第9話:魔法
連れ出された先は、巨大すぎる庭園だった。
ベースボールスタジアム相当の敷地にぎっしりと木々や季節の花々が植えられている。
一方で、その場にいるのはメイド長を名乗る高齢の女性と、十歳にもみたないような小さな少女。
明らかに二人の手に負える量の仕事ではない。
「テトラ、今日やるのは背の低い植木の手入れです。水やりはいいので、端の方から中心に向かって進めていきなさい」
メイド長は呆然とする荷田に刈込バサミを渡すと、早速作業に取り掛かっていった。
立ち尽くしている訳にもいられず、荷田も慣れない手つきではみ出た枝を切り揃えていく。
「そう、その調子。上手よ、テトラ」
「……ありがとうございます」
俺は何をしているんだ?
荷田の中に大きな、根本的な疑問が湧き上がる。
カーチェイスの果てに別世界でメイドとなり、為すすべ無く労働に従事していた混乱する頭脳は、ようやく冷静さを取り戻し始めていた。
ひとまず情報収集のためにこの娘を演じるのは悪い考えではない。もし中身が違うとばれたとき、何が起こるか見当もつかないからだ。
だが、なぜ俺はこの女の言うことを聞いて草刈りを続けている?
しかし頭の中の疑念に反して、その肉体ではボックスウッドの一列目を整え終わり、足取りは次の列の植木へと向かっていた。
普段より遥かに重く感じるハサミを使って作業をしていた少女の顔には、大粒の汗が浮かんでいる。
「少し休んでいいわよ、テトラ」
反対側の植木の影からメイド長が顔を出し、荷田に心配そうな声をかける。
「よく頑張ってるのはわかるわ。それはとても良いことだけど、無理は禁物よ。倒れたりしたらいけないから。そこの木陰のベンチで休みなさい」
小さい子に言い聞かせるような口調。
言い返そうにも、事実彼女は体力の限界を感じていた。
「……はい」
力無く頷くと、ふらふらとした足取りで木陰へと歩を進める。
ぽすりとベンチに腰を落とすと、涼しさも相まって少しだけ気分が良くなった。
しばらくぼんやりと屋敷の方を見ていると、メイド長も作業に区切りを付けたようで荷田の方に向かって歩いてきていた。
彼女は荷田が休んだ後に、慣れた手付きであっという間にもうひと通り植木の手入れを終えてしまっていた。
「はい、テトラ。水よ。気をつけて飲みなさい」
メイド長がどこからか出したグラス一杯の水を両手で受け取る。
片手で持って一度に飲み干したい欲求に駆られたが、少女の身体ではそれもできない。
少しずつ傾けながら小さい口に水分を含んでいく。
喉が渇ききっていたと思っていたが、グラス半分ほどで腹の奥がちゃぷちゃぷと水で満たされたのを感じた。
「……ありがとうございます」
「いいのよ。今日はすごく頑張ったわね」
いつもは一列を刈り切ることもできないのに、と言葉を続ける。
「それに、何だか貴方、今日は機嫌が良いのかしら。いつもよりずっとよく喋るじゃない」
荷田はその言葉に、労働の汗とは違う、もっと粘度の高い心地の悪い汗が噴き出すのを感じた。
予期していた展開とはいえ、今の今まで何も言われなかったため、隠し通せているものだと勘違いしていた。
この世界に来てからの数時間ほどしかない記憶を振り返る。荷田自身、可能な限りぼろが出ないように細心の注意をして、普段よりかなり口数を減らして最小の発言しかしていなかったはずだった。
だが、それでも普段の『テトラ』という少女の寡黙さはそれを凌駕していた。
「……」
「怒っているわけじゃないわ。良いことだと思ってるのよ。……クイーナお嬢様と何か楽しいことでもあったのかしら。ほら、私たちがお嬢様の寝室に入ろうとした時、中から楽しげな声が聞こえてきたもの」
「…………はい」
正しくは楽しげな会話ではなく、危機的な状況に立たされた異邦人たちの決死の作戦会議だった。
「そう、それは本当に良いことだわ。お嬢様の言うことをよく聴いて、仲良くするのよ。気丈に振る舞っているようだけど、『あんなこと』があった後だもの。どんなに強い人であろうと傷付くのは当たり前ですもの」
「あんなこと……?」
好奇心が湧き上がり自然と言葉が出る。口に出してから、これは普段の『彼女』では無いだろうと気が付いて後悔した。
「あら、今日は本当におしゃべりね。普段からそのくらい元気がいいと、誰も貴方を『
「……」
「意地悪だったわね。歳を取ると、口が緩くなっていけないわ。忘れて頂戴」
さて、と呟くとメイド長はベンチから立ち上がった。
休んだことでかなり体力が回復した荷田も手伝おうと、ベンチから降りる。
「いいのよ、テトラ。貴方はまだ休んでいなさい。あとは水やりだけだもの、私ひとりで十分よ」
『だけ』。
野球場ほどの大きさのある庭園だ。
水やりだけと言っても、ホースもスプリンクラーも見当たらないこの環境である。もしジョウロしかないとするならば、恐らく本来の荷田が全力で作業をしたとしても、数時間はゆうにかかるだろう。
たった一人でやるという言葉に、荷田はこの女の正気を疑った。
「ぱっと終わらせてしまいましょう」
彼女は、右手と左手を絡ませるように握った。
見慣れた、しかしこの世界に来る前の荷田とは縁遠い手の形。
それはまるで祈りを捧げるような姿だった。
「『満たせ』」
そう呟くと、彼女の前の空中に小さな水の球が現れる。
メイド長は祈りの手を解くと、片手をその球の下に差し出した。
数秒の間に水球は徐々に大きさを増し、あっという間にバスケットボールほどまで拡がる。
ゆっくりと手を高い位置まで持っていき、終いには頭より高く、空に掲げるような高さまで持ち上げた。
「木陰にいないと濡れるわよ」
メイド長は目線を水球に向けたまま、少女に声をかける。
荷田は無意識のうちにベンチから数歩進み出て、その非現実的な光景のすぐそばまで来ていた。
何の動力も無く、水が中に浮く。
向こうの世界の科学をもってしても、きっと実現不可能なその事象。
それはまるで『魔法』のようだった。
「あら。そういう気分なのかしら? じゃあ、この後は洗濯とお風呂ね」
手を離れて数メートルほど上空に浮上したかと思うと水の球は破裂し、辺り一面に雨を降らせた。
**********
隅国イチリが尽力していたのは、『思い出すこと』だった。
プレイしていたゲームの内容を思い出し、世界に順応する。
自分が悪役令嬢クイーナ・ギリジアだとするならば、その身に起こる悲劇を思い出し、回避する。知るはずのない未来を知り、獲得するはずのない報酬を手にする。
この世界が『薄氷のロンド』ならば、自分の記憶が武器になる。
そんな確信が胸の中にあった。
「……どうぞ」
トリーと呼ばれたメイドが朝食を運んでくる。
対面まで何メートルもある長机へと静かに並べられたのはパンとオムレツといった一般的なメニューだった。
彼女の手元に曇りなく磨かれた銀食器が置かれ、いつでも食事ができるように準備は整っていた。
しかし、実際にそれらの食べ物が口に届くのは、もう少し先であった。
「お早う、クイン」
挨拶とともに、大柄な男性がダイニングに入ってくる。
男性の頭髪はところどころ白くなり始めている様子で、顔に刻まれた深い皺からその人物の積み重ねてきた年月を感じさせた。
一方で、歩き方や椅子に座る何気ない動作からはまったく衰えを感じられず、鍛えられた厚い胸板からは遥かに若々しい印象を受ける。
対面に座り、今の彼女と同じ赤い瞳で隅国を見据える男性。
マルド・ギリジア。
悪役令嬢クイーナの実の父親だった。
「おはようございます、……お父様」
ゲームの中でも何度か見たこの男を、隅国はよく覚えていた。
つまり、彼はアイリスと出会い、会話までもしたことのあるキャラクターだった。
ゲームの中で彼は、娘クイーナの恋敵であるアイリスに精神的に攻撃を仕掛けてくるキャラクターだった。下民であるアイリスのことを快く思わない貴族グループを率いて、政治的圧力をかけて王宮から追放しようとしていた。
ただし、よほど選択肢を間違えない限り、結果としては追放が行われるルートには陥らないような小さなイベントだ。
「うむ。……では、頂こう」
傍らに控えていた老齢の執事が彼の前に湯気の立つスープを置くと、マルドは黙々と食べ始める。
つられて隅国も坦々と口に食べ物を運んで咀嚼する。
しばらくの間、銀食器と皿が触れ合う音だけが部屋に響く。
現状把握のためにも、質問したい事柄は隅国の頭に多数浮かんでいた。
しかし、立ちはだかったのは『父親と娘の日常会話』という問題だった。
隅国は脳みそをフル回転させて手がかりを探すが、存在しないものは出てくるはずもない。
父親のいない母子家庭で育った隅国にとって、目の前に座るマルド・ギリジアという男は、クイーナの肉体を通した血筋のみのつながりとはいえ、初めての父親だった。
「……」
口の中で言葉が生まれ、発せられることなく死んでいく。
何度も何度もそんなことが繰り返され、ようやく決心がついて口を開こうとした瞬間、一陣の風が燭台の火を消し去った。
秋の早朝。日光も室内に入り込みづらい時間帯だったこともあり、部屋の中に暗闇が訪れる。
「あ……」
火を着けるために立ち上がろうとした直前、幸運にも隅国は自分が令嬢であることを思い出した。
「トリー、火を」
若いメイドは頷くと、懐からマッチ箱を取り出す。
「いや、必要ない」
トリーが燭台に近づこうとしたところで、良く通るマルドの声によって遮られる。
「『灯せ』」
発せられた言葉と共にマルドは指を鳴らす。
すると燭台の蝋燭は再び橙色の火を宿し、室内は明るく照らされた。
「っ……!」
今の今まで、隅国は自分で解説したはずのことを、この世界に魔法が存在することを忘れていた。知識としては持っていても、この世界に来たばかりの彼女にはまだ常識として浸透していなかった。
「……私がすべきでした」
「いい、いい、お前ができることは知っている。やろうと思えば屋敷を丸ごと燃やし尽くしてしまえるだろうことも知っている。こんな小さな炎を点けることに使うなどギリジア家の当主である私で十分だ」
「そ、そんなことは!」
自分の行いを反省し、焦って父親の言葉を訂正するクイーナの様子を見て、マルドは目を丸くする。
「……冗談だ、クイン」
不遜で、物怖じせず、媚びることを知らない自分の娘が、そんな風に動揺する姿を見て、男は心配そうに眉を顰める。
「大丈夫か、クイン? 今日は本当に調子が悪いようにみえる」
「あ、いえ……問題ありません……!」
「いや、調子が悪いのなら、遠慮するべきではない。『万里駆ける魔狼であれ雨天は眠る』ということわざもあるほどだ。今日は休息に努めなさい、家庭教師にも私からそう伝えておこう」
「……ありがとうございます」
自分のことを心配する父親という存在に、隅国は未だに距離感を掴めずにいた。
もし私にも父親がいたら、こんなふうだったのだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。
「……クイン、許嫁解消のことなら気にするな。お前がやったことは決して間違いではない。あんな下民の娘に入れ込むなど、王家の人間にあるまじきことだ。王太子殿もいずれ目を覚ましてくれるだろう」
怒気の籠もった声で呟く。
許嫁解消。下民の娘。
父親の夢想に意識を割かれながらも、隅国はそれらの言葉を聞き逃さなかった。
思考を切り替え、今得たヒントから記憶を掘り起こす作業を再開する。
あともうひとかけらでもピースが揃えば、『薄氷のロンド』シナリオの現在地点把握が可能になると信じて疑わない。
使い終えた銀食器が机に置かれる。
食べ終えたマルドが椅子を引いて立ち上がり、小さく咳ばらいをした。
「では、先に失礼する。最後に後味の悪い話をしてしまったな。……そうだクイン。昨日も伝えたが、私は今日から数日間外縁部の山村の様子を視察してくる。お前なら私がいなくとも問題はないとわかってはいるが、それでも何か手に負えないことがあったら、叔父を尋ねなさい」
隅国は興奮したまま頷く。
外縁部の視察。
ぱちぱちと頭の中で急速にパズルが組み上がっていくのを感じていた。
マルドは椅子を戻し、傍に控えている執事とともにダイニングの出口へと向かう。
しかし扉に手をかけた後、動きが止まった。
逡巡。
マルドが自分の娘のここまで弱っている姿を見たことは、今までになかった。
重なるように自身の不在。
クイーナは二十歳にも満たない子女だが、既に魔法でも剣技でもマルドの実力を遥かに凌駕している。不在の期間も数日ほどの予定だ。
よっぽどのことなど起こるとは思えなかったが、それでも父親として、娘にしてあげることはないだろうか、という考えが不意に頭をよぎった。
「……」
挫折を知らない娘に対してかける言葉。
迷いの中、発せられた言葉は本心だった。
「クイーナ、お前は私の宝だ。愛している」
ドアの方を向いたままそう告げると、静かに出ていった。
「……」
マルドの声が耳に届く。
隅国の頭の中でパズルは完成していた。
「そっかぁ……」
隅国はこれから起こる未来を思い出した。
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