美しき夜の歌・7

 ***


「……だめ、開かないわ」


 アリーシャはひとり、自室のドアの内側で額に浮かんだ汗を拭った。押しても引いても全くの無駄で、びくともしないのである。


「はあ……」


 そのまま脱力して床に座り、膝を抱えて俯いてしまう。自分はなんて無力なのだろう。シイハとユイが身体を張って行動している時に、暖かい部屋の中で、ただ待っていることしかできないなんて。


「ううん、諦めてはダメ」


 小さく首を横に振り、自分に言い聞かせる。諦めずにドアを押せば、少しずつ少しずつ、外側の重石が床を滑るかも知れない。


「そうよ。私だって……!」


 意気込んで立ちあがろうとした瞬間、ぽんと肩を叩かれた。


「……ひっ、」


 思わず悲鳴が漏れ、身体が硬直する。この部屋には、アリーシャ以外に誰もいないはずだった。それなのに、背後から……肩を?

 恐る恐る振り返ると、そこには見覚えのある船員がひとり。アリーシャに布の補修を追加した、顔の見えない若い船員だ。


「──だ、誰?」


 ***


「いこう、燐」


 黒い触腕が燐の腕を巻き取ろうと伸びた、その時。迸る流星の如く、一閃の赤い光がそれを狩り獲った。

 白い髪と赤い服がふわりと重力に従って降り、小さな少女──ユイが軽い身のこなしでそこに立つ。

 千切れた軟体の円筒は船外へと吹き飛ばされ、荒れた海にぼちゃりと落ちた。数十、数百あるうちのたった一本だ、油断はできない。それに、ああいったものは切断したところで再生するのがセオリーでもある。

 突然の反撃に驚いたのか、船を掴んでいた触手はするすると剥がれ、少しばかりの重力を纏ったあとで船底が海面を殴った。船は大きく揺れた後、甲板上の洒落たランプたちを乱暴に転がしながら腰を落ち着ける。


「あ、貴女は……」燐が戸惑いの声をあげる。

「感心しませんね。嫌がっているのを無理矢理連れていこうなどとは……貴方にはもっとこう、男気があるものだと思っていましたが」


 買い被りすぎたのでしょうか、と、背後にはシイハの姿もある。ユイは二人を背後に庇い、真っ直ぐに怪物と対峙した。


「部屋から出るなと言ったはずよ」

「出ないとは言ってません」


 咎めつつも気が抜けて、燐はその場にぺたりと座り込んでしまった。冷えたからか、それとも心因性の何かなのかはわからないが感覚の鈍くなった脚を触ると、ふるふると小刻みに震えていた。本当は二人がきてくれて、とても安心しているのだ。溢れそうな涙を、見えないように袖で拭う。


「そんな錆び錆びのいかりみたいな身体で、いったいアンタに何ができるのよ」

「例え方、もう少しマシなのがあるでしょう」

「シイハ! 危ない!」


 ドォン! と甲板に大穴が空く。高く飛沫があがる。焦れた触腕が獲物を叩き潰そうと鉄槌を下したのだ。すんでのところで小さな剛腕に掬いあげられた燐がユイとともに宙を舞い、デッキ後方の積荷コンテナへと着地。

 狙いが移ったのか、もともとそうだったのかは知らないが、今度はその場に残ったシイハに向かって、太いゴムのような触腕がぐいんと凪いだ。


「ッぶな!」


 咄嗟に体勢を低くして頭上をやり過ごせば、それは中央の柱やマストを横薙ぎに倒しながら、海の中へと半ば投げやりに還っていく。


「首はやめてくださいよ……修理できないので」


 甲板に空いた穴から海水が浸み込んでくる。大雨に大穴。あと数分でこの船がどうなるかは想像にかたくない。


「はあ、で? 貴女いったい、どうするんです?」

「な、なにが……」燐はユイに身体を預けたまま、下方のシイハを見遣った。

「ご覧の有り様ですよ。彼はもう、貴女の愛する月華キャプテンではない」


 つと、視線が月華に動く。それはどろどろと不気味に泡立ち、もはや人の形をしていなかった。それでも「燐」と優しく名を呼ぶ声は間違いなく、彼のそれだ。今までも彼と同じ姿で、彼そのもののように燐のそばにいた。


「……アレはヒトに擬態する化け物です。蒼海の海月。天使、悪魔、人魚……などと異名のある珍しい生き物で、」

「いい。わかってる。わかってる、から……」


 船がぐらりと傾いた。雨足は弱まることなく、そこにいる冷え切った命たちを容赦なく叩いている。


 燐はそっとコンテナから降り、覚束ない足取りでへと向かった。いつの間にやら愛用のかんざしが外れて、赤い髪が肩先までするりとほどける。


「燐、おいで──」


 化け物は嬉しそうに綻び、人間の手の形を模した触腕を伸ばした。


「おいおい、正気ですか」

「危ないよぉ……!」


 戸惑う二人の声を背に、燐がようやく足を止める。もう少しで化け物の手が届きそうな位置。ここからではユイの俊足も間に合いそうにない。敢えて救いから遠い距離で、燐はしっかりと前を見据えた。


「ねぇ、もうやめてよ。キャプテンのフリするの……」その声は震えて、雨の音に掻き消えてしまいそうだった。


「あの時、キャプテンは死んだんだ。どうしてこんな大事なこと、忘れてたんだろう」


 やがて、甲板がなだらかな斜面に変わる。舳先の積荷や樽がごとんと倒れて転がり、為す術なく海へと吸い込まれていった。ユイはシイハの傍らへと走り、錆びてがたつく肢体をしっかりと支えて立つ。


「アタシ、夢を見てたんだ……」


 燐が足を踏み出す。化け物が頭部をぱかりと開き、楕円を囲った鋭い牙を剥き出した。巨大なミキサーの底のような刃の群れ目掛け、燐は臆さず、両手で握った何かを勢いよく突き立てる。

 自身の肘から先が両の歯で擦り潰されるような猛烈な痛みに、目蓋の裏を火花が散る。それでも決して離さない。喉奥、もっと奥まで、ぐいぐいと全体重をかけて押し込んでいく。両手の感覚がなくなった。もう痛くも痒くもない。


「り、りん……グ、がァ……」


 どちらのものとも分からない、おびただしい量の鮮血と黒墨が噴き上げ、恐らくは化け物の喉に当たる部分から凶器の先端が突き出した。


 それは、紅玉のかんざしだった。燐が、いつか月華から譲り受けた宝物だ。赤い髪によく似合うと褒めてくれた、大切な──今となってはもう、形見というべきものだろう。


「も、う……醒め、なきゃ」


 目の前は赤く、黒く染まり、幸いなことに意識が遠のいていく。走馬灯のように懐かしい記憶が脳裏を駆け巡り、月華の優しい笑顔を最後に、ぷつりと切れた。

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