第9話 華族の薬研家! 牛鍋をご一緒に・中

蕗谷ふきや恭介さんのお宅でしょうか?」

 馬車が止まった音がして誰かが降りてくる音がした。足音から、二人くらいらしい。玄関を開けっぱなしにしていたので、知らない男がひょいと顔を覗かせた。珍しい洋装――現代のスーツみたいだ。

「誰だい?」

 そよが怪訝そうな顔で、その男に尋ねた。男はその言葉を聞いて、優雅に礼をした。

「失礼しました。私は、薬研やげん家の執事の門田と申します。先日、薬研家の乗る馬車の護衛の馬が、恭介さんを蹴ったとお聞きしています。その、お詫びに参りました」

「何だい、今更。あの日から何日経ってると思ってるんだい」

 薬研、と聞いてそよは殊更ことさら機嫌が悪くなった。まつさんと松吉さんも、あんまりよい顔をしていない。薬研――珍しい名前だが、俺には聞き覚えがあった。俺の時代、有名な製薬会社の一つに「薬研製薬株式会社」があったからだ。まさか、その祖先……なのだろうか?

「牛鍋でも食べて、お詫びをしたいと思っています。お母さまのそよ様と、妹さんのしのさんも、是非ご一緒に」

「牛鍋……」


 教科書で習ったものだ。文明開化の味。確か、すき焼きの元祖だったはず。それを、まさか食べれるなんて――この時代に来てから、牛肉を食べた事が無く思わずよだれが出そうになった。


「――分かった、行くよ。あたしは用意をするから、少し待ってくれないかい。二人とも、台所を片付けて出かける用意をしな。まつさん、松吉さん、すまないね」

 そよは不機嫌そうな顔のまま立ち上がり、門田にそう言ってからまつさん夫婦に申し訳なさそうな顔を見せた。

「畏まりました、御準備お待ちします」

「あたしたちの事は気にしなくていいよ――気を付けていきなよ?」

「気を付けてな」

 まつさんも松吉さんも、本当に心配げにそよにそう声をかけた。そよは頷いて、奥の部屋に入って行った。しのは、料理に使ったものを水が入った桶などに漬ける。

「あ! 良かったら、まつさんたちお昼にどうぞ。このコロッケなら、お腹いっぱいになるよ」

 俺はせっかく作ったコロッケが冷たくなって美味しさが半減するのが勿体なく、八個ほど新聞紙に包んだ。今から昼の用意をするのも、遅くなってしまうだろう。

「いいのかい? 珍しいコロッケをこんなにたくさん。うちは有難いけど」

 そう言いながらも、まつさんは素直に受け取ってくれた。受け取ってくれた事であれはお世辞じゃなかったと、内心俺は安堵していた。

「いいんだ。美味しく食べてくれる方が、俺は嬉しいからさ!」

「有難うな、じゃあ俺達は帰るな」

 松吉さんが屈んで俺の頭を撫でると、夫婦と息子たちは家を出て行った。その時、すれ違う様に誰かが代わりに入って来た。

「坊ちゃん、馬車で待っていてください」


 入って来たのは、俺より少し年上――現代で言う中学生くらいの少年に見えた。坊ちゃん、という事は、彼は薬研家の人間なのだろうか。子供用の洋装に身を包んでいた。確かに、着古した着物姿の俺達とは、育ちが違うのが一目で分かる。


「暇だ、それに長屋は珍しい」

たける様、我儘は少しお控えください」

 尊、と呼ばれた少年は興味深そうに俺達の部屋を眺めていた。しのは、そんな尊を不思議そうに見ている。

「いい匂いがするな。コロッケと聞こえたが――お前たちの母が作ったのか?」

「違うよ、兄ちゃんだよ! とっても美味しいんだから!」

 しのが、もう冷えた油を灯油用にするのか空いている缶に入れながらそう答えた。それを聞いた尊が、所在無げに立っていた俺に視線を向けた。

「へぇ、お前が作ったのか。俺も食ってみたい、一つくれないか?」

「坊ちゃん、いけません」

 執事は、慌てて止める言葉を向けた。庶民の作ったものを食べさせて腹を壊したら、彼の責任になるのだろう。だから、慌てて尊を止めようとしていた。

「こいつの事は無視していい。食べてみたい、くれないか?」

 尊はそんな事を気にするでもなく、俺に向かって同じ言葉を繰り返した。俺は困ってしのに視線を向ける。しのは、笑って頷いた。

「分かった――もう少し冷めてるけど、どうぞ」

 俺は、少し残っているコロッケを一つ菜箸で摘まむと、彼に差し出した。尊は戸惑うことなく、それを受け取った。そうして、大きく口を開けてコロッケに齧りついた。噛み後から、ぼんやりと湯気が寒い家の中に漂った。オレンジ色の南瓜が、鮮やかに姿を見せる。

「――うん、美味い。しかし、俺が今まで食べたコロッケと味が違う。今まで食べたコロッケより、ずっと美味い」

 それは、素直な称賛の言葉だった。俺はびっくりして彼を見つめた。

「お前、――恭介だったか。まだ九つだったな。それなのに、こんなに上手いものを作れるのか、面白い。気に入った」

「あたしの自慢の子供達だからねぇ。待たせたね、では行きましょうか」

 着物をきっちり着直して、紅を引いたそよが部屋から出てきた。仕事の時の様にきっちり化粧はしていないが、それでも改めて美しいと感心してしまった。

「有難うございました。牛鍋の店まで馬車で向かいます――旦那様も、そこでお待ちです」

 門田はそう言うと、先に家を出て俺達を促した。そよはしのに合図をしてそれに続いた。続こうとした俺の腕を、急に尊が掴んだ。


「まだ余ってるなら、持って帰りたい。勿論、代金は払う」

 コロッケを食べ終えて指に付いた油を舐めながら、尊は楽しそうに笑った。

「いいけど……」

 俺が小さく頷くと、尊はにっこりと笑って腕を離してくれた。俺はそよたちを待たせないように残りを全部新聞紙に包んだ。そんな俺に指をハンカチで拭いた尊は、「今は、これしか手持ちがない」と、一円札を渡してくれた。

 俺は貰った其の一円を着物の帯――現代で言う兵児帯へこおび? に挟んで、時計を確認した。もう、十三時半になろうとしていた。コロッケのいい匂いが鼻に残っていて、俺の腹が小さく鳴った。


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