第2話
その日の放課後は、図書委員の係の日だった。私と松隆は図書室のカウンターの内側に座って、たまに本が返却されるのを受け取って、並べなおして、また借りられていく手続きをする。
ほとんど人のいない図書室で、松隆と二人きりでいる空間は、私の特権だった。利用者が一人でもいれば雑談なんてするわけにはいかないけれど、何も喋ることができなくたって、椅子たった二つ分しか離れていないところに松隆が座っているだけで十分だった。でも、そんな感情を持っているのが恥ずかしいから、松隆に興味のないふりをして、いつも本を読んで、暇潰しをするような態度をとる。松隆がそれに気を悪くする素振りは、やはりない。
「貸出カード、なくなるんだよね」
「え?」
利用者の最後の一人が出て行った後、不意に松隆がそう声を発した。驚いてやや素っ頓狂な声と共に顔を上げれば、松隆は、返却されたばかりの本を片手に、貸出カードを私にちらつかせた。
「花咲高校の見学、前にしたんだけど。図書室に行ったら、本の裏に貸出カード入ってなかったんだ」
「……どーすんだ、それ」
本の裏表紙を捲ったところに封筒みたいなポケットがついていて、そこに入ってる貸出カードに本のタイトルが書いてある。そこに名前を書いて、貸出日を書き込んで、図書委員に渡す。本を返すと、返却日に日付が書き込まれて、貸出カードが本に戻されて、返却完了。そんな手順は、貸出カードがないと成り立たない。
「学生証に磁気が通ってるんだっけな。それを、このくらいの機械に置くんだって」
松隆は、両手で直方体を表してみせた。その直方体の真ん中あたりで水平に手を振りながら「で、ここに本を置いたら、バーコード読み取って、勝手に貸出手続してくれるんだってさ」と続けた。
「あとはレシートみたいなのが出てきて、それに本のタイトルも、貸出日も返却日も書いてある」
「へーえ……すごいな。さすが私立、ハイテク」
「ね。でもなんか、ちょっと寂しいかな。貸出カードに慣れてるし」
そうかもしれない。松隆の手にある本を見つめながら思う。本の裏表紙の裏には、封筒があって、貸出カードが入っている。たまになくなってるものがあって、図書委員が新しく作る。逆に人気の本は次々と貸出カードが積み重なって、封筒に入らなくなっている。そういうのは、破棄するのも勿体ないからか、カウンターの下にある引き出しの中に、整理もされずにぎっしりと詰まっている。
そういうのがなくなって、全部箱の中で処理されるのは、確かに少し味気ない。
「……図書委員もいらなくなるな」
「確かに。多くても一人でいいのかもね」
そう思えば、私はラッキーな時代に生まれたのかもしれない。あと十年後だったら、たとえ松隆と同じ年に生まれていても、一緒に図書委員をすることはなかっただろう。
そんな、砂を吐きそうなくらい乙女チックな思考に包まれていた私を叱るかのように、不意に、聞きなれないバイブレーションの音が響いた。松隆が「あ、やば」と珍しく慌てた素振りを見せて、ポケットの中からライトブルーの携帯電話を取り出した。パチン、と開いて、パチパチと二回くらいボタンを打った。
「……ケータイ、持ってきてるんだな」
「携帯電話だからね。あ、内緒ね」
しー、と人差し指を唇の前でたててみせる、その仕草。秘密をばらされて慌てる顔も見てみたくなった。でも、悪戯っぽく秘密を共有するその仕草と表情のほうが、好きだった。
「姫城さんは? 持ってきてないの?」
「持ってない」
「……持ってない?」
「ああ。高校に上がるまで要らないと思って。家も近いし、塾とかも行ってるわけじゃないし」
要らない思ってるのは本当だ──本当だった。ついさっきまで。松隆の手にある携帯電話を見て、松隆のメールアドレスとかいうものを知りたいと、思うまで。
「そうなんだ。女子って持つの早いイメージあるのにね」
「悪かったな、女子らしくなくて」
「そんなこと言ってないのに」
違う。本当は、そういうことを言いたいんじゃない。でも、携帯電話が欲しいなんて、そんな女子らしいこと恥ずかしくて親に言えない、なんて本音も、恥ずかしくて言えない。気の利いた返事も、思いつかなかった。
「でも、ま、そうだね。あんまり持ってるヤツいないよね。俺も折角持ってても、登録してるアドレスと番号、親と幼馴染のだけだからさ。どうせ毎日会うんだから、メールする用事もないんだよね」
「だろうな。最初は物珍しくて用事もないのにメールしてみるけどすぐ飽きる、とかなりそう」
「そうなんだよね、本当にその有様。でも、卒業してみんなバラバラじゃん? だから卒業までに買ってもらって、式でメアド交換するって話してるヤツはいた」
「ふうん」
でも、仮に、卒業までに買ってもらえたとしても、私が、松隆のメアドを聞く口実は、その頃にはもうなくなっている。
この時代に生まれてよかった、なんてさっきの感想を早速撤回したくなった。もし、今が、中学生でもみんな携帯電話を持ってる時代なら、図書委員の仕事にかこつけて松隆にメアドを聞けたかもしれないのに、なんて。
「卒業、早かったなって気がしない? 俺、この間まで制服大きかったんだけどな、とか思う」
「……まあそういうのはある」
「入学したときから十センチ以上伸びたし。一年の頃、半分くらいの女子は俺より大きかったと思うんだよね」
「そんな小さかった?」
「うん、今でも覚えてるんだけど、中学入ったときの身長が一五一・八センチだった」
「え、嘘」
驚いてしまったのは、なんてことはない、私が中学に入った時点での身長が一五八センチ超だったからだ。確かに私は女子の中でも高いほうだったけれど、松隆がそこまで小さいイメージがなかった。本当だよ、と松隆は肩を竦めてみせる。
「だから三年間でめちゃくちゃ伸びたんだよ、俺」
「……今、何センチなんだっけ」
「先月がジャスト一六五センチだった。もっと伸びてほしいんだよなあ」
理想の身長差が十五センチ。
「姫城さん、すらっとしてるけど、何センチ?」
松隆は一六五センチ、そして私は──。
「一六五センチ」
「え、嘘」
ああ、ほら、可愛げがない。よりによって同じ身長だなんて、松隆には一八〇センチくらいになってほしい、なんて莫迦みたいなことを思った。それでも、隣に並べないから意味なんてないのだけれど。
「ちょっと立ってよ」
「は、なんで。今委員会の途中じゃん」
本当は、そんなクソ真面目な理由なんてどうでもよくて、ただただ、松隆と同じ身長だと目で見て知られたくなかった。
「いいじゃん、誰もいないし」
「面倒くさいし」
「それなら、無理にとは言わないんだけどさ」
だって、松隆は、隣の女子と同じ身長だなんて、男子としてのプライドが許せないからとか、その程度の理由だろ。それなのに、わざわざ並んで同じ身長だと見せつけるなんて、惨めになるだけだ。
そうやって無碍にしてしまうのに、図書室が閉まるまでの十分間に息苦しさも何もないなんて、笑ってしまう。もっと松隆の話に乗ればいいのに、と思う自分もいるのだけれど、松隆と仲良さげにふるまって、周りからあれこれ言われるのは嫌だった。
あの“姫城”が松隆くんを好き? それは、ナイでしょ。
そんな風に言われる自分は容易に思い浮かんだし、それに何の反論もできないこともわかっていた。
私が、さえみたいに可愛ければ、もっと松隆に積極的にいったのに。図書委員にかこつけてたくさん話をできたのに。たくさん話をしてくれる松隆が、もしかして私のことを好きなんじゃないかとか、そういう妄想にもイタくもなく浸れたのに。
「じゃ、鍵は返しとくから」
図書室を出た後、松隆にはそう申し出た。そう言わなければ、きっと松隆は一緒に鍵を返してくれるし、そうすれば学校を出るまで、あわよくば道が一緒のところまで一緒にいることはできただろう。でも、松隆はいつも仲良しの幼馴染と一緒に帰っているのを知っていたし(なんだか私の恋愛はストーカーじみている)、下手にそこと合流してしまったら気まずくないわけがなかったから。
「いいよ、俺が返しとくよ」
が、予想に反して、松隆の手が私の手から鍵を奪った。一瞬だけ触れた指は、ひんやりと冷たかった。
「え……」
「いつも姫城さんに任せてたし。最後くらい俺が返さないと、先生にいつも姫城さんにやらせてるって怒られそう」
そんな軽口を叩いて「じゃ」と松隆は颯爽と職員室へ向かってしまった。残された私は呆然と立ち尽くし、でもすぐにいなくなってくれた松隆に安堵する。触れた指先から頭まで、一瞬で上った熱に、おかしくなりそうだった。
それを隠すように、乱暴に巻いたマフラーで顔を隠した。でも、職員室に行った松隆が追い付いてくれるように、ゆっくりと下駄箱に向かい、自分でものろいと思うくらい緩慢な動作でローファーと上履きを履き替えた。もし、教室に荷物を置いていたら、忘れ物をしたふりをして、松隆が帰ってくるまで机の中をごそごそしていた気がする。きっとそうだ。
「……あほらし」
声を出して自分に言い聞かせる。それでも松隆が追い付いてくれる気配はなかったから、諦めて学校を出た。それでもやっぱり、あわよくばなんて気持ちが拭えなくて、帰り道にある本屋に寄ることにした。
──姫城さん、いつも何の本読んでるの?
今でも覚えている。松隆と初めて話したのは、三年四組の教室の、窓際の、前から三列目。配布物が前から回されてきて、一度本を閉じて後ろに回したとき、松隆にそう言われた。
『……いつもって何が』
あの時は、動揺して、我ながら酷い返事をしたと思う。毎日同じ本を読んでるわけじゃないのに“いつも”ってなにを指してんの、そういわんばかりの返事だった。でもやっぱり、松隆は気を悪くする素振りはなかった。
『いつも本読んでるから、好きなのかなって』
『……まぁ本は好き』
『今は? 何読んでるの?』
『……ロスト・ホワイト』
よりによってその時読んでいたのはラノベで、こんなイケメンがオタクっぽい小説なんて読むわけがないと思ったから、心底後悔した。現に松隆はきょとんとした顔をしたから、その場で穴を掘って埋まりたいとまで思った。昨日までだったら『オーヘンリー短編集』を読んでたのに。それならまだ、知らないと言われれば勧められたし、興味がないとしても、オーヘンリーを読んでいて嗤われる心配はなかったのに。
『それって、成葉菖子の?』
でも、思わぬ反応に、そんな後悔は一瞬で吹き飛んだ。驚きすぎて言葉が出てこなかった。代わりに「まぁ……」なんて掠れた声で頷くしかできなかった。
『意外、姫城さん、そういうの読むんだ』
真面目そうな見た目だから、ラノベなんて読まないのかと──そう聞こえた気がして、気分が沈んだ。
『成葉菖子、俺もすごく好きなんだ。ロスト・ホワイト、まだ読んでないから、読み終わったら借りてもいい?』
それなのに、はにかんだ笑顔に、意気消沈していた自分は、一瞬でいなくなった。
今思い返しても、莫迦みたいに単純だと思う。以来、背後の松隆が何を話しているのか、いつも気にしていたし、他所のクラスから松隆の幼馴染が松隆の名前を呼ぶだけで、自分のことのように顔を上げた。配布物を回すときも、いつもより丁寧に後ろに回して、机の上に置けば済むものを、わざわざ松隆に手渡しした。社交辞令かと思っていた本の貸し借りを「そういえば、ロスト・ホワイト読み終わった?」なんて聞かれて、舞い上がるくらい喜んだ。
あの、たった二分の会話で、例外なく松隆を好きになった。挙句、漫画で見るようなもどかしい言動を繰り返してしまっている。そんな自分が、堪らなく恥ずかしかった。
本屋に、目ぼしい新刊はなかった。しいていうなら、松隆が話していた『コバルト・ブルー』が置いてあるのを見つけて、手に取った。裏表紙のあらすじには「少しだけ青味がかった便箋と、少しだけ右肩上がりの宛名。それが、彼女からの手紙だというサインでした……」とあって、松隆の言う通り、携帯電話もパソコンメールもない時代を題材としているのが分かった。松隆との話題になるから買おうかな、と悩んで──やめた。
文庫本コーナーを出て、お店の出口まで戻れば、そこには所狭しといわんばかりに大量の雑誌が積んである。バレンタイン特集なんて文字は複数の雑誌から飛び込んできた。でも、その表紙に映っているのは、煌びやかなモデルばかり。
こんな風に、顔が可愛かったら、人生楽しいんだろうな。
私が手に取るだけで嗤われてしまう、そんなふうに表紙を飾るモデルを、じっと見た。姫城はあんまり笑わないね、とさえによく言われる。そんなの、笑っても可愛くもなんともない女子が笑ったところで無駄だからだ。こうやって可愛く笑えるなら、私だって、いくらでも笑ってやる。
折角松隆との話題を探しに来たのに、気が滅入ってしまいそうで、逃げるように本屋を去った。
家に帰ると、双子の兄二人がもう学校から帰ってきていた。私に気づくと、時計と私の顔を見比べる。
「麗華、帰るの遅くね?」
「委員会」
「へー、なんだっけ」
「図書委員」
「うわー、俺、図書委員の女子とかマジで無理だわー」
「わかるー」
図書委員の女子って暗いもんなぁ、と同じ顔が口を揃える。別に、可愛げが欲しくて図書委員をやってるわけじゃない。……図書委員になれば、松隆と話す機会が増えるかと思っただけだ。松隆が図書委員になったのは、嬉しい誤算というやつで。
「つかお前、髪伸びたな。伸ばしてんの?」
「いや別に」
目ざとい兄の指摘に、早口で素早く否定した。ショートボブを貫いていたのに、私は、夏を過ぎたあたりから、何かへのささやかな抵抗かのように、髪を切る頻度を減らしていった。本当はセミロングくらいに伸ばしたかったけれど、小さい頃から行きつけの美容院で「伸ばしてるの?」と聞かれると「いや、別に」と照れ隠しをしてしまっていた。結果、髪を切りに行くと必ず元のショートボブまで戻ってしまった。
今は、一生懸命伸ばして、やっとボブまで来た。一生懸命、頑張って、髪を伸ばしているのを知られたくなくて、親に「伸びたけど、切りに行く?」と言われるのを「受験が終わったら」と言い訳し続けて、やっと、ボブになった。
なった、けど。
「切るの面倒だったから。来週には切る」
少しは女の子らしく見られたくて伸ばしてる、なんて、泣き出してしまいたくなるくらい、恥ずかしい理由だった。
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