第2話 交わした約束 1-3
カカッ。軽くて尖ったものが打ち付けられるような軽快な音が響く。
チュンチュンと大きく鳴く雀の声に意識を引っ張り上げられて、美来はパチッと目を開いた。
カーテンも閉めずに眠ってしまったせいで、部屋の中には朝の光が満ちている。
カカカッ。何の音だろうと不思議に思い、ベッドのすぐ右隣りの窓の外を見上げると、庇から小さな頭がのぞき、美来と目があった瞬間に、ババッと空くうを切る羽音をさせて、小さな黒い影が飛び立った。
あの音は雀が庇を歩いた音だったのかと納得した美来は、小さな訪問者が覗き込んだ時に小首を傾げる仕草を思い出し、見知らぬ人間をそっと観察していたのに見つかってしまって、とても驚いたに違いないと想像すると可笑しくなった。
父の母であり、美来の祖母にあたる山吹沙和子が暮らす田舎に、連れて来られて三日目になるが、都会のマンションでは今まで体験することもなかった小さな出来事で溢れていた。
今までだって、ここに何度も来たことはあるが、田舎嫌いの母と一緒に来ると、数時間で帰ってしまうので、家の外に出たことが無かったのだ。
美来が見つけることは、祖母の家では気に留めることもないほど当たり前のことらしく、こんなことがあったと話すたびに、沙和子はそんなことが面白いの?と笑いながら、耳を傾けてくれる。自分に向けられる優しい笑顔が嬉しくて、美来は何かしら発見するものはないかと、祖母の家を取り囲む自然へと目を凝らした。
田んぼや畑に囲まれた田舎は、三月の中旬ということもあり、美来が知らない花や色に満ちていて、あれこれ質問をしては、貸家の状態や、月極めの駐車場を見て回る沙和子の邪魔をしてしまった。
祖父は美来が生まれる前に亡くなっているが、沙和子はこの辺りでは広い土地を持っていて、昔住んでいた家を人に貸したり、空き地を駐車場に変えたり、コンビニに土地を貸したりして、不動産収入で悠々自適に生活している。
あちこち見て回るうちに、疲れが出たのと、痛み止めの薬を飲んだせいか、美来は布団に入ってすぐに眠りに引き込まれてしまい、たった今、雀に起こされた。
三月の朝は陽が昇るのも遅くて気温も低く、北側の壁にかけてある時計を確認するとまだ七時前だった。布団から出ていた肩が冷たくなっているのに気が付き、顎まで布団を引き上げてもう一度眠ろうとしたとき、南の庭から子供の声が聞こえた。
誰だろうと気になって、起き上がろうとすると、脇腹に走った痛みに美来は顔をしかめ、身体に巻いたコルセットを擦りながらベッドに手をついてゆっくりと身を起こす。
薄いベージュ色のコルセットの金具が指に触れ、美来はせっかくの楽しい気分が急に冷め、一昨日の土曜日に起きた恐ろしい出来事へと引き戻された。
最近、収まっていた母の暴力は、会社でミスをしたことでイライラが募り、ストレスのはけ口を求めて、再び美来へと向かった。
「何よその目!馬鹿にして!親を何だと思っているの⁉」
いつもと変わらないように接していたにも関わらず、一度切れた母親の怒りは収まらず、朝食を食べようとしていた美来をいきなり張り倒した。
突然のことで避けることができずに椅子から落ち、床にしりもちをついた美来に向かって、母の足蹴りが始まる。このままじゃまた元通りに殴られ続ける毎日になる。
美来はとっさに蹴り上げようとした母親の軸足を蹴っ飛ばした。ふらついた母親が椅子につかまり倒れた拍子に、椅子が床に打ち付けられる大きな音がする。
廊下の突き当りの寝室から父親が飛び起きて走ってきて、すごい勢いでドアを開けたので、バタンという音に驚いた弟が泣きだした。
父親がダイニングで見たものは、美来が母の上に馬乗りになって髪を引っ張って叫んでいる姿だった。
妻から以前、美来を叱るときに、美来が逆切れして暴力を振るうようになったと聞いていたので、急いで美来を妻から引き離すと、その頬を引っぱたいた。
「お母さんに何をするんだ!」
美来は叩かれた頬を押えて、信じられないというように父親を見たが、途端に目を眇めて、父親に向かってヒステリック叫んだ。
「あんたたちなんて大嫌いだ!暴力おやじ!あんたもこいつと一緒だ」
美来が父親にも向かってきてこぶしで殴ろうとするので、相手が子供であるのに関わらず父は思いっきり美来を突き飛ばした。美来は人形のように弾き飛ばされて机の角に脇腹を打ち付け、そのまましゃがみこんでしまった。
やり過ぎたと蒼白になった父親が、美来に駆け寄り抱き起こそうとするが、上に引っ張られた途端、未来が痛いと叫んで脇腹を押えて丸まる。しまった!これは打ち身だけじゃないかもしれないと焦った父親は、美来を車に乗せて近くの外科病院まで連れていった。
レントゲンを撮り、肋骨にひびが入っていると診断された美来は、ガードルのようなコルセットを身体に巻かれ、痛み止めを処方された。
痛みを堪えている美来が、娘を心配しておろおろする父親の手に縋ろうともしないのを見て、医者は何かを感じたようだ。父親を診察室から追い出すと、美来にどんなことが起きたのかをやさしく尋ねた。
母親だけでなく、いとも簡単に父親に傷つけられた美来にとって、大人は信頼のできない存在になっていた。何か言おうものなら、また大変な目に合うのではないかと疑う気持ちを隠そうともせずに、医師をじっと見つめる。医師は、警戒心を顕わにした美来の視線を含め、一挙手一投足を観察し、答えを導き出そうとしていた。
レントゲンを撮った際、美来の身体の他の箇所も注意深く調べたが、薄い痣はあるものの、最近できた打撲傷は無いように見えた。
父親の言うように、子供を振り払った際に起きた突発的な事故にしては、美来の慎重すぎる様子や、大人を見る猜疑心に満ちた目が、最初でないことを語っているような気がして、医師は質問を変えて美来の表情を注意深く観察する。
「お母さんも心配してるかな?迎えに来てもらうかい」
途端に美来が、弾かれたように思いきり首を振ったが、つられて身体まで捻ってしまったらしく、走った痛みに呻いて脇腹を押えた。
怪我をした子供なら、親に慰めてもらおうとするものだ。特に子供にとって母親は、一番自分を分かっていて受け止めてくれる存在のはずなのに、美来の激しい拒否は表に出ない何かを物語っていた。
「そうか。じゃあ呼ばない代わりに、先生を信じて本当のことを言って欲しい。お父さんとお母さんから、これまでに何度か叩かれたことがあるかい?」
美来は、急に心臓があぶるのを感じた。
この先生は何を聞き出そうとしているのだろう?言ってしまったら、両親からもっと叩かれたり酷い目に遭うんじゃないだろうか?
本当のことなんて誰が決めるんだろう?お父さんだって、私に暴力を振るうお母さんをかばったのに……。
多分、お母さんが暴力をふるうと私が本当のことを話したら、この優しそうな医者も途端に態度を変えて、子供のくせに、親を悪者にするなと怒り出すのだろう。
まるで彫刻になってしまったように、硬い表情で動かなくなった美来に、以前同じような患者を診たことがある医師は、美来が恐れていることを察したようだ。
叩かれたことが無いと否定しないで黙りこむのは、どんな災難が自分に降りかかるのかを心配している証拠だ。こんなに小さいのに我慢して、我慢して、恐ろしい未来から自分を守るために、事実を隠そうとしているのだ。
「先生は何を聞いても怒らないよ。もし、迎えに来て欲しい人がいたら教えて欲しい。連絡を取ってあげるから」
「ほんと?」
「ああ。誰に来て欲しい?」
「おばあちゃん。遠くに一人で住んでいるの」
「分かった。電話番号はわかるかい?おばあちゃんは叩いたりしない?」
「しない。蹴ったりもしない」
医師の誘導だともしらないで、美来は日常起きていたことを知らず知らずのうちに医師に漏らしていた。
聞き終えた医師は、別室に父親を呼ぶと、美来が母親から暴力を受けていることを話し、児童相談所に連絡の義務があること、そして、レントゲン写真はいつでも警察に提出できる証拠になることも告げた。
妻の愚行と、自分が犯した間違いにショックを受けた父親は、その場で自分の母親に電話をかけて事情を説明すると、美来を預かってほしいと頼んだ。
一度家に戻って泊まりの荷物をまとめようと父が言うのに対して、お母さんの顔はもう見たくないと吐き捨てた美来の気持ちを重んじて、父親は途中で必要な衣類を購入した。
折しも春休みに入る直前だったので、美来は何度も謝る父親の車に乗せられ、高速道路を一時間ほど走ったところにある田舎の祖母の家に向かう。
昼過ぎについた美来と息子を迎えた沙和子は、美来が服をめくって見せたコルセットに涙を流し、息子にびんたを食らわせて、小さな子供に暴力をふるうなんて許せないと怒鳴りつけた。
それでも沙和子の怒りは収まらず、馬鹿な嫁にたぶらかされて、罪もない美来にけがを負わせるなんて、親の資格などないと激しく罵倒したが、父親は項垂れたまま黙って聞いている。
その様子を見ても、何もかもに疲れすぎた美来の心には、父親に対してかわいそうなどという気持ちは微塵も湧いてこない。それよりも、ようやく助かったんだと深い安堵に包まれ、いつの間にか眠りに誘われていた。
眠っているうちに父親は家に帰っていき、美来が目覚めたときは、もう夕方で、当たりは暗くなっていた。父親の姿が見えないので美来が不安がるのではないかと心配した沙和子が、寂しくないかいと聞いたが、
「ううん。ちっとも。私、ずっとここにいてもいい?」
美来のさばさばした様子に、沙和子はぐっと喉を鳴らすと、何度も目をしばたかせた。
「おばあちゃんは構わないけれど、何もない田舎だから、美来は飽きるかもしれないよ」
「それでも、安全だもの」
沙和子はクシャッと顔を歪めると、溢れた涙を袖口で拭った。
「いいよ。美来が居たいだけ居ればいい。お家に帰りたかったら帰ればいいし、ここに住めるなら、うちの子になってもいいよ」
「ほんと?じゃあ、私、拾われっ子から、もらわれっ子になるんだね。おばあちゃんは私を欲しいと思ってくれる?」
沙和子は、美来の言葉に涙が引っ込んだようで、急に笑顔まで無くし、美来が怖いと思うほど真剣な表情になって訊ねた。
「誰が拾いっ子なんて言ったんだい?」
「あの人。あんたみたいにかわい気の無い子なんて拾うんじゃなかったって…」
安心できる環境に来て緊張が解けたのか、最近は涙も流さなかったのに、美来は急に過去に傷つけられた自分が哀れになって声が掠れた。それでも泣くまいとして、両手を握って我慢していると、沙和子にそっと抱き寄せられた。
「もうあなたをあの家に帰さない。うちの子になりなさい。おばあちゃんは美来が欲しいよ。あなたのお父さんより美来が大事だ」
「う…っ…お…ばあ…ちゃ…ほんとに?」
笛みたいに喉が鳴った。びっくりしたけれど、しゃくりあげてしまって、今度は吐き出す息とともに泣き声が漏れた。祖母顔に寄せた美来の頬に流れる涙は、沙和子と美来の二人分が合わさって、ぐちゃぐちゃに顔を濡らしながら、顎から胸へと滴り落ちた。
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