のふみの手を、しのがぎゅっと握った。その上に、かよも手を重ねる。

「当り前じゃない。あたし達はずっと友達だよ! あたしも手紙を書くね」

「ふみちゃん、いつでも手紙書いてね。あたしも、ふみちゃんとしのちゃんはずっと友達。忘れないでね?」

 二人の言葉に涙を浮かべたふみは、それから俺の方を見た。兵児帯へこおびには、以前俺がふみにあげた矢絣の手拭いが大事そうに挟んであった。

「え? あ、……あの、俺も、しのと一緒に手紙書くよ」

 俺の精神年齢は、二十歳だ。ふみが何となく俺に好意を抱いていることぐらい、この頃には分かっている。遠くに行くふみに期待を持たせることはしたくなかったが、しのとかよに怒られては嫌なのでそう声をかけた。

「有難う、みんな有難う……あたし、絶対みんなを忘れない。向こうでうんと頑張ってお給金貯めて、必ず帰ってくるから!」

 ふみが泣き出すと、しのとかよもつられてわんわん泣き出した。俺はどうしていいのか分からず、おろおろと三人の頭を撫でるしか出来なかった。



「実は、独逸どいつに留学する事になった」

 かよやふみと話をした数日後。たけるさんが見慣れない軍服の若い男を一人連れてうちに来て、唐突にそう言った。

「え……独逸?」

 「土産だ」と貰った紅茶の葉を、急須に入れて湯飲みで飲む――変な光景だが、ティーカップなんて洒落たものはうちにはない。しのは一緒に貰った、高価なかすていらカステラに夢中だった。


「俺は薬研家の四男だし家業を継ぐ事はない、なら陸軍に入り国の為に尽くすことを決めた。軍事に関しては、外国の方が進んでいる。なら、そこから学ぶ方が早いと思った」

 薬研製薬会社はまた大きな会社になったが、長男と次男が手伝っているらしい。同じく陸軍にいる三男の護衛の馬に、俺は蹴られたとの事だった。薬研家には、次男の次に長女がいる。つまり尊さんは、妙な偶然でふみと同じ五人兄弟の末っ子だ。同じ家族構成なのに――境遇の差に、俺はふみがより不憫に思えた。

 しかし、それより尊さんが陸軍に? 俺は、世界史をきちんと覚えていない事に頭を抱えた。今独逸に行っても大丈夫だっけ? 俺がこっちに来る前の年に日露戦争は終わっていた筈だから……と、ぐるぐると頭の中で歴史を思い出そうと悩んでいた。

「どうした? ――ああ、英吉利えいぎりすならお前たちの父親を捜して、文句の一つでも言ってやりたかったんだけどな」

 誤解したのか尊さんはそう言って、小さく笑った――彼なら本当にそうしそうで、「いやぁ……」と笑って誤魔化した。


「それもそうなんですが……あの、その方は……?」

 尊さんの横で湯飲みに入った紅茶を飲む彼に視線を向けて、俺はようやく疑問を口にした。

「ああ、紹介がまだだったな」

 尊さんがそう言うと、彼は湯飲みをちゃぶ台に置いて頭を下げた。

「申し遅れました、自分は陸奥むつ勝成かつなりと申します。陸軍第一師団二等兵、十七であります」

「尊さんて、幾つでした?」

「夏で、十四になる」

 尊さんって、俺達より四つ上だったのか。いやそれより、自分より年上の軍人になんで偉そうなんだ?

「陸奥は俺の家の使用人の息子で、小さな頃から知っているが頭がいい。俺一人で外国に行くには少し不安でな。いっしょに行って貰う事になっている」

 成程。使用人の息子と主の息子なら、これが普通なのか。それに、確か二等兵って一番下の階級じゃなかったっけ?

「十七になってすぐに志願したので、まだ階級は下っ端です。それまでは、親と同じく薬研家で働かせて頂いていました」

 俺が不思議そうにしていたのに気が付いたのか、陸奥さんはそう言ってもう一度頭を下げた。

「何時まで独逸に滞在するの?」

 かすていらを食べ終わったしのは、ようやく冷めてきた紅茶の入った湯飲みを手にして聞いた。しのは俺達に偉そうにしない尊さんを、友人と思っているような所がある。

「三年くらいだろうか。帰って来た時は、俺に小さくても師団の一つを与えて貰う約束をしている。勿論、陸奥も階級を上げて貰う。長く向こうに居て、日本を忘れる訳にはいかないからな」


 ……三年。俺は、家族以外で一番信頼している尊さんが遠くに行くのが寂しく、そうして不安になって眉尻を下げて頷いた。それに、これから世界が荒れていく未来を知ってる為、尊さんの事が心配になっていた。


 だけど、未来を教える事だけはしてはいけない。歴史を変えては、いけない。それを、改めて肝に銘じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る