美しき夜の歌・6

 船乗りの朝は早いが、それでもまだ夜明けがくるには時間があった。暗い紫色に染まり始めた空の下、月華は舳先に座っている。歌を唄っている。

 それは幾つかの異国の言葉で紡がれていて、どこか物憂げな旋律だった。

 甲板にひとり、燐が立つ。月華の背中を見ている。船はぐらりと大きく揺れたが、それでもなんとかバランスを保って、出来る限りじっと。


「なんで、出てきてしもうたんや」


 歌詞の続きかと思った。あまりに流暢に叱るものだから。燐は首を横に振った。


「キャプテン……皆はどこにいったの?」


 波は徐々に荒くなり、大きな波がしきりに船体を叩いている。遠くで雷雲が光った。進行方向だ。そのうち、ここも雨で濡れる。


「なんで、アタシだけを閉じ込めるの」


 ぽつ、ぽつ。大粒の雨が降ったかと思うと、バケツをひっくり返したような雷雨になった。船底は、立っているのもやっとなほど大きく揺れている。


「ここがどこだか、知っとるか? 船の墓場ゆうてな、船乗りの間では有名な話や。常に渦を巻いて荒れた海域、突き出た岩場。そして、沈んだ船の残骸と人骨が、うようよ波間に泳ぎよる」

「……? 知ってるわ。いつか、キャプテンが話してくれたもの」

「せやったか」

「だから不思議だったの。どうして迂回してまで、ここを通るのか……きっと、なにか考えがあるのよね?」


 船が、ぴたりと静止した。海は荒れている。雷雨が殴っている。


「キャプ……テン?」


 ふと嫌な予感がして、燐はちょうど影が射した頭上に視線を遣った。


「……あ、……!」


 そこにあったのは、巨大な軟体の触手だった。器用に船をぐるりと絡め取り、まるで玩具のように軽々と宙に持ち上げている。

 燐はぱくぱくと口を動かし、声にならない悲鳴をあげた。

 想像するのも悍ましい、巨大な生物が海面からぬるりと無数の腕を伸す。それは、どろどろに溶けた人間の腕のようで気味が悪かった。

 脳の奥底に蓋をして、封じられていた記憶が沸々と蘇る。そう、あの時──。

 あの時、キャプテンはのだ。

 気味の悪い触手を持った、ちょうどこんな姿の海の怪物が、彼の頭をぐしゃりと叩き潰した。鮮烈に思い出す。触手に捕まった燐を助けようと懐に飛び込んで、目の前で赤い火花を散らせたことを。燐の細い腕をしっかりと掴み、その手首から先だけを遺していたことを。


「いや……、嫌……ッ」


 燐はじりじりと後退する。しかし、背後も前方も変わらぬ、黒い海が広がっていて逃げ場はない。踵がこつんと当たり、背中を冷たい風がびゅうっと吹き上げた。


「あれから何年経ったか、もう思い出せん。近頃は月の光が煩うて、頭ン中を飢えと渇きが支配しよる」


 なぜ、振り向いてしまったのだろうか。燐は後悔した。眼下の海の中に、ぽつぽつと赤い光が見える。二対でひとつの無数の光は、踊る波が寄せた瞬間、その下に潜む無数の魚人を露わにした。それは、今まで共に過ごしてきた船員たちに違いなかった。腐り落ち、白骨が覗く腕をこちらに伸ばしている。


 ──燐、燐。いこう。いこう。ずっと仲間だ。一緒になろう。おいで、おいで。


 各々が発するくぐもった低い声が、幾重にも重なり、不気味な旋律となって耳に障る。


「いやだ……! やめてッ!」


 耳を塞いで蹲ると、涙で滲んだ顔の前に手が差し出された。どこか懐かしい、優しい面影。燐は少し遅れて、顔をあげた。


「一緒にいこ、燐」


 辛うじて月華の形を保ったソレは、時折風に煽られて溶解しながら──優しく笑んだ。



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