第24話 交渉には卵サンドヰッチと青豆のスープ・中

 昼の一時の、五分ほど前に馬車は来た。降りてきたのは、小豆色の現代で言うダブルのスーツ姿に丁寧に髭を整えた薬研尊の父親だ。懐中時計で時間を確認して、満足そうに頷く。牛鍋の時に会った、愛想のいい商売人――でも、今日は少し真面目な面持ちだった。以前にも会った執事は、やはり変わらず薬研氏に付き添っていた。


「先日の飯の時以来だな。改めて、薬研やげん権蔵ごんぞうだ。よひらからの伝言で、会いに来たぞ――恭介、儂に話があるそうだな?」


 長火鉢の部屋に座って貰い、しのが温かいお茶を淹れてくれた。紅茶や珈琲なんて、洒落た贅沢品はうちにはない。おっかさんもしのも俺も、出来るだけ綺麗な着物に着替えた。失礼ない様に、部屋も掃除してある。おっかさんの隣に座った俺は、深々と薬研氏に頭を下げた。

「よくして下さっている薬研様に我儘を言ってしまい、申し訳ありません。どうしても、俺達困っていて――薬研様しか、俺、頼れる人が思いつかなくて……」

「ふむ……もしかして、長屋の立ち退きの話か?」

 俺をじっと見つめていた彼は、自分の髭をちょいと摘まんでそう口を開いた。

「そうです! でも、どうして薬研様がご存知なんですか?」

 意外な彼の言葉に、俺は顔を上げて彼を見つめた。おっかさんの表情は変わらず、しのはお盆を持ったまま部屋の隅に座っている。

「儂の商売仲間が、会食ででぱあとを建てる話をしていたんだ。どこに建てるのかと聞けば、この六軒長屋の辺りだという。今月中に周辺を立ち退かせると言っていたが……やはり、ここも立ち退きの区域になっていたか」

 難しい顔になった薬研は、熱いお茶を一口飲んだ。

「新しい家を紹介して欲しいのか?」

「いえ! あ、いや、そうでもあるんですがそれだけではなくて……その」

 やはり、大きな商売を取り仕切る余裕のある大人相手に、俺は少々怖気づいていた。意志の強そうな瞳を真っ直ぐに見返せなくて、思わずまた下を向いてしまった。

「恭介、しっかりおし!」

 おっかさんが、そんな俺の尻をぴしゃりと叩いた。俺は驚いてビクリと身を竦めるが、それが勇気をくれた。思い切って、顔を上げる。


「あの、俺としのは尋常小学校を卒業したら薬研様の所に奉公ほうこうに行きます! なので、同じような六軒長屋を紹介して欲しいんです! お願いします、俺達長屋の皆が同じ家に行けるように、お願いします!」


 まだ声変わりしていない俺の声は、少し甲高く部屋に響いた。そして、擦り切れた畳に額を押し当てて頭を下げた。隣で、おっかさんも丁寧に頭を下げている。どうやら、後ろでしのも必死に頭を下げているようだ。

「……恭介」

 薬研氏はしばらく黙って俺達を眺めていたようだったが、静かに口を開いた。


「何故、『六軒長屋の皆』なんだ? お前たち長屋の者たちは、親兄弟親戚でもない。一緒に引っ越ししなくても、困らないんじゃないのか?」


 それは、最もな意見だと思う。俺は、今度こそ真っ直ぐに薬研氏の瞳を見返した。

「薬研様は、食事とはどうあるべきと思っているのでしょうか? ただ、腹を満たせばよいとお考えでしょうか?」

 質問に質問で返すのは失礼な事だが、俺の話はこれが重要だから仕方なかった。薬研氏は、少し驚いた顔をした。

「いや――美味いものを食いたい。食事は、生活の中でも重要なものだ。家にいる時は家族と。仕事先では、仲間や部下と。誰かと語らい、腹を満たす」

 その言葉に、俺はゆっくり頷いた。


「この長屋に住んでいるのは、家族がいない人が多いんです。家族がいる所でも、仕事の為に片手間に済ませたり、食べる回数を減らしたり。外で食べようにも仕事で行けなかったり、作ると一人分だと材料を腐らせてしまう――だから、俺達が支え合えばその負担がなくなると思うんです。それに、それに……一人で食べるご飯は、とても味気ないんです。ご飯を、楽しめないんです。俺としのは、小さな頃からこの長屋の皆さんにお世話になっています。家族みたいなんです! みんなと、楽しい食事がしたいんです!」


 三度の飯を必ず一緒でなくてもいい。昼やたまには夜、全員分を一緒に作ったらみんなで食べられる。それに時間が合わず一緒に食べられなくても、食事は準備しているのであとで必ず食べられるはずだ。

 高藤さんや辰子さん、源三さんや小さな子供がいるまつさん達の顔が浮かんだ。恭志が恭介になる前から、この長屋で世話になっていたかもしれない。俺は、まだ明治ここに来て知らない事が多くて、未だに不安だ。もう少しでいいから、知っている顔と一緒にいたかった。


「新しい長屋で、長屋の飯屋でも開くのか? 奉公に出たら、それは出来ないと思うが」


 薬研氏の言葉に、俺は思わず言葉を失った。俺は、奉公とはアルバイト的に考えていたのだ。空き時間に料理を作ればいい、そう思っていたがどうやらそんな簡単な事ではないらしい。俺は、まだこの時代の事を良く分かっていなかったのだ。


「あたしが! あたしが、兄ちゃんの分も働きます! どうか、――どうか、お願いします!」

「しの!」


 しのが前に出て、俺の隣で泣きながら頭を下げた。

 俺は浅はかな考えで突っ走ってしまった事に、深く後悔した。大事なしのを泣かせてしまった、その俺の馬鹿さ加減に泣きたくなった。



「はははっ! よひら、お前は子育てが上手い。良い子供に育てたな」

 薬研氏は大きく笑うと、隣に座る執事の門田に手を出した。すると、彼は即座に折りたたまれた紙を取り出して、主人に渡した。

 俺としのはさっきまで難しい顔をしていた薬研氏が明るい顔で楽しげに笑う姿を見て、何だか分からずぽかんと間抜けな顔を浮かべた。

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