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死後の世界なんてない。そう思って送ってきた人生は怠惰そのものだった。後の祭り。そりゃ死後の世界があるなら生死の価値の整合性が云々と思っていたけれど、むしろこの状況なら存在して欲しくなかった。何であるんだよ、死後の世界。
「あるんですよ、それが。ひとまず案内させてもらってもいいですか? 後ろの方が……」
よく分からないが、自分が呆けていたせいで、人(魂?)の流れを止めてしまったらしい。また迷惑をかけてしまった。生きててごめんなさい。
「ですから、死んでるんですよ!」
つまり、自分は昨日、いつものように死にてえなと夢見が悪くなることを思いながらあの湿っぽい布団で寝て、夢も見ずにあっさりぽっくり死んだらしい。
大した感慨もないけれど、どうせ死ぬなら最後くらいドラマチックかつダイナミックに死にたかった気もする。いや、この状況だからそう思うだけかもしれない。元々自分にはそんな自殺をする度胸はない。
「さあさあこちらへ! 疲れた心と体、もとい魂を癒しましょう! 案内人の私について来てください。まずは腹ごしらえですよ!」
魂にも腹あるんだ。
「ないです! ちなみに声帯もありません。剥き出しの魂は伝えたいと思うだけで意思疎通ができるんですよ〜」
別にさっきから意思疎通しようとは思っていない……。
「あれれ、ひょっとして生前、しばらくまともに人と会話してませんでした? あちゃ〜、たまにいるんですよね、そのせいでそのへんバグっちゃってる方」
随分失礼な案内人である。じゃあ、その台詞はあえて意識して伝えているのかよ。一体どんな顔をしているのか見てみたいが、ここが眩しいことと、案内人の言っている内容しか分からない。
「だって、ここではもう殺されたり殴られたりする心配がないんですよ。死んでますからね。私って、実害がないことは気にしないタチなんです。へへ。ああそうそう、今のあなたには肉体、つまり目もありませんので、色形を認識したいのでしたらそう思いながら意識を集中してみてください。大体の知覚はこのやり方で認識可能です」
言われた通りに意識を集中させると、光がじわりと滲み、模様となり、それは人の形に落ち着いた。
簡素な白装束にセミロングの白い髪。光は真上の方から差しているようで、白い肌には白いまつ毛が影を作っている。死後の世界とは思えないほどイキイキとした笑顔を浮かべる失礼な案内人の顔は、生前よく目にしていた、童顔の人気女優に似ていた。
要するに、全体的に白くて、めちゃくちゃ可愛かった。
「お、目が合いましたね。さあさあ、黄泉の国ではまずお食事でもてなすことになっているんですよ〜。案内します!」
「アッ、ドモ」
「そう、会話もできましたね! 思考を垂れ流しにすることと、会話をすることは別物です。頭のフタを開けっぱなしにして口から中身をばらまくのではなく、思考や言葉の中から適切なものを『選ぶ』感覚、これがコツですよ」
ま、それに集中しすぎてもいけませんけどね、と案内人は笑う。
どうやら、視覚を再現すると同時に、会話のバグもクリアできたようだ。
こんな陽のオーラを発する美女にこれ以上思考を晒すのは勘弁被りたい。
口下手特有のどもった返事でも、思考ダダ漏れよりマシだろう。
「とにかくとにかく、まずはお食事処へご案内しますよ〜。ほら、お腹に集中してみてください。お腹、ぺこぺこでしょう?」
やたらと食事をさせたがる案内人の様子に、ピンと来た。
彼女は新たな死の国の住民を帰さないために、
「ほらほら、お腹だけじゃなく口や鼻や、脳を使う感覚を思い出してみてください〜。すべての五感に集中すると、あなたが今どれだけ空腹なのか分かるはずです!」
しぼんだ胃の中で空気がゴロゴロ動く感覚。食事を想像して唾液がじわっと滲む感覚。体が欲する食べ物を想像し、舌や鼻の奥がうずく感覚。それらに焦燥感と興奮を覚える頭の中身。
異様な、しかし苦しくはない不思議な飢餓感が体を——、いや、魂を支配する。
黄泉の国の食事とやらを頂こうじゃないか。
どのみち、生前の世界に未練はない。
白い光と白い霧、白い世界で白い案内人について歩けば、上り坂、下り坂と続いて、その先に大木の群れが成す森が見えた。
湿っぽい土の匂いと、葉と苔の青い香り。木々は一対の背の高い巨石を取り巻くように、しかし空間を保って生えている。風化して丸みを帯びた巨石には注連縄がかかっており、注連縄は歩いてきた方向から奥へと誘うように吹く風で静かに揺れていた。
「あそこに
確実に、自発的にそこに立ち入るよう誘導されている。神話やホラーのセオリーだ。だが、分かったところで帰る気は元よりない。
進んだ先には、確かに古びた釜戸が見えた。先ほどの巨石もそうだったが、それだけが妙に質量を持っているように感じられる。
案内人はいつのまにかいくつかの薪と、一升瓶二本を小さな体躯に抱えている。一方の瓶の中には生米が見えた。もう一方は酒か水だろう。腕には白い布の包みがかけられていた。
「……じゃあ、そこに座って待っていてくださいね。あ、食卓を想像して、座るイメージを持ってもらえばOKです」
食卓、という単語に、鼻の奥がツン、と痛む。
上司の怒声を浴びた後、デスクでパソコンと書類を眺めながら食べるコンビニ飯はいつだって味がしなかった。外に出すまいと飲み込んだ涙が鼻を塞ぐせいだ。
高校ではなるべく人目につかない場所で、小学中学では自分と机を繋げるクラスメイトに申し訳なく思いながら、急ぐあまりむせ返る喉を力づくで鎮めて食べ物を嚥下した。
生家での食事はときどき鼻血の味がした。
「苦労されてきたんですねえ〜」
「アッ、スイマセ……。また思考がダダ漏れになっちゃって……」
まだ、気を抜くと会話ではなく思考の吐瀉になってしまうらしい。
初対面なのにこんな過去を露出されて、さぞ不快に思っただろう。
「私は平気ですよ〜。そうだ、記憶にある食卓を思い描くのが嫌なら、架空の食卓を思い浮かべてみたらどうでしょう」
案内人の善意が痛い。
とにかく、一旦、何はともあれ、テーブルやら椅子やらを思い浮かべることに集中しよう。
「せっかくなら理想の、なんかいい感じのでいきましょう」
生前まったく縁がなかった、お洒落な食堂を思い浮かべる。モダンな内装に機能的なテーブルと椅子、温かな光を落とす照明……。
うまくいったようで、気がつけば想像通りのテーブルが目の前にあり、すでに席についていた。心なしか降り注ぐ光は温かみを帯びている。
案内人と釜戸はそのまま、目線の先にあった。
釜戸の火がパチパチと音を立てている。背を向けた案内人の捲られた袖からのぞく生白い手は生米を研いでいた。
「そうそう、こんな風に、困ったことがあったら教えてくださいね。案内人はすべての質問に答える義務がありますから。ここから出る方法以外」
全部答える義務が? それは非常にまずい。思考がダダ漏れの状態で恥ずかしいことや失礼なことを考えてしまったら最悪だ。はやく会話に意識を集中させなければ、いや、焦っていて難しい。考えるな、無理だ、別のことを考えよう、何かどうでもいいようなこと。そういえば、日本人じゃなくても死後は黄泉の国に行くのだろうか? 欧米人もここで
「欧米の方が黄泉で釜戸飯を食べたことってありますか?」
「さあ。私は見たことありませんね〜。あ、でもこう言うんじゃないですか?……『yummy』って。黄泉だけに。ぷっ」
ダメだ。共感性羞恥で死にそう。死んでるけど。でもイラッとはしない。可愛いから。そうか、彼女はこういうことを言っても場が冷えることなんてなかったんだ。可愛くてコミュ力があるってやっぱりずるい。モテたんだろうな。彼氏もたくさんいたのかなあ。なんで案内人になったんだろう。そもそも生きていた人なのか? ああっ考えちゃダメだ、とりあえず会話ぁ! 何か考え
「いや、昔は周りを引かせることもありましたよ〜。結構努力しましたね。思うに、見た目より前後の会話や言う相手、間の取り方が大事だと思うんですよね〜」
終わった。ダダ漏れだ。辛い。死にたい。死んでた。
「彼氏は一人だけでしたね。私が案内人になった理由も彼氏です。いや、厳密には違うのかな」
そんなデリケートでプライベートなことを言わせてすみません。
もう二度と思考を漏らさないよう、気を引き締める。そうだ、思考から最適な一つを選ぶ感覚を忘れるな。
だが、目の前の失礼な美女がここにいる経緯は正直気になる。ここは黙って聞くことにしよう。
「うーんと、基本的に、死者の魂は黄泉の国の住民になるように、こうして案内されます。泥棒でも性悪でも堕落人でも。あ、善人もです」
自分みたいな人間でも扱いは善人同様らしい。どこかほっとすると同時に、忘れていたはずの虚無感がやってくる。
分かりきっていたことだが、こうしてもてなされているのは、自分が特別良い行いをしたからではないのだ。
少し褪せた心持ちで案内人の話の続きを待つ。
「でも、人の命を奪うと案内人になります。客にはなれず、死後も労働をさせられるってことですね〜。残念無念」
案内人は軽やかな笑みを崩さない。
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