第3話 お っ 母 さ ん
喜市は帰りそびれていた。昼飯を食べ損ねていたが、食い気もない。
お圭に何かしてやれること、今の処、それは一心庵に附いて行ってやることだが、七味唐辛子の屋台を閉めるわけにはいかない。今日の売り上げが、弟や妹の今日の飯代になるのだから。少なくとも店番の親父が戻ってくるまでは、お圭も屋台を離れられない。
灯篭の脇に突っ立っていると、蕎麦を食べに行った若い衆の源兄ぃが戻ってきた。
「どうしなすったね、小頭」
「別に・・」
源兄ぃはちらりとお圭を横目で見て、
「ふられなすったかい」
「ふられた・・ああ、そうかもしれねえ。なんか、とてつもねえ肘鉄食ったみてえだ」
十も年上の源兄ぃは、ちよいと身を寄せて
「女はごまんといまさ。今夜にでも例のとこ、お供しやしょうか?」
例の処というのは、岡場所である。実をいうと、喜市は二年も前に若い衆らに連れられて岡場所を経験し、馴染みの年増もいる。
「今日はそんな気にならねえや。悪いが、親父に一心庵へ行くから遅くなる。もしかしたら明日も見回りにゃ行けねえかもしれねえって言っといてくれ」
へっ、と肯いた源兄ぃ、小声で、
「もう一押しなさるんでやすね」
と去って行った。ばかやろう、喜市は舌打ちした・
昼飯を食ってきた父親と店番を交代したお圭が、前掛け、襷、頭の手拭を取りながらやってきた。
「武藤先生、お団子嫌いじゃなかったよね」
「団子より酒だろうが」
「お酒かあ」
「それよりお前え、昼、食ってねえんじゃねえか?」
「あ、ほんとだ、忘れてた」
「じゃあ蕎麦でも、いやこの際だ。何でも好きなもんおごってやるぜ」
「そんなら稲荷ずし。山ほど買ってって、武藤先生と三人で食べよう」
「ほいきた。旨え稲荷ずしはこっちだな」
「もう、遠回りじゃないか」
「いいから、いいから・・」
大股の喜市を追って、お圭が小走りに去っていく。
境内の隅で、それを見送った先の源兄ぃが七色唐辛子の屋台に寄っていった。
ゆうに五・六人分はあるだろう。稲荷ずしを包んだ風呂敷包みを喜市が下げ、これは俺からの土産だと喜市が買った貧乏徳利をなぜかお圭が胸に抱えて、二人は一心庵に向かっていた。
「おっかさんの話、してもいい?」
少し遅れ気味のお圭が後ろから声をかけた。
つい黙りがちになるのを嫌ったらしい。
いいよと言うと。
「おっかさんねえ、器量よしだったんだ、色白でさ・・」
「似なかったのか、お圭は」
「血がつながってないからね」
「ふうん」
よくある話だ。
「さてお立ち合い、とある大店に玉のように可愛い女の子が生まれました・・」
「なんだ、それ」
「いいからお聞きよ。女の子のおっかさんは、お武家の家に奉公をしていたという立派なお方だったんだけど、悲しいことに乳の出が悪かった。そこで急いで乳母やを雇った。乳母だから乳は出る。乳が出るということは生んだばかりの子がいる、ご立派な奥様は乳母やと一緒にその乳母の生んだ子も屋敷に引き取ったんだ」
「なるほど」
「女の子はお嬢様、乳母やの子は女中としてだけど、仲良く一緒に育った。二人が四つの時に乳母やが病で死んでからも、乳母やの子はお嬢様の遊び相手として置いてもらえたんだそうだ」
「わかった、その乳母やの子がおっかさんだな」
「うん、でね、ご立派な奥様はお嬢様とおっかさん、二人並べて読み書き、裁縫、お作法や琴、三味線なんかまで、一緒に習わせてくれたんだって」
「へえ、そいつはすげえ」
「さて、お立ち合い」
「まだ立ち会うのかよ」
「言いから、お聞きよ。お嬢様は一人娘だ。お店のためには婿を取らなくちゃならない」
「そらそうだわな」
「で、婿を取ってさ、婿を取ったら子ができるだろ」
「そのための婿だもんな」
「ところがこの婿、とんでもない奴でさ。お嬢様がつわりで苦しんでる時に、なんと乳母やの子にちょっかい出してきやがった」
「うえっ、とんでもねえ野郎だな」
「乳母やの子は困った。婿とはいえ一応若旦那様だ。悪阻で苦しんでるお嬢様には言えないし、ご立派な奥様にも告げ口はしたくない。で、その時たまたま縁側の修理に来ていたうちのおとっつあんを見かけてね、あの大工さんのおかみさんになりたい、と申し出たんだって」
「うっぷ、なんだ、それ」
吹き出しそうになって、喜市はお圭を見返った。お圭もくすくす笑っている。
「ご立派な奥様はさすがにピンときたんだろうね。子持ちで手間大工のおとっつあんとの話を何とかまとめて、持ち家の一軒にそこそこの嫁入り道具をつけて、ささやかながら祝言の真似事までしてもらった」
「そりゃあ豪儀だ。お前ぇが・・?」
「五歳」
「じゃ、覚えてんだ」
「うっすらとね。生まれて初めて着せてもらった綺麗なおべべを汚さないようにと、そればっかりで、何食べたかも何したのかも、よく覚えてない」
「そんなもんか」
「でも、おとっつあんも馬鹿だよねえ。」
「何が・・」
「大工だよ、おとっつあん。それも鑑札のない手間取り大工だ。それが、一軒家に住んで大店勤めをしてた別嬪の嫁に、お祝いの名目で過分の持参金だ。そんな大工に誰が仕事頼むってんだよ」
「ああ、確かに」
「忠太が生まれる頃になって、慌てて今の長屋に引っ越したけど、成金大工とか、お大尽大工とか噂が消えなくて・・」
「そうだろうな」
「頭、下げまくってやっと現場に入れてもらっても、嫌がらせがひどくてね」
「うん」
「足ひっかけられたり、材木や梯子が倒れてきたり。瓦や玄能が降ってきたのも二度や三度じゃなかったって」
「ひでえな」
「うん、で、お大尽でなきゃいいんだろ、ってんで、おきまりの放蕩三昧さ」
「酒に女に・・」
「そ、中でも博打。賭場じゃすっかりいいカモにされちまってさ、気が付いたら家の中はすっからかん。その上借金がどーんと」
「六両じゃなかったのかよ」
「返したんだよ、おっかさんが。事情を知ってた奥様はもう亡くなってたけど、乳兄弟のお嬢様に恥を忍んで頭ぁ下げて、それでも足りずに朝と晩二つの仲居仕事を掛け持ちして、その間に赤ん坊のお糸や浩太の面倒も見て・・」
「自分のせいで、って思ってたのかもな」
「うん、でも返しきれなかった。倒れてからこの話、とぎれとぎれにしてくれたんだけど、泣いて謝るんだよ、あたいにさ、ごめんね、ごめんねって」
「辛えな」
「うん、でもいいおっかさんだった」
「ああ」
「おとっつあんやお圭には疫病神だったかもしれないけど、おとっつあんと一緒になれてよかった。あたいって娘ができてよかった、って言ってくれた。」
「うん」
「おっかさんね、これからは女も学問をしなくちゃいけないって、一心庵に通わせてくれたんだ」
「うん」
「おかげで、宗ちゃんや喜市っちゃんと出会えてさ、これって、すごおい、すごおいことなんだよね。頭のいい宗ちゃんと、男伊達の喜市っちゃん、すごおい二人と友達だったんだよ、って大声で自慢したいくらいさ」
そこでお圭は足を止めて空を仰いだ。涙がうっすらと滲んでいた。
「あんまりすごいから、罰があたったのかもしれないね」
思わず喜市はお圭の肩を抱いていた。が。一尺{約30センチ}近くも背が違うので、頭越しに肩に手を置いただけだった。
「そのおっかさんがさ、死ぬ間際にあたいに言ったんだよ。おとっつあんにじゃなく、あたいにだよ。忠太やお糸、浩太を頼むって。
だからあたい、あたい・・」
「もう言うな、わかったから」
ぐいと肩を引き寄せようとしたら、するりと抜けだして、お圭が手を振った。
「先生だ、武藤せんせーい」
一心庵が目の前で、武藤先生が庭で薪割りをしていた。
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