第3話
バレンタインの日、クラスは心なしか浮足立っていた。そんな様子に気づかないふりをするために、いつも通りに平静を装って、本を読む。
「あの、松隆くんいますか?」
でも、その声は、読書に遮断されることなく、はっきり聞こえた。冷やかすような男子の声と、ちょっとだけ困ったような顔をして呼ばれるがままに廊下に出る松隆。いつの間にかその様子を追っていて、知らない女の子から松隆がチョコレートを受け取る様子を、しっかり見た。
「相変わらずモテんなー、アイツ」
「毎年何個貰ってんだよ」
「年の数の二倍はあるって去年言ってた」
「有り得ねー! 漫画じゃねーんだからさぁ」
いいな、松隆に、堂々とチョコレートを渡せて。紫色の小さな紙袋を引っ提げて戻ってきた松隆が「告白?」「だった」「廊下ですんのかよ!」「それは俺も思ったけど、まあ、バレンタインのチョコなんて告白と同義だしね」「で、どうした?」「いや断ったけど」「即答かよ」「だって知らない人だったよ」と遣り取りするのを、一言も漏らすまいとでもするように、目の前の活字はただの風景としか認識せずに聞き耳を立てていた。
「お前はさあ、いいよなあ、年中モテてるし。バレンタインに貰うチョコの数なんて気にしたことねーだろ」
うちの学校はお菓子持参禁止なのに、そんな校則知りませんみたいな顔で松隆は大量にチョコを貢がれる、その噂は聞いたことがあった。ちなみに、うちの学年で一番モテる男は松隆と、もう一人、
「でもさ、今年、学年主任変わったじゃん、武田に」
「あー、あの落ち武者な」
武田先生は、今年から来た体育の先生だ。年は四十歳手前で独身だと聞いた気がする。頭部の側面を残して禿げていて、みんな陰でこっそり「落ち武者」と呼んでいる。
「武田、バレンタインはチョコ絶対禁止、没収するって息巻いてたよね」
「げ、じゃあ持ってきてる女子少ないじゃん」
「つかみんな担任みたいに緩くやれよ。今朝『イベントはこっそりね!』って言ったとき、マジ最高の担任って思った」
「このクラスでよかったって思ったもんなー」
そして、武田先生は、自分が陰で落ち武者と呼ばれていることに気づいていた。なんなら、実はその命名は松隆と桐椰によるもので、その事実まで武田先生は知っていた。結果、武田先生は目の敵とばかりに松隆と桐椰のコンビにやたら厳しく当たるようになった。が、松隆と桐椰はどこ吹く風という感じで、武田先生に難癖をつけられたところ「
そんなこともあって、武田先生は、前回の体育の授業で「バレンタインがあるけど、不要物は持ってきたら没収だからな。チョコレートは不要物って分かるよな?」とチョコレート没収宣言をしていた。何人かの女子は「武田は媚びればいけるから、武田に渡せば没収されないで済むって」と画策していたけれど、おそらく、松隆と桐椰に渡されるチョコレートは問答無用で没収廃棄されるだろう。
きっと、今日の松隆は一日中武田に張り付かれて、チョコレート貰ってるのを見つけられた瞬間に没収されるんだろうな。
──その想像は、随分と呑気なものだったのだと、保健の授業の開始時、思い知った。
「今日、一組に、ゲーム持ってきてるヤツがいた。不要物は没収、何回も言ったよな。荷物検査するから、全員、カバン、机の上に置け」
難癖もいいところの発言に、一瞬でブーイングの嵐が巻き起こった。それもそうだ、他のクラスでゲーム機が見つかったからって、わざわざバレンタインの日を選んで荷物検査することなんてない。かこつけてチョコレートを没収してやろうという魂胆しか見えないし、それらしい理由をつけたつもりになっているところが余計に嫌らしい。だから武田先生は嫌われるんだ。主に女子から「外に出したら没収でいいじゃんー!」「カバンの中身見るとか、プライバシーの侵害だと思いまーす」「一組だけやればいいじゃないですか、そーゆーの」と口々に文句が出たけれど、武田先生は無視。教室の角から「ほら、中身出せ」と宣言通りの検査を始めた。
──なんて、悠長に分析して観察してる場合ではない。ドッと、私の心臓がうるさくなる。
カバンの中には、トリュフが四個入ってるだけの、小さなチョコレートの箱が入っていた。
金曜日の自分を呪った。本屋に寄った後、大人しく帰ればよかった。それを、バレンタインフェアなんて
せめて、私が、さえみたいに可愛ければよかった。武田先生は、露骨に松隆を嫌いな代わりに、露骨に贔屓する生徒もいた。武田先生が顧問をしている野球部の生徒と、可愛い女子。何が露骨かって、プールの授業を生理で三回休んだ女子に五段階評定「3」をつけたのに、同じ理由で全部休んだ別の女子に「5」をつけたことがある。運動神経抜群の松隆と桐椰には意地でも五段階評定「4」までしか与えないけれど、野球部部男子は全員「5」だ。そういう、嫌な先生だった。
そういう、嫌な先生に、贔屓されるだけの可愛さを、私は持っていなかった。
「なんだ、これは」
「……バレンタインのチョコです」
「お菓子は持ってくるの禁止って、分かってるよな?」
「いいじゃないですか! バレンタインくらい!」
早速の餌食食って掛かる。カバンを抱えて守るようにするけれど、武田先生の前では無駄だ。贔屓されてないと、そんなもの、意味がない。
「だめだ、出せ。バレンタインでもなんでも同じだ」
半泣きになりながらチョコレートを差し出されご満悦、そんな武田先生にクラスは誰もがドン引き状態だ。そんな生徒虐めなんてして、楽しいか。合理性なんてほとんどないような校則をこれみよがしに振りかざして、先生と生徒の肩書に名を借りて偉そうに振る舞って。
昼休みに配るんだ、と話していたさえは、武田先生にスルーされた。教室の後ろのロッカーに今朝隠していたからだ。今更ながら、英断だった。そして、可愛いさえが、それ以上に追及されることはなかった。
そして、私は。
「姫城、なんだこれは」
不要物が見つかるなんて、どうでもいい。内申点がどれだけ下げられようが、どうでもいい。なんなら、チョコレートが没収されたって、どうでもいい。
私のカバンの中から、バレンタインイベントのものが見つかるのが、問題なんだ。
クラスの騒めきの原因は、超のつく真面目な私が不要物を持ってきていたからではない。超のつくほど可愛げと無縁な私がバレンタインの日にチョコレートらしきものを持っていたからだ。
こんなもの、人前で、見つけられたくなかった。
「お前までバレンタインなんかに浮かれて、こんなものを持ってきて」
武田先生は容赦なく私のカバンの中から手のひらサイズの箱を取り上げた。ピンク色とか、黄色とか、黄緑色とか、花弁が舞うみたいにたくさんの色が散りばめられた箱。どこからどう見てもバレンタインのチョコレートで、言い訳のしようがない。
「いいか、お前みたいに普段真面目でもな、こうやってこっそり陰に隠れて校則を破るようなことしてると、一回で信用を失うんだからな。わかってるのか」
なんで私だけ説教されるんだ──そんな気持ち、ないといえば嘘だけれど、そんなことよりも
もういい、中学最後の思い出だかなんだか知らないけれど、松隆にチョコレートを渡したいなんて分不相応なことを思った私が悪かったんだ。所詮そんな淡い想い、私には似合わないのに。あわよくば、なんて期待をしたから。
もう、こんなことしないから、とっとと捨ててくれ、そんなもの。
みんなの視線を浴びているのが死ぬほど恥ずかしくて、その場に穴を掘って埋まりたいと、そう願い続けて、ぎゅっと拳を膝の上で握りしめていた、そのとき。
ブーッ、と。不意に、教室には似合わない音が響いた。
「あ、やば」
ついでに声も上がったせいで、みんなの視線が一斉に集まる。注目されたところで、松隆は、慌てたようにカバンの中を探る。拍子に、机の脇にかかっていた紙袋が金具から外れ──バラバラバラッと紙袋の中に入っていた色とりどりの箱が雪崩でた。
「松隆!」
カバンの中から携帯電話を取り出した松隆の名前を、武田先生は嬉々として叫んだ。私の不要物なんてどうでもよくなったみたいに、乱暴に私のカバンの中にチョコレートを戻す。
「なんだそれは」
「携帯電話です。あとは、そうですね、午前中に貰い終わったチョコレート?」
ゲーム機に比するレベルの不要物と校則で解されている携帯電話は、武田先生にとっては思わぬ収穫だっただろう。数十個にものぼるバレンタインチョコの数々を「拾って、全部教卓に置け」と怒りながら、真っ先にその手で取り上げたのは携帯電話だった。
「携帯電話は持ってくるなと、毎学期の全校集会で教えてるだろ」
「そうですね、すいません。でも高級品なんで、放課後には返してください」
「少しは反省しろ! 不要物を持ってくるなと何回言えばわかるんだ! こんなにお菓子も持ってきて……」
「これは貰ったんです。先生にはご経験がないので分からないのでしょうか?」
怒髪天を衝いたってやつだな、髪だけにな──そんなコントを思い出すような、失礼どころではない煽り文句だった。挙句、相手が松隆というだけで堪忍袋の緒なんて切れていたようなもの、武田先生はすぐさま松隆をガミガミ叱り始めた。叱る内容だってくだらないものだ、女の子からちょっと人気があるからって調子に乗るな、大体その髪の色はなんだ、何回注意すればわかる、そうやっていつでも教師を見下したような態度をとって、今からでも高校入学は取り消せるんだぞ、とか。
「放課後、生徒指導室に来い。いいな!」
「困ります、委員会があるんで」
「委員会よりこっちのほうが大事だろ!」
「僕が叱られるのは私事ですから。他の人に関係する委員会のほうが大事でしょ?」
相手が松隆でなければ少しはしょげ返ったかもしれないけれど、相手は松隆だ。飄々とした態度で叱られ続け、それが余計に火に油を注ぐ。怒り狂った武田先生は今すぐ松隆を生徒指導室に連れていくことに決めたらしく、「自習!」と言い捨てて松隆の携帯電話と、松隆が貰った大量のチョコレートの紙袋を手に、松隆を廊下へ連れ出した。
武田先生の声が聞こえなくなった後、静まり返った教室で、こっそりと何人かの女子が立ち上がり、教卓の上のチョコレートを回収した。没収すると息巻いて教卓に持っていったところまではよかったけれど、松隆という格好のカモがネギを背負っていたどころか自ら鍋に入る勢いだったせいで、口実のことはすっかり忘れてしまったのだろう。女子が「松隆くんありがとう……」「松隆くん、貰ってた側だから悪くないのにね……」「ていうか、武田が持って行った中に私があげたチョコレートあったんだけど……」と口々に松隆に感謝するなり同情するなり、とんだ巻き込み事故に呆然としたりしていた。
そして、私の恥は、松隆のパフォーマンスに上書きされた。
そう、パフォーマンスだ。松隆の携帯電話のバイブレーションは、あまりにもタイミングが良かった。
もしかしたら、松隆は、わざとバイブレーションを鳴らしてくれたのだろうか。携帯電話を持っていないから分からないけれど、そんなことができるのだろうか。武田先生の前であんな風に慌てる松隆も、らしくない。ということは、私を庇って──。
というところまできて、慌てて考えるのをやめた。被害妄想ならぬ擁護妄想とでもいうべきか、それもここまでくるとイタイ。あれは偶然だ。この間、図書室で鳴ったように、偶然、運悪く、バイブレーションが鳴っただけだ。そうに違いない。私はただ、松隆のお陰で私の醜態をさらされる時間が短くなったことにだけ安心していればいい。
結局、松隆と武田先生が戻ってきたのは授業が終わる時だった。松隆はチョコレートの詰まった紙袋は持たずに帰ってきた。携帯電話は知らない。武田先生は他の生徒から没収した物のことなんて忘れて、教卓前で、簡単に不要物を持ってくるなと再び叱って、終わった。
「ついてなかったなー、ケータイ見つかるとか」
昼休み、絡まれた松隆は「ほんとになー」と疲れた顔をして笑っていた。
「でも、ギリギリなんとかなってよかった。やっぱり持つべきは贔屓してくれる先生だな」
「なにが?」
「生徒指導室、丁度江藤先生が使ってたからさ。携帯電話は防犯の観点から許すべきとか、一回目は見逃してあげていいとか、色々言ってくれて。江藤先生、めちゃくちゃ俺贔屓だから」
「うわ、お前ずるいなー」
「落ち武者も自分より上の先生に逆らえないからさー」
「チョコはどーしたよ」
「いっそのこと冷蔵庫で預かっといてくださいって言った」
「おい」
ゲラゲラ笑う声が背後に聞こえて、ほっとする。誰も私のチョコレートのことなんて口にしない。よかった、松隆のハプニングのお陰で、もうみんな忘れてくれたんだ。
松隆の携帯電話は無事、私の醜態も話題にされることなく無事。思わぬ結果に心底安堵して席を立ち、廊下に出て。
「つかさぁ、姫城、バレンタイン誰かにあげんのかな?」
扉を閉めるか閉めないかの、その
さっきまで見ていた光景が一瞬で脳裏によみがえる。松隆の周りにいた男子の空気が、一瞬で私を標的とした嘲笑を始めるのを察する。廊下にいるから見えているはずもないのに、その一言を皮切りに、好奇の目が一斉に向けられた気さえした。
「だって、あんなの持ってんの、おかしくね? 明らかに人に渡す用のだったじゃん」
「あー、いかにも店で買いましたみたいな、あれ」
「手作りよりマシじゃね? 手作りだと余計に怖いだろ」
「そーだっけ、見てなかったや、俺」
松隆が、見ていなかったというのが、せめてもの救いだった。松隆に渡す予定のものではあったけれど、そんなの武田先生に見られるまでだ。もう松隆に渡すつもりはない。渡して恥をかくかどうかなんて話だったのに、松隆に渡すこともできなくなった今、見られるだけ見られて恥ずかしい思いをするなんて、ただの損だった。
「でもさー、マジで誰にあげんだろね、あれ」
「姫城だろ? 松隆じゃね?」
──ただの損どころじゃない。ドッと心臓がうるさくなり、指先まで震え始めた気がした。
「俺?」
嫌だ。松隆を好きだなんてバレたくない。私が男子を好きなんて恥ずかしい。しかも、よりによって毎年何十個チョコを貰うか分からないなんてレベルでモテる男子を好きだなんて、そんなの、噂になるだけで恥ずかしくて生きていけない。
「だってよく話してんじゃん」
「あぁ、図書委員同じだから」
「お前が後から手挙げたからあれだけどさぁ、お前の後だったら確実にそうだよな」
「わかんねーよ、松隆が図書委員やるって知ってて先に手挙げたのかも」
大体、松隆にどう思われるか分からない。ただ本の趣味が合うだけだったのに、女子として見たことなんてなかったのに、よく話してたから勘違いされたのか、図書委員の仕事もそんな下心でやってたのか──そんな風に思われるくらいなら、松隆と話せないほうがマシだ。
「貰ったらどうすんの?」
「貰うか分からないでしょ、そもそも」
「だーかーら、貰ったらどうすんだって話! だって相手、姫城だぜ?」
本当は、今すぐこの場を立ちたい。見られたものは取り返しがつかない、噂なんて止められない、この話題は松隆の答えを聞くまできっと終わらない、それならいっそのこと聞きたくなかった。
それができなかったのは、ただ単純な怖いものみたさのような気持ちがあったから。
……それから、色好い返事を──少なくとも、松隆の返事に、どこか何かを期待しているところがあったから。
「そうだなぁ……姫城さんから貰ったら、まあ、ちょっと困るかな」
──
なんやかんや言って、自分はちょっと可愛いんじゃないかとか、こうすれば可愛く見えるんじゃないかとか、自分と楽しく話してくれる男子は自分のことを好いてくれるんじゃないかとか。
そういう、一般的な女子に当てはまりそうなことが、自分にも当てはまるのが、恥ずかしい。
松隆に期待をしていた自分が、恥ずかしい。
「だよなぁー」
「これで松隆にあげたらウケるけどな」
その嘲笑を最後に、教室の前を立ち去った。
自分が惨めだった。こんな性格なのに、恋愛なんて似合わないのに、男子を好きになったことも、それをクラスの男子に気づかれそうになったことも、あわよくば松隆が自分を好いてくれてるんじゃないかと、そんな自意識過剰な恋愛脳に溺れていた自分が恥ずかしかった。
あげない。何もしない。バレンタインなんて、私には関係ないイベントだ。これは私が自分用に買ったんだ。それがたまたまカバンに入ってただけなんだ。──そんな苦しい言い訳でもいい、とにかく、松隆に渡すものなんだと思われさえしなければいい。これ以上、恥の上塗りをしたくない。
駆け込むように逃げ込んだトイレには誰もいなかった。お陰で、わざわざ個室に閉じこもる必要もなく、ただぼんやりと入り口近くで立ち尽くしてしまった。
ふと顔を上げて、鏡を見た。毎朝見る顔は、何度見たって、ある日突然可愛く変身したりしない。
「……ヒッドイ顔だな」
恋愛をする資格のない顔に、うんざりしていた。
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