第25話 交渉には卵サンドヰッチと青豆のスープ・下

「うふふ、お褒め下さり有難うございます」

今度は隣のおっかさんも笑いだしたので、俺は本当に何が起こっているのか分からなかった。

「よひらに連絡を貰った時に、事情は先に聞いていた。同じような六軒長屋を紹介して欲しいと――だが、何故なのかはお前の口から言わせるとよひらは言っていてな。お前から、確かにちゃんと理由を聞いた。そして、儂は納得した」

 俺は驚いて、おっかさんの綺麗な横顔を見つめた。確かに、俺の体は――周りが見ればまた十歳の子供だ。そんなまだ子供の俺を、おっかさんは対等に接してくれて信用してくれている。薬研氏に「恭介から話させます」と言ってくれたのが、その証拠だ。


「ここに来るまでに、門田に調べさせた。好都合な事に、赤坂にここより少し広い六軒長屋がある。去年の末に建てたばかりで、まだ住人はいない」

 そう言うと、薬研氏は門田から受け取った紙をちゃぶ台に開いた。どうやら、地図のようだ。彼が指差す所に、六軒長屋が描かれている。ここと同じ並びで、井戸を挟んで向かい合う三件の長屋が二つ。

「あの、でも――新しく建てたという事は、家賃が高いんじゃ……」

 こっちの長屋は、もう年季が入った隙間風だらけの家だ。きっと今より高くなるに違いない。そうなると、皆の家計への負担も多くなる。


「儂がここを、買い取った――まあ、正式にはこれから買いに行く。向こうには朝早くに連絡をしているから、間違いなく購入出来る――そこで、恭介。儂と取引せんか?」


 薬研氏の楽しげだった顔が、商売人の顔に戻った。俺は思わず背筋を伸ばして、真っ直ぐに彼を見返した。

「ここに、一軒の家があるだろう。ここは、前に茶屋を開いていたところらしくてな。今は誰も住んでない。裏手に、一ほどの畑の跡地もある。(※一畝は、三十坪ほど。六畳の部屋十部屋分くらい)お前の返事次第では、ここも手入れをして長屋の者が食事をとる所にしてやる。つまりここで、お前は長屋の住人の食事を作れる。そして、長屋の家賃は今まで通りで値上げせず、この家は無料で貸してやる」

 六軒長屋を指差していた薬研氏の指が、少し離れた――と言っても、三軒分くらいしか離れていない所を指差す。その近くに、薬研製薬所の工場の名前も見えた。しかし――いくらなんでも、俺達に好条件過ぎる。俺に、どんな条件を出してくるのだろうか。

「儂の所の工場が、ここにあるだろう? ここで働く従業員で、独身や独り者の寮があるんだが――寮の食事を作っていたものが田舎に帰ると言い出してな。昼は工場の中で食べられるが、朝と晩の彼らの食事が無くなる。彼らの分も作ってやってくれれば、交渉成立だ」

 つまり、食事を多く作ればいい事だ。それなら、俺に出来そうだ、だが――。

「その従業員さんの食費と、作る人数は?」

「食費は、無論出す。ここの家賃は、お前たちの労働の対価と思ってくれればいい。人数は、今の所八人だ」

 八人……正直、俺は出来るか不安になった。しのは手伝ってくれているが、料理人ではなくまだ子供だ。そんな俺達二人で、八人分と長屋の住人の食事が作れるのか……?


「ちょいと失礼しますよ!」


 その時、不意に女性の声がして建付けの悪い玄関が開けられた。どうやら、長屋の住人が聞き耳を立てていたようだ。ちらりと源三さんやまつさん夫婦の顔が見えた。それより前に出て家の中に入ってきた女性の顔は、あまり馴染みがなかった。年の頃は、二十代の後半に入ろうとする頃だろうか。美人ではないが、愛嬌のある顔立ちの人だった。

「あたしは、活動弁士の間宮勝吉の妻のりんです。勝手に聞き耳立てちまってすみません。そのまかない作り、あたしも手伝いますよ。そよさんの子供達だけに、あたし達の生活すべてを任せる訳にはいかないからね。三人なら、何とかならないかい?」


 それは、思ってもいない助けの言葉だった。同じ献立メニューを作るのは簡単だが、人手が足りなかった。突然名乗り出てくれたりんさん――よく知らない人だけど、この長屋の住人なら多分頼りにしてもいいだろうな。そんな彼女も手伝ってくれるなら、きっと俺達できっと出来る――いや、やる!


「交渉成立です! 俺としのとりんさんで、住民と従業員の食堂をやります!」


 興奮して赤くなった俺の顔を見て、薬研氏は満足げに頷いた。外にいたまつさん達から、わっと歓声が上がった。

「よし、ちゃんと後で書面でも契約するからな。出来ませんでした、は許さんからな?」

 やはり、商売人だ。子供相手でも、契約はきちんと残すらしい。俺は「はい」と頷いた。


「薬研様、お昼はまだお済ではないですよね?」


 そこに、おっかさんが声を挟んだ。その唐突さに、薬研氏は少し面食らったようだ。

「あ、ああ。まだだが」

「そうですか――ほら、恭介もしのも直ぐ用意しな。薬研様に、自分たちの腕をご覧いただくために、朝から頑張って作っていたんですよ」

 その言葉に、俺としのは立ち上がって竈へ向かった。火が通り過ぎないように脇に置いていた青豆のスープの鍋を、火を点けたままだった竈に戻す。火のついた薪を残していたのは、薬研氏の為に部屋を暖めていたのもある。そして、乾いてしまわないように濡らした手拭いをかけていた、玉子サンドヰッチが乗った皿を出した。


「どうぞ」

 俺は、薬研氏と門田の前にサンドヰッチとスープを置いた。門田は、主人と並んで食べる訳にはいかないと薬研氏に視線を向けたが、彼は「お前も食べろ」と言ってパンを手にした。

「――ん?」

 一口齧った彼は、それを喉に流し込んでから不思議そうに瞳を丸くした。

「恭介、これは玉子サンドヰッチの筈だな? 儂が知っているものと、随分違う――美味い」

 そりゃ、マヨネーズはまだ普及してないからなぁ……玉子サンドヰッチに混ぜられるのは、まだまだ先の世だ。

「実は、本で読んで作ったソースです。西班牙すぺいんのものとの事です」

 確か、地中海の島が発祥で仏蘭西ふらんす人が広めた筈だと記憶していた。そんな本は読んでいないが、一番自然だろうとそう口にした。この時代風に、辛子も少し混ぜている。

「まったりとした触感で、僅かな酸味と塩気がいい塩梅だ。刻んだ茹で卵とよく合う。うん、辛子もいいアクセントだ。乾いたパンに沁み込んで、食べやすい」

 瞳を伏せて噛み締めて食べる薬研氏の隣で、門田も遠慮気味に口にした。一口食べて、彼も満足そうに俺に笑いかけた。

「ふむ。青豆のスープも美味い。青臭さを感じずに、牛乳とバタでまろやかに喉を通る。青豆は、実はあまり好物ではなかったがこれなら食える」

「青臭いものは、塩を多めに使うといいんです。干し青豆を茹でる時に、多めの塩を使いました。ですから、味付けはバタに入っている塩だけです。風味は牛乳です」

 説明する俺に頷きながらも、薬研氏と門田は綺麗に完食した。


「美味かった、御馳走さん。これなら、安心して食堂は任せられそうだ。それでは儂はそろそろ、長屋の買い取りに行ってくる。食堂の手入れの手配もしなければならんしな」

 満足そうに腹を撫でてから、薬研氏と門田は立ち上がり家を出た。長屋の皆は、馬車に乗る彼らに頭を下げていた。


「あの、薬研様。どうして、こんなに俺達によくして下さるんですか?」

 俺は、一番謎だったことを尋ねてみた。どう考えても、俺達に得な事ばかりだ。薬研氏は、彼の息子が乗る馬車の警護の馬に蹴られただけの俺にここまでしてくれている。

「それなら、尊に感謝すると良い」

 馬車の窓から俺を見下ろす薬研氏は、彼の別の息子の名を口にした。俺は、整った顔の人懐っこいが大人びた尊を思い出す。

「尊が、恭介は大物になるから先行投資をするのが良いと言ってきた。まぁ、今なら俺もそう思う。期待しているぞ」

 その言葉を残して、馬車は走り出した。


 薬研尊。彼はコロッケを大金払って買ってくれた上に、俺の将来を期待してくれている――俺はおっかさんとしのの他に、大切な恩人が出来た。

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