第3話 交わした約束 2-3
チュンチュンという声を聞き、美来は我に返った。
朝起きてコルセットを見た途端、ここに来た理由を思い出して、目が潤んでしまったようだ。美来はパジャマの袖でごしごしと目を擦った。
階下からはまだかわいい声が聞こえてくる。庭を覗き込んで確認しようとしたが、一階の張り出した屋根が視界を遮っているので見えはしない。
すっかり目が覚めて二度寝しようという気は失せてしまったので、美来は味噌汁の匂いが漂う階段を一階へと降りていった。
沙和子の家は何十年も昔に建てられた木造建築だ。マンションや今時の戸建てのように、内部が全て白い壁紙で覆われているのとは違い、階段も壁も木目のあるダークブラウンの化粧板が施されているので、重厚な趣がある。
北西にある玄関の上には吹き抜けがあり、西側の明り取りの窓から差し込む光が、階段沿いに西の壁まで続く木の手すりとねじり模様の入った支柱を浮かび上がらせている。この家が熟練の技を持つ大工によって丁寧に造られたものであることを、訪れた人はみな容易に想像することができた。
美来は吹き抜けに設けられた手すりに捕まり、かなり下の玄関を見下したが、そこには誰の姿も靴さえも見当たらなかった。先ほど聞こえた声の主は、北東にある勝手口から上がったのか、家の脇から南の庭に回り込んだのだろうと考える。
美来は途中で小さな踊り場を挟んで左に折れる階段を慎重に下りながら、ダイニングへ繋がる廊下へと降り立った。
左手には玄関と玄関ホールがあり、ピカピカに磨かれた床には、玄関ホールの上にある小さな窓が映っていることから、沙和子の手入れの良さが子供ながらに分かった。
なぜなら、美来が住んでいたマンションの床には、雨空に浮かんだ灰色の雲のような埃が隅っこに固まっていて、人が通ると生き物みたいにうようよと動いていたからだ。
今更ながら、ここは家とはずいぶん違うということを意識する。そうすると途端に遠慮する気持ちが湧いてきて、ダイニングに入る扉をそっと開いた。
部屋の向こう側に、こちらに背を向けた沙和子が見える。声をかけようとしたその時、沙和子の話す声が聞こえたので、電話をしていることに気が付き、美来は黙ってダイニングに足を踏み入れようとした。
「ええ、美来は寂しがりもしないで、こっちで色々な物を発見して楽しんでいるわよ。暫く様子を見るから、あなたは康太が虐待を受けていないかどうか、注意して見ていないとだめよ」
弟の名前が出た途端、美来の足は床に張り付いてしまい、部屋に入れなくなった。
もし、康太までが母親から暴力を受けるようになって、ここに来たとしたら、おばあちゃんは康太の方ばかり見るようになって、私はまた要らない子に逆戻りするんじゃないだろうか?と想像したら、胃がぎゅっと締まったように感じて、足が動かなくなったのだ。
「そうなの。美来には酷く当たったくせに、異性の子供なら大丈夫なのね?それでも、今だけかもしれないから、油断せずに気を付けて見ていてね」
弟はここに来ないと聞いてホッとした美来は、全身に入っていた力が抜けるのを感じた。沙和子の背中を凝視していた美来は、近づいてきた影に気が付かず、目の前に、いきなりひょこっと女の子が現れたのに驚いて、悲鳴をあげそうになった。
「驚かせてごめんね。私、隣に住んでいる水谷渚紗なぎさです。よろしくね」
「お、おはよう。山吹美来です」
「美来ちゃん。何歳?私来月が誕生日で十二歳になるの。今度六年生」
「私は先週十一歳になったの。早生まれだから、同じく今度六年生」
「うわぁ!一緒だね。一緒っていえば、美来ちゃん。うちのひいおじいちゃんも、美来ちゃんとお同じような腹巻を巻いてるんだよ」
「腹巻?」
美来は何のことを言っているのだろうと思いながら、渚紗がじっと見ている自分のお腹を見下ろして、吹き出してしまった。
「痛たたた。笑わせないで。これはコルセットだよ。腹巻じゃないの」
「コルセットって何?どうしてそんなもの巻いているの?」
電話を終えた沙和子が、コルセットの話を耳にして、美来が嫌な思いをするのではないかと心配そうに見つめている。美来は笑顔で沙和子に大丈夫だよと知らせると、渚紗に説明をした。
「これはね、医療用なの。ちょっと肋骨にひびが入っちゃって、動かないように固定しているの」
渚紗はコルセットを見ながら美来の言葉を聞いていたが、肋骨にひびと聞いた途端、良く動く表情が強張り、急にストンと床にしりもちををついてしまった。
美来が脇をかばいながら片膝をつくと、渚紗が先ほどの興味深々という態度から一転して、まるで怖いものでも見るようにコルセットを一瞥してから、大丈夫?と心配そうに美来の顔を覗き込んで聞いた。
「大丈夫じゃないのは渚紗ちゃんでしょ?立てる?」
美来が苦笑しながら、渚紗に手を差し伸べると、渚紗は首を振りながら、怪我をしている人の手助けはいらないとばかりに、手を押し返してきた。
「うん。私は大丈。骨にひびが入っているって聞いて、ちょっとびっくりしただけ。美来ちゃんは強いんだね。すごいよ。尊敬しちゃう」
肩までのまっすぐな黒髪を揺らしながら、渚紗が両手を胸の前で合わせて、憧れの視線を送ってくるので、美来はパジャマの上にコルセットを巻いたダサい恰好でいることが、恥ずかしくなった。
母親からは疎まれたのに、ここではほんの少しのことで褒められる。まるで弟の康太になった気分だ。弟はまだ小さいから、言葉通り受け止めて、素直に喜んでも許されるけれど、小学校六年生にもなれば、お世辞で相手を喜ばせることぐらいは知っている。
こんな格好で喜んだら、バカに見られるかもしれない。本当は褒められて、嬉しいようなくすぐったい気持ちを持て余しながら、ぬか喜びをして落ち込まないように、美来は曖昧な笑顔で自分の心をも誤魔化した。
「美来ちゃん、もしお腹が痛くないようだったら、一緒に探検する?お母さんがよもぎ餅を作ってくれるから、よもぎの葉っぱを探さなくちゃいけないの。手伝ってくれる?」
「うん、行きたいけれど……」
美来が祖母の顔色を窺うように振り返ると、沙和子は少し悲し気な表情を浮かべて、美来の頭にそっと手を載せた。
「子供は大人に対して、そんなに気兼ねをするもんじゃないよ。素直な気持ちを言えばいい」
優しく諭す沙和子に応えたいと思っても、美来の口は上手く動いてくれなかった。
今まで本当にやりたいこと、言いたいことは母に揉みつぶされ、期待を挫かれた美来が消沈する様子を、面白そうに眺められたのだ。
これまで言葉にした途端に、惨めな思いを味わっただけに、今更素直に言えと言われても、急に素直になれるわけがなかった。
でも、本当は言いたいのだ。
『おばあちゃん行っていい?よもぎ餅っていい香りのする緑のお餅でしょ?私も食べたい』
それなのに、喉まで出かかった言葉は、つっかえたように出てこない。顎を引き、押し黙ってしまった美来を見て、沙和子はまるで美来が心の中で尋ねたのを聞いたように答えた。
「行ってもいいけれど、まだ肋骨が心配だから、おばあちゃんもついて行くわ。変な葉っぱと間違えると大変だからね」
「変な葉っぱ?」
嬉しい、ありがとうという言葉が言えない代わりに、美来は疑問でごまかしてしまった。自分の不器用さが嫌で、祖母の優しさを袖にしてしまったみたいに感じて、言い直そうとしたとき、キッチンにある勝手口のドアがノックされ、外から女の人の声が聞こえた。
沙和子が段差のある上り口から降りて、半身だけドアの外に身を乗り出しす。
「あっ、山吹さん、おはようございます。水谷です。渚紗がお邪魔してませんか?お使いを頼んだのに帰って来ないから、迎えに来ました。朝早いから、ドアの前に置いてきなさいって言ったのに、もしかして呼び鈴を押してしまいました?」
「いやいや押してないですよ、私が外で掃き掃除をしているところに来てくれたから、手渡しでもらって、引き留めてしまったのよ。いつも新鮮な野菜をありがとうね」
「そんなのたくさん取れすぎて、困ったものだから、食べてもらえると助かります」
沙和子が渚紗を呼ぼうとして勝手口を大きく開けたとき、渚紗の母がキッチンを覗き込み、美来の姿に目を留めた。
「あら?お孫さんかしら?」
そう言いながら、美来のコルセットを見て言葉が続かず、水谷は祖母の顔を気遣うように見ながらどうしたのかを聞いた。
「孫の山吹美来です。ちょっと怪我をして預かることになったの。美来、こっちへ来て挨拶をして」
美来はパジャマ姿なのが恥ずかしかったけれど、大人を待たせて機嫌を損ねたくなかったので、勝手口にあるサンダルを履いて、祖母の横に立って挨拶をした。
「初めまして。山吹美来です。祖母がいつもお世話になります」
「まぁ、しっかりしているのね。お利巧だわ」
笑顔になった水谷が親しみを込めて美来の頭に手を伸ばした時、美来は突然腕で頭をかばってしゃがもうとした。だが途中で脇腹に痛みが走り、背を伸ばして脇腹を押えた。
ほんの一瞬のことが全てを語った。美来に身についた咄嗟に自身を守る行動は、その場にいた大人の笑顔を奪った。
硬い表情で黙りこんだ沙和子を目にした美来は、隣人の前で起こしてしまった自分の失態が、祖母に恥をかかせ、失望させたのではないかと不安になった。
「おばあちゃん。ごめんね。水谷さんごめんなさい」
二人の顔を交互に見ながら、必死に謝る美来に姿は、哀れ以外の何ものでもない。
「ごめんね。おばあちゃん。帰れって言わないで」
沙和子は唇をかんで身を震わせながら、美来を抱きしめた。
水谷も目に涙をためて、二人を見ていたが、そっと美来の背中に手を添える。瞬間ぴくりとした美来の身体をなだめるようにポンポンと叩くと、優しく撫でながら、頭の方にずらしていき、慈しむように美来の頭を包んだ。
「おばさんは、怖くないよ。こんなかわいい子に手を上げたりしないから、安心してね。渚紗のお友達になってくれるとおばさん嬉しいんだけれど、美来ちゃんは嫌かな?」
美来が祖母の腕の中で、水谷の手を頭に乗せたまま首を振ったので、髪の毛が捩れて絡まった。それをやさしく梳きながら、水谷がいつでも遊びに来てねと美来に声をかけた時、それまで勝手口のドアを手で押さえながら、大人たちのやり取りを、黙って見守っていた渚紗が、ここぞとばかりに声をあげた。
「お母さん。美来ちゃんと山吹のおばあちゃんと一緒に、よもぎを探しに行っていい?」
「ええ、いいわよ。まずは家に戻って朝ごはんを食べなさい。山吹さん、渚紗をお任せしていいですか?」
「もちろんよ。水谷さんありがとう。美来に優しくしてくれて」
涙ぐんだ沙和子の言葉に頷いた水谷は、何か相談ごとがあったら頼ってほしいと言い残すと、渚紗を連れて畑の向こうの家に戻っていった。
何十メートルも離れた隣の家に辿りつくまで、渚紗がまたあとでねーと何度も振り返りながら、元気よく手を振っている。最初こそ恥ずかしがったものの、美来も次第に大きな声で答えていた。
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