第4話
放課後、委員会では、松隆に予告されていた通り、新しく増やす蔵書のことが議題に上がった。隣に座った松隆は、興味なさそうにそれを聞いていて、ふと思い出したように「あ」と小さく声を上げた。
「何だよ」
「いや、蔵書、入れてほしいの書いたけど、冷静に俺達卒業じゃん」
「ああ、確かに」
「意味なくない?」
「そうだな」
「もしかして気付いてた?」
「いや全然。今言われるまで何も考えてなかった」
「卒業までに仕入れてくれるかな……」
「まぁ、厳しいだろうけど……存外、花咲高校に置いてあるんじゃないのか」
「どうかなぁ……まぁいいか、買えってことだな、これは」
溜息混じりに呟き、松隆は一層興味を失った顔になった。それもそうだ、もう私達には関係のなくなる話なんだから。
松隆との委員会も、これで最後だ。
というか、正直、心の中でフラれたから、松隆と一緒にいるのは辛かった。こっそりフラれるのは以後も何事もなかったような顔をして接することができるなんてアドバンテージもあるけれど、それとは比べ物にならないくらい心には
でも、こっそりフラれてこの有様だから、義理のふりをしてでも渡さなくてよかったかもしれない。朝、松隆にチョコレートを渡した女子が困った顔をされたように、私のチョコレートにも、松隆は困った顔をしたかもしれない。私がどれだけ義理だと言い張っても、表面では納得した顔をしてくれても、内心では私の下心を見抜いてしまうだろうから。そのほうが惨めなフラれ方だったかもしれない。
はぁ……、と溜息が零れた。所詮、この程度の惨めなものだな、私なんて。
「三年生はこれで最後の委員会ですね。お疲れ様でした」
気怠い空気の漂う図書室が、一変して解放感で溢れた。ほんの少しの騒めきに図書室内が包まれる中、今日は一刻も早く帰りたくて、私は手早く筆記用具をカバンに詰めた。隣の松隆は、マフラーを巻いていた。
『……姫城さんから貰ったら、まあ、ちょっと困るかな』
松隆の顔を見ると、頭の中でそのセリフが再生されて悲しくなりそうだった。だから不自然なくらいカバンの中をじっと見つめながらマフラーを巻く。
そうだ、今日は、髪を切ろう。松隆に可愛く見られたくてなんてむず痒い動機、もう捨てていい。また陸上をしていた頃に戻そう。あ、でも、今日は月曜日だ。美容院は休みだ。だめだ、切れない。明日切ろうか。でも明日切ったら、いかにもバレンタインにフラれましたみたいで嫌だな。じゃあもういっそ来週にしようかな。でも卒業式が近づくと髪切るハードル上がるから嫌だな。卒業式が終わってからにしようかな。でも今度は入学式が近くなるな……。
「姫城さん」
ごちゃごちゃと考え込んでいて、もう「じゃあね」くらいしか言われないとばかり思っていたから、ぎょっと飛び上がりそうになった。あまりにも驚いた顔をしてしまったせいか、松隆はちょっと笑った。
「そんなに驚いて、どうしたの」
「……いや、別に」
「そう? まあいいや、早く帰ろう」
「は?」
素っ頓狂な声が出て、しまった、と後悔した。なんで私はこんな可愛くない反応しかできないんだ。さえなら、どんな反応をするだろう。少なくとも笑って「そうだね!」くらい言えるだろう。私には、できないけれど。
「……いつも、一緒に帰ってるだろ」
それどころか、どう続けるべきか悩んで、どもった。早く帰ろうなんて、自意識過剰でなければ、一緒に帰ろうと言ってるようなものだ。
「なにが?」
「……松隆は、ほら、幼馴染と……」
「あぁ、今日は委員会だから、バラバラ」
ということは、図書室係の日も、松隆は誰か一緒に帰る人がいたわけじゃないのか。なんか惜しかったな──なんて思ってしまって、慌てて
「終わっちゃったね、図書委員」
「……そうだな」
松隆と話す口実が、もうなくなった。図書委員の仕事で、なんて枕詞は、もう使えないものになった。
「三学期の間、お世話になりました」
「こちらこそ。ていうか、係くらいしかなかったし、何もお世話してないし」
「でもほら、やっぱ話合わないと図書室で係してても気まずいじゃん」
じゃあ、私と一緒に係をしていた時間は気まずくなかったってことか。そうポジティブに考えてしまう自分がいて、反吐が出そうだった。妄想はもうとっくに打ち砕かれたのに、まだしぶとく何かを期待している。
「……姫城さんさ」
「なんだよ」
その危惧は、松隆の妙に真剣な顔を見ていると、現実化しそうで余計に怖くなった。
「……俺より小さいよね?」
「は?」
それが、何の話なのか分からないくらい唐突なセリフを繰り出されたせいで、また変な声が出た。そんな私に構わず、松隆は顎に手を当てて、まじまじと私を見る。
「いや、さっきから思ってたんだけど、多分、姫城さんのほうが俺より視線下なんだよね。この間は一六五センチって言ったけど、あれ盛った?」
「盛るって……別に持ってもないし四捨五入もしてないぞ」
「んー? じゃあ俺また伸びた?」
一歩、松隆が近づいた。ぎょっとして後ずさろうにも、背後は下駄箱。
「いや知らないけどそんなこと」
「んー、だってさ……」
更に一歩、松隆が近寄る。ドックン、と今までで一番大きな音を立てた心臓が、そのままバクバクと大音量で鼓動を続けた。今、松隆は手を伸ばすよりも近い位置にいる。ともすればこの心臓の音も聞こえてるんじゃないかと、思った。
松隆の手が伸びる。何だ。何。何をされるんだ。ドッ、ドッ、ドッ、と心臓は更にうるさくなって。
「ほら、ね?」
ぽん、と松隆の手が、頭上に乗せられた。
下手に触れられるより、ドキリとした。どうやら松隆は私の身長が背後の下駄箱のどのあたりなのか確認しているらしい。現に、すぐに自分も下駄箱の前に──私の隣に移動して、自分の頭上から手を伸ばして、下駄箱との比較で私との身長差を測ろうとしている。
そんなことは分かっても、頭に乗せられた手の感触は消えなかった。体温を感じたわけではなかったけれど、ちょっとだけ控えめに、それでもその手のひらの大きさは分かるくらいにはしっかりと載せられた手の感触が、消えなかった。
「俺のほうがちょっと高くない?」
そんな、ほぼ目分量みたいな測り方で数センチの差なんて分かるはずないのに。
勝ち誇ったように、少年のように笑う表情が、あまりにも可愛くて、憎まれ口しか叩けない。
「……馬鹿じゃないのか、松隆」
好きが、溢れてしまう気がした。そんな無邪気な顔を見たことなんてないのに、きっと幼馴染くらいにしか見せない特別な表情だろうに、そう思うからこそ、秘密にしていた特別な感情が溢れてしまいそうだった。
松隆の特別にはきっとなれないけど、絶対になることはできないけれど、特別に仲が良い友達に見せてくれる表情をずっと見ていたいと思った。
本当に、馬鹿みたいに、私は松隆のことを好きになってたんだ。
「いやいや、大事だよ、男にとっての身長はね」
「でも、一年生のときチビだったんだろ? でもってモテてたって噂は聞いてたし、あんまり関係ないんじゃないか」
「それはまだみんなポテンシャルを信じてるから。中学卒業するまではいいけど、多分高校卒業する頃にはあと十五センチはないと」
松隆の目算が間違っているとしたら、私と松隆は同じ身長のまま。あと十五センチ松隆が伸びれば、私と理想のカップルの身長差。
──なんて、馬鹿馬鹿しい、発想。
「やけに具体的だな。というか、男子の平均身長って一八〇センチもないだろ、十五センチも伸びる必要ないんじゃないか」
「高いにこしたことはないでしょ」
「さあ、そこは好みなんじゃないのか」
触れられそうなくらい近づかれて、実際──身長を測るためとはいえ──触れられて、気付いたことは、私は自分でも気付かないくらい松隆のことを好きになっていて、松隆はきっと私のことを存外いい友達に思ってくれていて。
「好みねぇ。伸びた後に高過ぎて嫌だって言われても困るし、それはなんともしがたいな」
『……姫城さんから貰ったら、まあ、ちょっと困るかな』
そして、私が、今の距離感を壊してまで松隆に近付くことはできない。
「そういえば姫城さん、チョコは大丈夫だった?」
諦めても、どうやらまだ少しは心がざわつくらしい。“チョコ”としか松隆は言っていないのに、すぐに恋愛イベントを想起し、武田先生に没収されたかどうかという質問なのだと気づいてしまう。まあ、まだイベント当日だからすぐに分かってしまったということにしておこう。
「ああ、問題なかった。……松隆のお陰でとられずに済んだ、ありがとな」
結局、今日さえと二人で話す時間がなかったから、まだお礼を言えてない。明日か明後日か、とにかく早いうちにさえにありがとうと伝えとこう。いや、なんなら、このチョコレートはさえにあげよう。本当はさえに渡す友チョコのつもりで用意してたんだけど、ああいうことがあった手前、当日は渡せなかったんだと、そう言おう。
「そう、それはよかった」
「松隆の前に没収された人も、全員取り返してた気がする。やっぱ武田先生は松隆から没収したかっただけなんだろうな」
「そんなんだから落ち武者なんだよな。山野谷さんとか、どう考えてもチョコレート持ってきてるって分かったはずなのに、カバンの中に入ってなかったらロッカーも調べないもんな。急に荷物検査始めるわりには筋の通らない話だよ」
「さえは武田先生のお気に入りだからな」
「同情するよ。ま、お陰で山野谷さんのケーキにみんな
いいな、さえは。さえの本心は分からないままだけれど、そうやって義理の体でみんなに配っても感謝しかされない。自意識過剰だの、女子力アピールうざいだの、似合わないだの、そんなことは言われない。
「姫城さんはしないんだね、そういうの」
「ああ、クラスの男子に配るみたいな。ま、柄じゃないしな」
淀みなく答えながらも、心はずっと痛んでいる。こんな風に、自分が可愛いか可愛くないかなんてことを気にし始めたのは、松隆を好きになってからだ。つまり、心が痛む間は、私は松隆を好きなんだろう。
ああ、こんな、いかにもな恋をしてる自分が、恥ずかしい。
「私がバレンタインにチョコ渡すとか、有り得ないだろ」
そんな恥ずかしさを紛らわすように、自虐を上塗りした。“男勝り”という仮面は、私が女子であろうとすることを許さない。
でも、高校になったら、もう少し大人しくしようかな。幸いにも進学先に知り合いは少ない。“男勝り”なんてレッテルを貼られなければ、その仮面を被る必要もない。“姫城麗華”なんて名前に釣り合うレベルとまではいわなくとも、女の子らしくしてもおかしくないくらいには、もう少し、性格とか、言葉遣いとか、直したいな。
「そっか」
「松隆は結局何個貰ったんだ?」
「あー、数えてない。というか、武田が職員室に置いてるの忘れてた」
松隆のほうからチョコレートの話題を振ってきたくせに、今の今まで完全に失念していたらしい。しまった、と松隆は立ち止まった。あらゆる女子から貢がれたチョコレートだというのに、存外松隆は薄情だ。なんだか笑えてきて、自然に笑みが零れてしまった。
ああ、いい距離感だ。私は、ずっと、松隆とのこのくらいの距離が楽しかった。図書委員の口実をよく使いはしたけれど、実は図書委員以外のことでもよく話をした。好きな本だけじゃなくて、松隆の幼馴染の面白い話とか、武田先生の悪口とか、昨日見たテレビとか、色々。その距離感にいる松隆を、好きになった。
チョコレートの入ったカバンの取っ手を握りしめる。もし、松隆にチョコレートを渡して、はっきりフラれてしまったら、もうこの距離感は楽しめない。この距離感を失ったら、もう松隆を好きではいられない。一か八かの賭けに出る前に、賭けられないようにしていてよかった。
お陰で、私はずっと、好きなだけ松隆を好きでいて、今のまま友達でいられる。
なんなら、放課後、ほんの少しでも松隆と一緒に帰るなんてことができただけで十分だ。松隆と放課後一緒に帰れるだけで、今日の出来事がすっかりどうでもよくなってしまう、そんな単純な私には、バレンタインにチョコレートを渡す恋愛なんてまだ早い。所詮男勝りな自分には、この程度の恋愛が限界だった。チョコレートを渡すなんて、まだハードルの高い話だったんだ。
「早く取りに戻れよ。武田先生、委員会終わったら部活だろ」
「確かに。いないと返してもらえないよね」
「だと思うぞ、あの武田先生だし」
いつか、この恋を振り返れるくらいの余裕を持てるようになって、その時に好きな人に、今度はチョコレートを渡せればいい。
「じゃ、また明日」
今は、また明日も会えるくらいの恋愛で、十分だ。
「いやまあ、そういうの、正直どうでもよくて」
そうして、私の中でエンドロールが流れ始める。中学生最後のバレンタインと、初恋の終わりを慰めるように。
「俺、姫城さんのこと好きだよ」
……慰める、よう、に……。
「……は?」
──松隆は、唐突に、私の思い描いていたラストを、ぶった切った。
何が起こったのか分からなかった。いや、何を言われたのか分からなかった。頭が混乱し、「え、いや、ちょっと待て、待て待て待て」と意味の分からないことを口走った。
「ちょ、何言って……は?」
「んー、だからね、俺、姫城さんのことが好きなんだよね。だから他の女子から貰ったバレンタインのチョコレートが武田に没収されてるとか、正直クソほどどうでもよくて」
「だから待てよ!」
そんなことを説明してほしかったんじゃない。そうじゃない。そういう話じゃない。
じゃあどういう話? そう言われると分からない、けど、いや、待て。
「え、いや、だから……何が……」
「……ごめん、どこらへんが通じてないの?」
いや、何もかも通じてないだろそんなの。
今、私の中ではエンドロールが流れてたんだ。私のバレンタインと私の初恋よさようならと。まだまだ幼稚な恋は儚いものでした、グッバイ、そんなポップなキャッチフレーズでもつけないとやってられない、半ば自棄のようなエンドロールが流れていたんだ。それがなんだ。お前はなんだ。
「いや……何もかも……」
「何もかも……って言われると困るんだけど。どこらへんが好きか言えばいい? 言ってもいいけど言った後にフるのはナシね」
「いやそういう話じゃなくて! いや私が松隆をフるとか有り得ないけど!」
思わず口走った後で、しまった、と気づいた。松隆をフるなんて有り得ない、なんて、告白と同義だ。
でもまだ松隆は困った顔をしている。何も通じてないなー、と言わんばかりだ。でも私の頭はまだ追い付かない。松隆の言葉を何一つ処理していない。
「え……だ、って、松隆、そんなにイケメンで……」
「イケメンだから姫城さんのこと好きになるはずがない? そんなわけないでしょ」
「……私、とは、図書委員が同じだっただけで……」
「それだけだと思われてた? 傷つくな、話さない日ないくらい話してたじゃん。図書委員だけじゃなくてさ、昨日見たテレビがどうとか、この間のテストがどうだったとか、
「……めちゃくちゃにモテるし」
「それは姫城さんを好きなのと関係なくない?」
「……私の、困るって……」
「ん?」
半ば呆れたように、淀みなく答える松隆の前で、息が詰まった。だって、昨日の今日ならぬ今朝の今だ。泣き出しそうだった。やっぱり、私は、松隆とこの関係のままで十分だなんて謙虚になれてない。あの時の松隆のセリフを思い出すだけで、こんなにも苦しくて悲しくて、泣き出しそうだ。
「……私から、チョコレート貰ったら、困るって言った……」
「えー、そりゃ、困るよね」
なんで。
「だって、バレンタインのチョコって、実質告白じゃん。何人かに配ってたらまだしもさ、姫城さんがクラスの男子に配るなんて想像できないから、まあ現にしないって言うし、そういう姫城さんが俺にしかくれないってことは、もう俺に対する告白だろ?」
私が想像した通りの回答だった。それが困るってことは、告白されたら困るってことなんだから、それは、好きじゃないから迷惑だってことじゃないのか。
「俺、好きな子には告白したいから」
──告白されたら、困るって。
「それなのに、先に告白紛いのことさせるのは、俺がヘタレじゃん? 勝率の低い賭けはしないタイプではあるんだけどさ、だからって出来レース走りたいわけじゃないんだよ、俺は」
困る、って、そういう。
「だから、姫城さんに先手打たれるのは困るなって思ってた」
なぜか、じんわりと目頭が熱くなった。一瞬で溢れた涙に眼前を歪められたし、堪えようとするほど思考も回ってなくて、躊躇うことなどないように、涙が零れた。
でも、恥ずかしいわけでも、惨めなわけでも、悲しいわけでもなかった。
「……他は? 通じてないことは? 聞きたいことは?」
声が出なくて、震えるように首を横に振った。
「そう。じゃ、もう一回言うけど」
それに安堵したような表情になって、松隆は少しだけ笑った。
「俺は、姫城さんのことが好きです」
私が誰かを好きになるなんて、恥ずかしいことだと思っていた。
「あわよくば付き合いたいと思ってるので返事をくれると嬉しいです。ちなみにここまで言わせてフラれるととても落ち込むので、できればフラないでください」
答えなんて分かりきってるようなおどけた言い方に、笑ってしまった。拍子にまた目に溜まっていた涙が零れてしまった。
「……私も」
私が誰かを好きだと言うなんて、惨めなことだと思っていた。
「私も、松隆が好きです」
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