美しき夜の歌・8

 ***


 もしも、いま隣にいる大切な人が、本当はよく似た別人だったら?

 もしくは、隣にいた大切なその人が、よく似た別人に成り代わってしまったら?


 容姿、声、仕草。真実を知らされなければわからない。は、本人オリジナルと何も変わらない。現実と記憶の齟齬。もはや、自己の認識だけの問題なのだ。


 わたしは──。

 まだ答えをだせずにいる。


 ***


 蒼海の海月。彼らは月光に晒されると、擬態が解けてしまう。故に月を嫌うのだ。

 雑食であるが、口にして取り込んだものの強い想いや記憶を模倣する特性がある。通常、人間の住む領域には干渉しないが、時折こうして通りかかった船を襲うこともあるのだとか。

 船頭に擬態して巣まで誘うパターンがあるとは、初耳だ。あくまでをただの海洋生物とするなら、の話だが。


、か」


 シイハはどこかぼんやりとして、目の前の光景を見ていた。見ていることしかできなかったし、しなかった。

 雨がわずらわしい。波が、潮が、全てが鬱陶しく思う。気づけば船は大きく傾き、船尾を海水に浸していた。海を好きだと思ったことはない。旅を始めてからは特に、よくないことばかりが起こるからだ。


 一緒にいこう。……一緒に死のう。

 本物の月華は、燐と一緒に生きたかったのではなく、のだろうか。

 その理由など知るよしもないが、海月は、取り込んだ故人の想いを模倣した。彼女を閉じ込めて護ろうともした。ただ真似ているだけにしては、実に複雑怪奇な思考だと感心する。


 燐は、海月の口に頭から上半身を突っ込むような格好で動かなくなっていた。

 ごき、ばき、と固いものが砕ける嫌な音がして、口から垂れ下がった細い両脚が、びくびくと反動で跳ねた。咀嚼する度、黒と赤が混ざった粘液がそこから火山のように噴き出して、水に浸った床板を点々と染めていく。


「……っ」


 どうしていいのかわからず、ユイはシイハの服の端を掴んだ。


「見るな」


 彼女の目線の位置を腕で覆ったが、もう遅いような気もする。


 海月はうねうねと黒い触肢をしならせ、上機嫌に餌を喰らった。ずるりと四十キロ弱の肉塊を喉奥へ押し込むと、突き出た簪を器用に引っこ抜く。手荒なことをしたわりにほとんど綺麗な状態だったが、立派な金幹だけがぐにゃりと曲がっていた。


「デザートは必要ありませんよね?」


 シイハがようやく腕をおろし、腰部ポーチの爆薬瓶に手をかける。船はもうじき沈むだろう。周囲には、様子を見物していた仲間たちの赤い目が無数に光っている。足場も悪く、おまけに身体もがたついている。ここで戦うのはあからさまに不利だ。──どうする?


「シイハ、あれを見て!」


 ユイが何かに気づき、水没した船尾下方を指差した。


「ん、」


 突き出た岩礁の隙間から、一筋のサーチライトが射している。それは、こちらに合図を送るようにチカチカと明滅すると、ブォーン! と高いモーター音を鳴らした。


「ユイ、あそこに向かって走れますか?」

「うん!」


 互いに目線を合わせて頷き、脱兎の如く傾斜を駆けおりる。異変に気づいた海月の化け物が、一瞬遅れて一房の触腕を振り上げた。しなる鞭のようにボロボロの床板をばしりと叩き、勢いよく水飛沫があがる。それが二人の視界を邪魔したが、身を隠すカーテンにもなった。


 敵は後方三メートル。男と女の声が混ざったような気味の悪い咆哮をあげ、持ちうるすべての触肢を伸ばして、上下左右あらゆる方向から追ってくる。甲板から目前の岩礁に飛び移ると、身軽なユイが一歩先でシイハに手を差し伸べた。それを掴もうとこちらも腕を伸ばす。悪い足場を踏んで跳躍したが、ようやく追いついた右斜め前方からの一本が眼前にせまった。


「……!」


 空間を引き裂くように、ユイの姿が触肢に隠されて見えなくなる。そこからはほとんどスローモーションで、目を見開いたユイが鬼の形相で何かを叫んだ。

 これ以上先にはいかせまいと、触肢がシイハの軸脚を掬いとる。わずかにバランスを崩したその隙に首を捻ろうと、伸びて、伸びて──そして、ビュンッと風が鳴った。


「シイハ!!」


 ユイの張り裂けそうな声と同時、触肢は鋭利な刃物で切り取られて、ぼちゃん! と海に帰る。

 役目を終え、弧を描いて足元の岩礁に突き立った小型ナイフには、きらりと光る金の装飾。花の都で出会ったとある男を彷彿とさせる、武器にしては洒落た造形だった。


「遅いですよ!」


 ふと、拘束が弛む。その隙に趣味の悪い足枷をごんっと蹴とばして、シイハはユイの待つ小舟へと駆け込んだ。

 間近で照るサーチライトの光源はカッと眩しく、舞台スポットのようにも見えた。近すぎると、逆光でシルエットになる。


「ああ……よかった。わたし、」


 ユイはシイハを小さな身体でぎゅうっと抱きしめ、外套を掴み、しっかりと身を寄せた。


「油断しました。すみません」


 ……温かい。人の体温とは、こんなにも温かいのか。背中を撫で、自身の胸下にある小さな頭にぽんと手を置いた。


 ──「はあ、お熱いこって」

「シイハ。よかった、二人ともご無事で……」


 冷やかしに口笛を吹いたのは翠色の髪の男で、シイハは不快に眉を寄せた。傍らにはアリーシャの姿もある。

 縦長の舟はゴンドラのような形状だが、不思議なことにエンジンがかかっているようだ。男──ユーリの手腕で、取ってつけたようなハンドルが回り、ギュウン! と乱暴に旋回する。


「オンボロ改造船を無理やり動かしてるからなぁ! 爆発しないように祈っとけ!」

「……殺しますよ」

「せっかく助けにきてやったのに、ひどいヤツだなっ」

「そもそも私たちは巻き込まれたんです」


 遠くに沈みゆく船を見つめながら、シイハはようやくその場に腰をおろした。追ってくる様子はない。赤い魔光も、蛍のようにふつふつと消え始めた。もう、声も聞こえない。


 あとはすべて海中に沈んで、そこにはまるで初めから何もなかったかのように、弾ける泡のひとつになる。豪快な料理が並んだ食卓も、ぶっきらぼうな赤い髪の少女も、陽気な船長の歌声も。何も、何も──。


 ユイはシイハに身体を預け、すやすやと寝息を立てていた。


「……おやすみ」


 海は嘘のように静かで、だんだんと空が紫色に染まり始めた。もうじき、夜が明ける。

 

「色々と話したい所だけど──」


 ユーリはその場にいる全員の、決してよくはない顔色をうかがうと口を閉じた。


「……いえ、だいたい理解しました。貴方と船長は旧知の仲で、初めから革命戦争の日に熱砂大陸へ寄港する手筈になっていたのでしょう」


 見覚えのある鷹が船の周りを飛んでいたのを思い出す。しかしユーリとて、月華が化け物に喰われていたのは予想外だったらしい。餌の思念を模倣する、海月の習性に助けられたのだというしかなかろう。


「誰も彼も、とんだ災難だったな。海には危険がつきものだ。まあそれは、陸のうえでも同じか」


 舟を自動操縦に切り替え、ユーリも腰をおろす。その横でアリーシャが膝を抱え、静かに目を伏せた。


「旧友が死んだというのに、随分とあっさりしてますね」

「あぁ、そう見えちゃう? まあ仕方ないね」


 ユーリは相変わらずへらへらと笑っていて、その真意は読み取れなかった。


「さて、暫くはこの舟のうえで天日干しだなあ。陸地に着くまでよろしくやろうぜ」

「不本意ですが、仕方がない」コンパスを開いて、シイハが溜め息を吐いた。


「その後はどうするんだい?」


 太陽が、水平線から顔を覗かせた。

 暗かった海を黄金色に照らし、キラキラと波が輝いた。


 その麓にあるのは巨大な樹の影だ。それは幻想で、瞬きをすると消えてしまった。


「無論、──世界の果てにいくんですよ」

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