第10話 華族の薬研家! 牛鍋をご一緒に・下
「よう来たなぁ。ま、座りなさい。お前たちも、さぁ」
馬車に乗って連れて来られた店は、着古した着物姿の俺達兄妹が場違いな程現代的なロマン風な店だった。店にある時計は、十四時を指していた。この店に来ているのは、大半が洋装の男女ばかりだ。案内された個室にも、立派な髭を整えた洋装の男が座っていた。年の頃は、四十後半から五十前半に見えた。細身だが、しっかりとした体格の男だ。そよをにこにこと眺めて、俺らにもそう声をかけてくれた。
「お邪魔します――あんたたちも、行儀良く座りな。薬研様、今日は息子の為に有難うございます」
先ほどの態度と違い、深々と頭を下げてからそよは男の向かいの椅子に腰を掛けた。俺としのもそれに倣ってから、そよの隣に座る。尊は、多分父である薬研と呼ばれた男の隣に座った。
「うちが悪い事で、しかも謝罪が遅うなったんや。すまなかったな、儂が名古屋に行ってる時に事故に遭ったみたいで。しかし、無事で安心した。すまんかったな、坊主」
愛想が良いのは、商売人だからかもしれない。俺が頷くと、薬研は女中さんを呼んだ。
「エビスビールと、牛鍋を頼む――よひらも、飲むかい?」
「いえ、今日は子供もおりますので」
よひらは、日本橋で芸者をしているそよの源氏名だ。花びらが四枚ある事から、紫陽花の事らしい。「かしこまりました」と、女中は奥に入って行った。俺はその後ろ姿を追いかけたくなった――当時の厨房を、見たかったからだ。しかし、ビール……しかも、もうエビスビールがあったのか。俺はビールの歴史には、詳しくなかった。
「薬研様、ビールは外国のものじゃないの?」
俺は思わず、そう尋ねてしまった。そよが驚いた顔をしたのが、後で妙におかしかった。
「ん? 坊主は確か――恭介か。ビールを知ってるのか? 徳川将軍の時に
この頃から、もう札幌という地名が呼ばれていたのか。俺は興味深げに、うんうんと頷いた。サッポロビールに続いて明治二十一年にキリンビールが出来て、明治二十三年にはエビスが出来たそうだ。
「父さん、もうそれぐらいにしておきなよ」
「すまんすまん、恭介が真剣に聞くからつい話したくなってな。恭介は、ビールか商いに興味があるのか」
「いえ……その、料理が好きで……」
確か昔は孟子の言葉から、『男子厨房に入らず』と言われていた気がする。俺は、声を小さくそう言った。
「恭介ならいい料理人になるよ、父さん。俺は、こいつが作ったコロッケを食べた。とても美味しかった」
「尊が食べたのか? そうか、料理人になりたいのか。いいな、良い夢だ。これからなら、コロッケの様な洋食を作るといい。いい息子をもったな、よひら」
思ってもいない言葉を言われて、俺は少し驚いて薬研親子を見返した。確かに、料理人に男は多い筈だ、おかしな事ではないのかもしれない。
俺がそう考えている間に、ビールが運ばれてそよが薬研に酌をしていた。そうして、良い匂いがして女中が揃って牛鍋を持って来た――じゅうじゅうという音に、辺りに漂う出汁と味噌と醤油の匂い。
熱々の鉄鍋に牛脂を押し当てて溶かして油を塗った所に、葱と大きめに切った牛肉。割り下は、醤油が多めで味噌――多分赤味噌に砂糖。遠くにカツオ出汁を感じる。俺は運んできて下がろうとした女中を追いかけて、あとはみりんが入っている事を聞いた。
「ほらほら、作り方は何時でも聞いてあげるから食べなさい」
熱心な俺に、薬研氏は笑って席に戻るように促した。クスクスと尊は笑ってる。そよとしのは俺の行動に、少し驚いているようだった。
俺は「ごめんなさい」と言ってから、席に戻った。そうして、箸を手にする。熱々の鍋から漂う、空腹を刺激するいい香り。牛肉の匂いは、俺に少し現代を思い出させた。ふぅふぅと息を吹き、肉を口に入れる――肉の油が、美味い!
俺は、感激して咀嚼もほどほどに飲み込んでしまった。少し厚めの肉は、噛み応えがあり少し油も感じる。赤身と
「恭介、良かったら飯も食べないか?」
必死に食べている俺に、尊がそう話しかけてきた。
「はい、食べたいです!」
この強い味付けには、ご飯が合う。俺は条件反射で、そう返事をした。笑っている尊は女中さんに飯を頼んだ。出てきたのは、まさかの白米!
俺は残っている肉と葱と汁をその飯の上に乗せて、即席の牛飯を作った。そして、ガツガツと腹に収める様に食べる。お昼が遅くなって、腹が減りすぎていた俺には我慢できなかったのだ。
「ははは、良い喰いっぷりだ。沢山食べなさい」
薬研氏は笑い、赤くなっているそよが注いでくれたビールを一口飲んだ。
参考文献:日本ビアジャーナリスト協会 (www.jbja.jp/archives/33532)
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