モトコさんには推しがいない

つゆり

モトコさんには推しがいない

「わあ、まだ陽が沈みきってない」

「冬が終わったんですね……」


 金曜の午後六時。繁忙期を終え、じつに二ヶ月ぶりとなる定時退社の感動にしみじみとひたってから、ふたりは「ではまた月曜日に」と久しぶりにみせる明るい表情で解散した。


 モトコの勤務するデザイン会社は、営業部三人と制作部二人、事務員一人のちいさな組織ながら、市内中学校が卒業式に配布する記念誌の制作を多数請け負っており、一・二月は目が回るほど忙しい。


 短期のアルバイトや外部の会社の助力を得ているとはいえ、制作部のふたりはこの時期、連日の残業が日常となる。疲労とストレスが積み重なりピークに達する二月中旬ころ、照明が半分落とされ、マウスのクリック音だけが響く社内で、うつろな目のふたりはぽつぽつとこんな会話を交わすのだった。


「わたし、これが終わったら聖地巡礼にいくんだ……」


 勤務二年目のクボタがはじめてこのセリフをつぶやいたとき「クボタさん、それ死亡フラグ……」とモトコは笑ったが、モトコさんもなにか宣言しましょうよ、とうながされて決めた「これが終わったらホテルのランチビュッフェに行く」は、なるほど効果をてきめんだった。ごほうびを設定することで前だけを見て走ることができ、例年よりもあきらかにおだやかな精神状態で繁忙期を終えられたのだった。


 以来、恒例行事となった「深夜のこころの支え宣言」ははたして今年も行われた。勤務四年目となったクボタは例年同様に「聖地巡礼」。それは長年ファンを続けているミュージシャンの「聖地」をめぐる二泊三日の旅なのだが、出生地はもちろん、ミュージックビデオを撮影した場所めぐり、テレビ番組での旅行ロケをたどる旅と、毎年趣向は異なる。


 いっぽうモトコは昨年が「高級焼肉店で好きなだけ食べる」、今年が「予約の取れない店のフランス料理フルコース」であり、たしかにテンションを引き上げ、繁忙期をのりこえる力を与えてくれるイベントではあるものの、クボタとは別の方向に芯を通した内容に、すこし情けなくなるおもいなのだった。


「人生には推しが必要なんだよ」


 繁忙期はぶじに終わったの、とたずねたとたん、目を閉じて「うーん……」と考え込んだすえ、かっと目を見開くや力強く言い切ったモトコに、おもわずオギノはナイフとフォークを置き、姿勢を正した。


「それは……例の後輩のはなし?」

「そう、クボタさん。彼女の推し活は無償の愛って感じで、しかも活力源は無限でね。格のちがいを思い知るよ。ひたむきに情熱を注げる対象がいるってすごいことだよね。憧れるなあ……」


 推し、と聞いてオギノがはじめに想像したのは、大所帯のアイドルグループの中で一番好きな子、その子を応援するために大量のCDやグッズを購入するのが推し活、という図式だったが、モトコから聞くクボタという子のはなしはたしかにまったく種類が違った。


 残業中、ふとみると涙ぐんでいて、あわてて声をかけると「頭の中で新曲をリピート再生してたら歌詞に泣けてきた」らしい。


 クボタがミスをして社長に長々とお説教をいただいたあと、励まそうとしたが本人はけろっとしていて「推しの下積み時代はもっとたいへんだったから」といわれた、らしい。


 数々のエピソードからみえるおもいは応援というよりも信仰にちかいものだった。推しの存在は日常に溶け込んでいて、見返りを求めずただひたすらに愛し、それによって自分の人生が充実している。モトコがうらやましいというのもわかる気がした。


「オギノには推しがいるの?」


 モトコの問いにオギノは「いや、推しというか……」と口ごもりつつあいまいにうなずいた。詳細を催促するモトコの言葉にも、煮え切らない態度をかえすことしかできない。


 三年間続いているこの「繁忙期明けの特別な食事」。そこに「ふたりでの」という注釈がつけられることにモトコは気づいているんだろうか。


 オギノは頭に浮かんだ疑問を赤ワインで飲み込んだ。


 はじめのランチビュッフェに同席したのはまったくの偶然だった。たまたま電話をかけた日がその前日で、はなしの流れでそうなっただけだ。モトコがごほうびの効果にいたく感心していたのを利用して、ひとりでは行きづらい高級店でもふたりなら、という方向に差し向けたのはオギノのひそかな戦略だったけれど。


 たぶんかつては推しだった、とオギノは白状した。


「なにもできなかったけどね。相手に自分の好意を気取られたくなくて」

「それは……照れくさいとかそういうこと?」

「ちょっとちがうなあ。説明しづらいんだけど……自分の存在が、相手の行動に影響するのが不安だったというか」

「……ああ! 推しをとりまく空気中の塵になって漂っていたいっていうやつね!」


 モトコは、ぱあっと顔を輝かせて、わかるわかる、と何度もうなづいた。オギノは苦笑する。


 モトコとは大学のゼミ仲間として出会った。そのうちのひとりとモトコが付き合いだしたときはたしかに、彼女が幸せならそれで、と空気のなかひそんでいられた。どうしてそんなことができたのか、といまでは不思議におもう。


 彼女が笑うとなりには自分がいたい。彼女の変化の原因は自分でありたい。


 以前ほど純粋ではなくなった欲望ともいえるおもいを、これからも気取られずに抱え続けられるかどうかは、あやしいところなのだった。

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