第4話     筆書処 一心庵

 そうか・・・お圭の身売り話を、武藤先生は驚きつつもさすがに冷静に受けとめた。

「どこの岡場所か、聞いているのか」

「聞いてない。できたら遠くがいい、とは言っといたけど」

それはそうだろう。近所で、知り合いに押しかけられてはたまったものではない。

「それで宗助に・・」

「うむ、ここへ呼び出すか」

「あいつ、取り乱すかもしれません。先生に立ち会ってもらえたらって」

「喜市・・お前も辛いな」

武藤先生はしわ深くなった目で狭い庭をじっと見つめた。そこに幼い喜市や宗助やお圭が遊んでいるのを見ているのかのようだった。

大家を通じて近江屋に使いを出し、明日の昼前に宗助を呼び出すことにした。

さすがに食べきれなかった稲荷ずしを包みなおした喜市が、

「残りもんで悪いが、弟や妹に持って帰ってやんな。お前えも支度なんかあるだろうし」

「うん・・」

ちらりと立ち去り難い顔をしたお圭だったが喜市が貧乏徳利を引き寄せたのを見て、腰をあげた。

「送らねえぜ」

西の空が少し色を濃くしていたが、まだ夕暮れというには早い。それにお圭の長屋はここから近いのだ。五つや六つの子が毎日通えるほどに近い。お圭は唇を噛みしめ、武藤を振り返ると、にっと笑った。

「じゃ、また明日・・」

「ああ、明日な」

昔のように武藤が応じる。喜市はそっぽをむいていた。

お圭を見送りに立って行った武藤が戻ってくると、喜市は茶碗に酒を注いでいるところだった。

「俺ね、先生。怒ってるんですよ」

「ほう、お圭にか」

武藤は庭と喜市が等分に見える位置に胡坐をかいた。

喜市はずずっと茶碗酒をすする。

「そうですよ、だって、水臭いじゃありませんか。顔合わせれば馬鹿っぱなしばっかりで、肝心のこたあ何にもしゃべらねえ。で、どんづまりに来てから言われたって、どうしようもねえじゃねえですか」

「そうだな」

残った酒を喜市が飲み干して。

「なんか、手の打ちようがあったかも知れねえのに・・」

空になった茶碗にまた酒を注ぐ。

「酒が飲める年になったんだな」

「今までは付き合い程度だったけど、今日は飲みます」

と。二杯目をあけた。

「おいおい、ヤケ酒か」

「なんでおいらがヤケ酒飲まなきゃならねえんです?」

「お前さんもお圭が好きだったんだろう?」

「冗談、あんな小便くさい牛蒡娘」

「うん、私もまだ子供だ、子供だと思うておった」

「それがいきなり女郎になる、なんてよ」

がぶ飲みである。

「おいおい、飲みすぎるなよ」

「せんせい、さっき俺、今日は飲むって言いましたよね」

「うん」

「飲むんです。明日は宗助が酔いつぶれるから、おいらが酔うのは今日しかないんです」

「そうか、そうだな。よし、わしも今日は腰を据えて付き合おう。愚痴でも何でも聞いてやるぞ、喜市」

すると喜市はいきなりぽろぽろっと涙をこぼした。

「好きっちゃあ好きだったんですよ。宗助の隣でけらけら笑ってるお圭が好きでした。宗助と並んで歩きながら、ちょいと振り返っておいらに赤んべえをしてくるお圭が好きでした。それから宗助の・・」

酒を満たした茶碗を持ったまま、喜市が鼻をすする。

「喜市、お前さん、泣き上戸だったかい?」

「悔しいんです、何もできない。何もしてやれない、悔しくて、悔しくて・・」

いつのまにか、一心庵の狭い庭の上に月がでていた。満月を端から一口かじったような月だった。


翌日、お圭が一心庵に行くと、ちょうど手習い子たちが帰っていくところだった。昼にはまだ半刻ほど早い。宗助が来るので、早めに切り上げたのだろう。

教場をのぞくと、奥の流しで武藤が手習い子たちが使う沢山の硯や筆を洗っているのが見えた。

「せんせい、お早うございます、お手伝い、します」

お圭が声をかけると、

「おうお圭か、もうすんだが、縁側で乾かすから運ぶのを手伝ってくれ」

お圭ははいと返事しながら、いつもの癖でくるくると赤い襷をかけた。

一心庵の戸口の向こうから宗助の声がしたのは、その時だった。

「お邪魔いたします、武藤先生。宗助です」

はっと息をのんで、お圭が立ちすくむ。

「おう宗助か。呼び出して悪かったな、入ってくれ」

武藤がお圭に頷いて、土間伝いに戸口に向かった。戸口の開く音と、宗助が挨拶する声を聴きながら、お圭は知らず拳を握りしめていた。

「ご無沙汰しております、武藤先生。お元気そうで安心いたしました。」

「病気でもしてると思ったかい?」

「いえ、でも急なお呼びでしたので、もしやと・・」

「そいつは悪かったなあ。おっと、ついでに使って申し訳ないが、この硯と筆、縁側まで運んでくれんか」

「お安いご用です」

短い廊下を伝って、武藤と宗助がやってきた。

「あ、お圭ちゃんも来てたのか?先生、何かお祝いごとでもあるんですか?お嫁さんをもらうとか」

「はは。そうなら良いのだがな」

「じゃあ・・」

怪訝な顔をする宗助に、お圭は思い切ったようにぐいと顎を上げた。

「宗ちゃんに話があるのはあたいだよ。武藤先生には呼び出しを頼んだだけ」

そう言って、硯と筆を縁側に持ち出し、

「あたいが拭くから、宗ちゃん、並べて」

真っ黒になった雑巾で、硯や筆を拭いて宗助に手渡すお圭。お店者らしい几帳面さで、きちんと一分の乱れもなく縁側に並べていく宗助。

武藤は用もないのに部屋の片側に積み上げられた天神机の歪みを正したりしていた。

「おう遅くなったぜ、宗助はもう来てるか」

戸口を開けるのももどかしいとばかりに、どすどすと入ってきたのは喜市である。

亀の甲羅のように背中に大きな鍋を背負い。

片手に重箱、もう一方の手に野菜の入った風呂敷包みを下げている。

「喜市っちゃん・・」

折りたたんだ手拭を枕に筆を並べ終えた宗助が膝立ちで固まった。お圭を見返って、

「あ、ああ、そういう・・」

「あのね、宗ちゃん・・」

「いやいいんだ。そういうこともあるかななんて思ってたし。何せ私は年に一回か二回しか会えないけど、喜市っちゃんは毎日でも会えるんだし・・」

どこから手を伸ばしたのか、いきなり宗助の頭を喜市がひっぱたいた。

「ばあか、そんなんじゃねえって言ってんだろうが。」

それから宗助の前にしゃがみこんで

「そんなことでお前えを呼び出したりはしねえ。そんなことだったら、近江屋の店先で、お圭はもらった、と言えばすむだろうが」

宗助はごくりと生唾を呑んだ。

「だったら・・」

喜市は不安げな宗助を立ち上がらせ、いきなり下腹に拳固を叩き込んだ。

「いたっ、喜市っちゃん、何すんだ」

「いいか、ここに力入れて、お圭の話を聞いてやれ。いいな」

そう言うと、喜市は持ってきた野菜と鍋を持って、庭の隅の井戸に向かった。

武藤も流しへ回って、まな板と包丁を持ってくる。

やがて、野菜を洗う喜市と武藤の耳に、悲鳴とも泣き声ともしれない嘆息が聞こえた。

同時にお圭が顔を出し、武藤を呼んだ。

「先生、宗ちゃんが・・」

飛んで行った武藤が、落ち着けと言っている。

「いいから横になって。お圭、水を・・」

どうやら宗助が立ち眩みを起こしたらしい。武藤が奥の小部屋に布団やかいまきを持ち出しているようだ。

喜市は黙々と野菜を洗い、鶏を捌いた。

しばらくすると、武藤が七輪を持ち出してきて、火を熾しはじめた。

どうです?と聞くと、少し落ち着いたという。

ある意味、予想通りの展開だった。


 正月の雑煮や、節句・節句の汁粉、七夕のそうめんなど、武藤は折々この七輪で子供たちを喜ばせてきた。

その七輪で、今日の昼餉は豪勢な鶏鍋である。

重箱には知り合いの小料理屋に頼んで、握り飯をつめてもらった。

支度をしている間も、襖を開け放った隣の小部屋からはぼそぼそと宗助とお圭の声がきこえている。聞こえていたが、喜市も武藤も知らん顔をしていた。

宗助には寝耳に水でも、お圭にすれば、これが三度目。聞かれることも、詰られることも三度目で、いい加減いらいらしていたのだろう。いきなり立ち上がると、お圭はこちらの二人にも聞こえるように大声を発した。

「あのねえ、あたいは死にに行くわけじゃないんだ。生きるために仕事しに行くだけなんだよ。そんな辛そうな顔、しないどくれよ」


昼飯時はとおに過ぎていた。宗助が魂の抜けたような顔で縁側に出てきた。後ろにお圭もいる。武藤はそれを見て。

「飯にするぞ」

と大声で呼びかけた。

鶏肉に小芋や牛蒡、大根、ネギ、こんにゃくに豆腐などをあわせて煮込み、味噌で味を付けた鍋だ。これにお圭の露店で売っている七色唐辛子をひとふりする。

喜市は無言で通した。宗助も黙ってたべていた。

お圭も、おいしいとか、こんなご馳走初めてだ、とか言っていたが、あまり喉を通らなかったようだった。

飯の後、武藤が取って置きの茶があると言って、自ら茶を振る舞ってくれた。

茶を飲み終えると、お圭は、さてと言って立ち上がった。

「忠太と浩太がさあ、シジミ採りにはまだはやいってのに、あたいに好物のシジミ飯を食べさせるんだって、今朝から御米蔵の下へ行ってるんだ。青っ洟垂らして帰ってくるだろうから、湯を沸かしといてやらないと」

武藤が黙って、重箱に残った握り飯を竹の皮に包んだ。

宗助が未練がましくお圭の袖を引く。

「女衒が迎えに来るのは明日なんだよね。今からお店へ戻って旦那様にお願いすれば・・」

お圭が立ち上って、宗助の前に仁王立ちし、大きなため息をついてみせた。

「あーもうかったるい。いいかい、あたいはね、その借金とか、博打とか、簡単に金を手にできるような生き方を。宗ちゃんや喜市っちゃんにしてほしくなかったんだ。人様に頭下げたり、後ろめたいことに関わってほしくなかった。あたいの自慢の二人だから、堂々とお天道様の下を歩いてほしかったんだ。それだけだよ、文句あっか、このやろー」

宗助と喜市を代わる代わる睨みつけながら、ほとんど息継ぎもない見事な啖呵だった。

お圭は、その勢いのまま戸口に向かい

「先生。ご迷惑は重々承知だけど、何かあったら先生に相談しなって、忠太やお糸に言ってあるんだ。よろしくお願いします。これまで色々、ありがとうございました」

戸口のところで、お圭は武藤に深々と頭をさげ、しばらくそのまま動かなかった。

喜市は武藤が下げていた握り飯の包みを取り上げると、宗助に突き出してお圭の方に顎をしゃくった。

受け取った宗助が、すうっと音も立てずにお圭の後を追って行った。


縁側に干しておいた硯と筆はあらかた乾いていた。喜市たちが通っていたころからある古びた浅い大きな木箱三つに並べて部屋の隅に重ねておく。

「明日も教場開けるんですか?」

喜市がきく。

「今朝も酒の匂いが残っておってなあ、子供らに嫌な顔をされてしもうた。ゆえ、明日は臨時の休みにした」

「そういえば、昔から時々酒臭かったような」

「うむ、時々、時々よ」

くすくす、くすくす。師の背丈を四寸あまりも追い越した昔の手無い子と白髪の目立ってきた師が顔を見合わせて笑う。

昨日の酒で一皮むけたな、と武藤は教え子を眺めた。

半刻ほどして宗助が戻ってきた。仏頂面だ。

「明日は何刻ごろ、家を出るって?」

喜市が問うと、宗助はじろりと見返った。

「平気な顔で、よくもそんな平気な面で聞けるもんだ」

「生まれつきこんな面なんで・・」

「ふ・・ふざけるな」

いきなり宗助が頭突きをかましてきた。

庭下駄の喜市が地面に溝を掘りながら抑え込む。宗助は殴りかかり、組み付いて、蹴り、押し倒し、二人はもつれ合い転がりまわった。

宗助は泣いていた。泣いていたが声は漏らさず、ひたすら喜市相手に突っかかっていった。

狭い庭をもつれあい、転がりまわって、やがて武藤に井戸の水をぶっかけられた。

「そこまでにしとけ。でないと・・」

組み合った二人はびしょ濡れのまま顔を見合わせて、言った。

「鬼が・・」

「出る・・」

二人はそのまま素裸になって、土と血で汚れた小袖を洗い、干してからお互い水を掛け合って、体の汚れと血を洗い落とした。

幸い、大きな傷はなくて、武藤の (酒でも塗っとけ) で、すむようだった。

酒は、時ならぬ水遊びをした三人の胃袋も温めてくれた。

冷めてしまった鍋の残りと、沢庵の薄切りが肴だった。

「お圭の声を、あのおしゃべりを、ずっと聞いていたいと思ってました」

宗助がぽつりと言う。

「声か、うん」

と武藤。

「うちにはおしゃべりってもんが、そもそもなかったんです」

「ああ、うん。おとっつあん、版木彫りだったな」

「もともと無口というか、無駄口を叩かない人なんですけど、仕事にかかるともう一心不乱で・・」

「うん」

「部屋の真ん中に枕屏風をたてるんです」

「ああ、結界だな」

「ええ、ここから入るな、声をかけるな、大きな音をたてるな」

「用がある時はどうすんだ。客とかもあるだろうが」

喜市が口をはさむ。

「私が戸口の前で遊んでるというか、見張ってて、おとっつあんの息継ぎを待つんです」

「息継ぎ?」

「彫る時は息を詰めてるんです。で、ほっと息継ぎをする。その時を見計らって、声をかけるんです」

思わず喜市はひゅっと息をついた。。

「すげえな」

「なに、慣れたらどうってことありません、というか、これが当たり前だと思ってました。何しろ・・」

おとっつあんのお仲間には、おかみさんや子供さんが寝静まった深夜、紙燭の上に笊かぶせて、その灯りが漏れないように布団やかい巻を頭からかぶって。夏場なんか、真っ裸で彫るお人もいるらしいと宗助は言う。

「すさまじいな」

「一字間違ったら、それまでの苦労が水の泡ですから、必死なんです」

「それじゃあ、会話はないわな」

「ないことはないですけど、確かにすくなかったですね。」

「そこへお圭登場か。確かに、あのおしゃべりは五月蠅いくらいだ」

「でも楽しい。おしゃべりを聞いていると、ほっとするんです。それで・・おしゃべりがなかったから、うちにはおっかさんがいなかったのかなって・・」

喜市と武藤は思わずふうっと溜息を吐いた。

ちびちびと、もう貧乏徳利二本を空にして、三本目も残りわずかだ。

「だから、私ははやくお圭と所帯を持って、小店でも、いっそ露店でもいい、二人で商売をやりたかった。お圭の売り声と私の暗算があれば、なんとかなると・・お、思って」

ぐらりと宗助の身体が揺れた。

それまできちんと膝を揃えて、チビチビ呑んでいたのが、いきなりつっかえ棒がなくなったみたいに、倒れ掛かった。

受け止めた喜市は呆れたように武藤に言った、

「こいつ、こういう酔い方なんですね」

「うむ、宗助らしい酔い方ではあるな」

隣の部屋の、昼間っから敷きっぱなしだった布団に宗助を運び、目尻にたまった涙をふいてやると、兄になったような気がした。

「お店に戻っても、仕事にならないかもしれませんね」

「そうだな、あとで使いを出して・・儂が死んだことにでもするか?」

「ちょっと喧嘩に巻き込まれて、怪我をしたことにしましょう。アザなんかはほんとについてるし、切キスや擦り傷も・・」

「まさに怪我の功名・・」

「せんせい」

徳利を逆さにして、最後の一滴をしぼりだして、武藤と喜市はもう一度盃を合わせた。


                       [お圭  その2 に続く≫

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