美しき夜の歌・4

「でも、ゲッカは〝長い船旅になる〟って」


 泡立つ波と、黒い海面を珍しそうに覗き込みながらユイが言った。誤って落っこちないように彼女の服の端をつまみ、シイハは眉を顰める。ラヴィといえど、水に濡れたことのない者が海を泳げるのだろうか? 最悪の場合、だ。

 嗚呼、自分の身ひとつならばどうとでもなるのに。


「時間の感覚は人によりけりですからね。そもそも、熱砂大陸を出航してから、すでに三日も経っています。本来ならば半日で着く距離ですよ。大きく迂回しているのかもしれません」

「どうして?」突っ込んだのは燐だった。

「──外は冷える。戻りましょうか」


 くるりと踵を返すふりをして、シイハはもう一度海面を見た。ユイと燐はそれに気づかず、合金のドアをくぐったところだ。

 近くで鳥が鳴いた。黒い影が海面を滑り、ぐんと上昇しながら遥か遠くへ飛び去っていく。

 シイハが遅れて船内へ戻ると、暗幕の内側からカタン、と窓が閉まる音がした。


「どうしたの?」ユイがシイハを見上げる。

「いえ、べつに」

「………………」


 燐は構わず、「つぎ、アンタたちの部屋」と階段を降り始めた。


 ***


 一通りの散策を終え、賑やかだった船内がすっかり静かになった頃。眠ってしまったユイを部屋に残し、シイハは再び甲板へと赴いた。

 吹き抜ける風は先ほどよりも随分と穏やかで、海は凪いでいる。夜飛び魚の群れが美しい翅を広げ、弧を描いて跳ねた。

 月は雲に隠れて見えないが、暗幕の向こうに丸く輝いて、その存在を浮かばせる。

 足元の不安な暗がりを払拭するかのように、洒落たモザイクランプのカラフルな明かりが点々と灯った。先ほどまでは無かった標に誘われたその先に、鮮やかな群青の髪先が見えた。


「シイハか。どしたん? 眠れんのか」


 舳先へさきに胡座をかいて座っていたのは、月華だ。煙管をふかし、上機嫌に鼻歌を唄っている。手に握った紙切れをくしゃりと丸め、羽織の内側へ乱雑に突っ込んだ。


「一服しにきただけですよ」


 シイハは懐から煙草のケースを取り出し、カチリとネジ式のライターで火をつけた。肺の奥を煙が満たして、ニコチンだかタールだかがじわりと身に沁みる。沁みる、ような気がしているだけだ。それでいい。


「あんさんを見てるとな、ふと思い出すんや。それはもう、えろう昔の昔に知り合うた金髪の兄ちゃん。腹が減って死ぬところやった俺に、食料を恵んでくれた。ただ、それだけなんやけどな。うーん、見れば見るほど、どことなくやけどシイハに似とるなあ」

「へぇ……」


 シイハは気のない返事をして、空にのぼってゆく白い煙をぼうっと眺めた。分厚い雲が流れていく。


「月は好かん。あのキレーな白い光に、ぜーんぶ見透かされてしまう」


 月華がふうっ、と煙を吐いたと同時。黒い雲間から、煌々と輝く満月が覗いた。

 天使でも降りてきそうな帯状の光が射して、スポットライトのように二人を照らす。そこには、長く伸びたふたつの影があった。

 その内のひとつは、半粘液状の巨大な海月くらげが無理矢理服を着たような──歪な形をしている。無数の触手をぐねぐねと蠢かせ、海面から跳ねた魚の群れを、ひとつひとつが器用に捕らえた。ぐぱ、と鋭い牙が並んだ口を開き、その傘の中に生き餌を放り込む。


「似たようなモンでしょう。私も」


 言いながら、ふつふつと泡立って落ち着かない海月の影を眺める。視線をスライドさせて月華を見遣ると、月が再び雲に隠れた。そこには、変わらぬ彼の姿があった。


「アンタらには陸を歩く脚も、美味い飯を喰う口もあるから羨ましいなあ」

「後者は貴方にもあるでしょう。好みと形状が違うだけで」


 というか、私には必要有りませんし、と真顔で付け足しておく。


「ともあれ、このまま陸まで、何事もないことを願います。ただでさえ、何度もこの辺りをいったりきたりして疲れました。運も旅路のうちだというのなら、とことんそれが無い」


 パチ、とライターをケースに仕舞い、吸い殻と灰を革のポーチへと押し込んだ。


「無駄なことなんか何ひとつないで。きっと全部、アンタの旅に必要なことなんや」

「往来に数年はかけました。なんやかんやあって、いったり戻ったり。なかなか目的地に辿り着けない」


 半ば愚痴だった。


 月華は笑って、「世界の果てにいくんやったら、帝都から路を変え、ぐるうっと迂回して山を越えるんがええやろな。遠回りにはなるけど、またそれも違った景色でええんやない?」

「……私は何も言ってませんよ」

「こらしもうた。口が滑ってもうたわ」

「そうですか。が無事でなによりです――」


 ……あの男は、律儀に約束を守ったのか。



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