王都アズハールにて・2
彼の手には、一昨日売ったばかりの自著がしかと握られていた。旅人は旅での記録を冒険譚として書き、それを売って路銀を稼ぐのが基本である。
「それがなにか? 生憎、宿代は二人分しか支払っていないのですがね」
「一人分も必要なくなるだろう」
シュンッと風が鳴り、シイハの目先に剣先が突きつけられた。近すぎて直ぐには気づかなかったが、よく見ると刃が淡い緑色に光る長槍である。背後の有象無象も遅れて彼に続き、次々と剣を抜いた。
「……っ」ユイが身構える。
「いきなり旅人の部屋に押しかけて、
シイハが、向けられた刃を煩わしそうに手で払う。
「ほう。我が士官であるとなぜわかった?」
「身なり、立ち振る舞い、武装した大勢の部下、士官服に
悪態を吐きながら淡々。ユイはその隙に、床に落ちたままの煙草を拾った。
「どの程度の地位におわすかまでは、さすがに分かりかねますが。あ、興味ないんで答えなくて結構ですよ」
「知る必要はない、と言いたいところだが──貴君の鋭い観察眼に敬意を表して、身分を明かそう」警戒を崩さず、彼は言う。
「……話きいてました?」
「我こそはシャマール=ライハ。アズハール王直属の宮廷士官である。……不運な旅人よ。ラヴィの少女の逃亡を助け、隠匿した罪でその身を拘束する!」
***
暗い。冷たい。ここはどこ?
あの後のことはほとんど覚えていない。手足の自由と視覚を奪われ、荷台か何かに乗せられて暫くがたごとと揺れた後、この空間に放り込まれた。
「……っ、シイハ」
そう。シイハはどこ?
鼻をひくつかせて捜してみても、シイハのにおいがしない。代わりに濃厚な、煙草とは違う甘いにおいが漂っている。思考がぼんやりとするような、不思議なにおいだ。
首を横に振ると、手足に繋がれた鎖が擦れる音がした。嫌なことを思い出しそうになって、唇を思い切り噛み締める。違う。違う! 今はわたしはそうじゃない。
研ぎ澄ませた五感の残りで、周囲の様子を窺ってみる。……足音? それも、かなり近い。微かな衣擦れ、穏やかな呼吸音。心臓の鼓動までが聴こえそうな位置に、誰かがいる。
「誰……?」
その人物の心音が、一瞬高く跳ねた。
「……気がついたのね」
凛とした女性の声だ。
「待って。いま、それを外すから」
視界がぼんやりと明るくなった。次いで手足から重みが消え、身体の自由を取り戻す。
「ありがとう……」
──独居房のようだ。形ばかりの格子窓は岩で塞がれ、陽の光は入らない。檻の外には、松明の炎が等間隔に並んで通路を照らしている。
目の前に座る白銀の髪の女性は、恐る恐る「怪我はない?」とユイを気にかけた。長いまつ毛に縁取られた、紫苑色の瞳が宝石のようで美しい。
独居房の扉は開いており、彼女が外側から入ってきたことを示している。助けてくれたのは分かるが、いったいなぜだろう?
「大丈夫」質問に答える。
「私は──サーラ。貴女は?」
「ユイ」
「そう、ユイ。驚かせてごめんなさい。ここは王宮の地下牢よ」
「地下……」
手足の先がすうっと冷たくなる。サーラに支えられて立ち上がると、殴られたわけでもないのに少しふらついた。
「どうして助けてくれたの?」
彼女は少し考えて、
「……この独居房に入った罪人は、処刑と決まっているわ。ラヴィだからという理由だけで……そんなこと、許せない」と表情を曇らせる。
「あっ、あの。シイハ……わたしの他に、もうひとり、男の人がいなかった?」
「貴女の他にも捕らえられた人が? ごめんなさい。見ていないわ」
サーラが首を横に振った。
「捜しにいかなきゃ!」
直ぐにでも駆け出そうとするユイを「待って」と優しく制し、檻から顔を出して周囲の様子を確認する。
「死角になっているけど、出入り口に見張りがひとり。見つかったら応援を呼ばれて少し面倒なことになるわ。──ねぇ、ユイ。わたしも実は人を捜しているの。よかったら、ここを出るまで組まない?」
「く、組む!」
よくも分からず、ユイは頷いた。二人で協力する、ということではあろう。
「よかった。貴女がいれば心強いわ」
サーラは、国を象徴するその花のように嫋やかに、優しく笑った。
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