第一章:元の世界

第1話:金

 薄暗い蛍光灯が光るタイル張りの事務所。その一室。

 ガラステーブルを挟んで置かれた皮張りのソファには、男女が向かい合って座っていた。

 男は190センチ近い長身で、首元の開いたシャツと紺色のスーツに身を包む。胸ポケットから出した細い煙草に火を灯そうとライターを擦っていた。

 対面の女は小さく、猫背の姿勢も相まって160にも満たない様に感じられる。ばさばさの黒髪をどうにかゴムでまとめ、子供向けキャラクターの描かれたよれよれのTシャツの上にジャンパーを羽織る。深いくまの刻まれた黒い瞳は行き場を無くしたようにあちこちを彷徨い、落ち着かない様子で腕をこすっていた。


 既に深夜と呼ばれる時間帯に差し掛かり、窓の外は闇に包まれている。時折強風が窓を叩きつける音だけがこの部屋のBGMだった。

「あ、あのぉ……」

 軽く咳払いをしたのち、女が声をあげる。彼女にしてみれば一時間ぶりの発声だった。水すら口には含んでいないためかその声は掠れていた。

「いつまでこうしていればいいんでしょう……?」

「……」

 男は女に対して一瞬だけ視線をやる。その後、何も聞こえなかったかのように窓の方を向いて肺に溜まった紫煙を吐き出した。

 煙を吐く工程を数度繰り返した後、まだ半分ほど残っている煙草の火を灰皿で揉み消す。

「あ、あのぅ……」

「『こう』って?」

 返答を期待していたものの、男の突然の質問に、彼女は全身の筋肉が緊張で硬直するのを感じた。男を視界に入れないようにと部屋の各所に高速で目を泳がせながら思ったままを伝える。

「え、あ、えっと……。こうやって何もせずぼーっとしてることです、かね……」

「『何もせずぼーっと』してたのか?」

 再び飛来した予想外の返答に、彼女は自分の頭に血が昇るのを感じていた。湯気が出そうなほど顔が熱くなり、体中から汗が滲み出る。

「あ、あ、はい! じゃ、なくて、いえ! い、色々、思い返して反省したりして……!」

 しどろもどろになりながらなんとか返事。

 目線を女に置いていた男は、その言葉を聞くと机を挟んだ相手にまで聞こえる音量でわざとらしく舌打ちをし、つまらなそうに先程しまったポケットから煙草の入った箱を取り出した。

「お前、名前は?」

 女は、これならば相手の望んだ回答が出せると喜び勇んで口を開いた。

「隅国、イチリ。です」

「……じゃあ隅国イチリ」

 一本だけ取り出すと再度火をつけて煙草を吸い始める。


「自分がどうしてこんなところにいるのか、わかるか?」

 男は隅国を見ない。その様子は返答に期待しているようではなかった。

 問いかけられた隅国は両手を自身の骨ばった膝の上に置き、ぽつぽつ話し始める。

「それはそのー、……色々有りすぎてどこが悪かったのかってなりますね……。あ。ここにいる主な理由としては、その、私たちが事業を拡大しすぎたというか……。縄張りを荒らしたというか……」

 男はふんと鼻を鳴らした。

 女の頭の中にはここ数週間の出来事がフラッシュバックする。


 机の上に置かれた透明で小さな袋。

 袋の横には白い粉が積まれており、スプーンで少しずつ掬っていく。

 計量器でグラムも正確に計った後、小袋に詰め封をする。

 たまに検品と称する休憩時間。その繰り返し。

「……あなた方のシマで、薬を売り捌いてしまったことなんですけど……」

「その通りだ」

 気怠そうな男の視線は自分の持つ煙草の先に向かっている。

「おかげで随分ビジネスチャンスを逃した。その分をお前たちから直接返してもらおうと思って乗り込んだのに、そこにいたのは、トカゲの尻尾のように切り捨てられた事情を知らない雑用の女だけ」

「はは……」

「シマを好き勝手荒らした上に、価値のない身代わりひとつでトンズラ。……お前ら堅気連中のこの舐めた態度を、このままにしておくわけにはいけないわけだ」

 煙草を口に運ぶ手が止まる。

「これからお前がどうなるか、わかるか?」

 女の身体がびくりと跳ね上がる。

 そのことについて考えたことないはずも無かった。それどころか、彼女はこの場所に来た時から、始終考えていたことだった。

「……痛いのは嫌だなー……な、なんて」

 煙を吐く。

「ひとまず、お前次第だ」


「失礼しまーす」

 ノックとともに20歳ほどの若い男が部屋に入ってくる。隅国にも見覚えがあった。この事務所に来た時、最初にあった青年だ。彼にこの部屋で待つように通されたのだ。青年の垢ぬけていないその見た目に安心したのも束の間。この部屋でスーツの男と対面してからは拷問のような時間だった。

荷田かださん、連絡付きましたよ。メールの場所で待ってるって話です。時間は1時間後です」

「わかった。龍馬、車の準備をしてこい」

 はーいと間延びした返事をすると、青年はあっという間に部屋を出て行ってしまった。荷田と呼ばれた男とまた部屋に二人きり。何度目かわからない冷たい沈黙が流れる。

「あのー……どこに連れていかれるんでしょうか?」

「知ってどうする」


 再び部屋に響く外部からの音。

「度々すみませーん、荷田さん、なんか昼間のタナベさんという方が来てるんですけどー」

 先ほど部屋を出ていった青年が半分だけ身体を覗かせながら、困ったような表情でスーツの男に言葉を投げかける。

「用件は?」

「今月分の金が用意できたから荷田さんと二人で話させてくれ、ですって」

 荷田は隅国の様子を一瞥すると、連れてこいと低い声で呟いた。

 青年はそれを聞くと足早に去っていく。つかつかと一定の間隔で靴が床を鳴らす音が女の緊張感を高めていく。

「お前もそこで見ていろ」

 灰皿に押し潰される煙草。

「……え?」


 困惑する隅国を置き去りにして扉を叩く音とともに、もう一人別の男が現れた。

 タナベと名乗る四十代ほどの男は、くたびれたスラックスに安物らしいウィンドブレーカーを羽織った、如何にも不幸そうな男だった。落ちくぼんだ眼は前を向く機能を失ったかのように床を這うばかりだ。

「……荷田さんその女性は?」

 隅国と男の目が合う。

 一瞬同情にも似た感情が男の目に宿ったのを感じた。

「社会科見学だ。置物だと思って気にするな」

「……ふ、ふざけないでくれ、大事な話もあるんだ……! 二人だけで頼む!」

「冗談を言ってるわけじゃない。金の支払いに来たんだろ? 場合によっては、これからこいつも経験することになるんだ」

 金、という言葉を聞くとタナベは分かりやすく動揺して、両手で脇腹辺りを押さえた。よく見るとそこだけが不自然に膨らんでいた。

「だけど――」


 鈍い音。

 荷田が手で机を叩いていた。

「……タナベさん、こっちも忙しいんだ。そちらの都合に合わせている暇はない」

 一撃で場の空気が変わった。

 タナベもついに諦めたようで、ぶつぶつと話し始める。

「わかった……」

 最後に一度だけ隅国を見た後、荷田に対して向き直った。

「……荷田さん。今日は貴方に……あ、謝って欲しいんだ」

「謝る? なぜ俺が謝る?」

 荷田はタナベを睨みつける。

 その返答を受けた彼はびくりと身体を震わせた。

「……か、荷田さん、貴方はあちこちに金を借りて首が回らなくなっていた私に、もう誰も金を貸してくれなくなっていた私に、快く金を貸してくれた……」

「そうだな」

「……最近ようやく落ち着いてきて、仕事も見つかったんだ。給料はそれほど良くないけど職場の人たちとも自然にできてたし……」

「そう」

「やっと妻も子供に会わせてくれるようになったのに……。あんな! 貴方たちがあんな強引に金の催促に来るものだから……! また……また……!」

「……」

「また妻は出ていったよ……! きっともう二度と会ってくれない! 子供にも……希美にも二度と……!」

「……わかった、わかった。あぁ、悪かった。次から気をつける。もうわかったから、取り敢えず今月分の金を支払って帰ってくれ」

 その言葉に反応し、タナベは初めて顔を上げて荷田を睨みつける。

「……金! 金! 貴方はいつも……! 貴方は金の亡者だ! ……こんなのもうごめんだ! お前なんかに渡す金があると思うのか!?」

 ついに彼は激昂し、上着を開けて服に隠し持っていた不自然な膨らみから出刃包丁を取り出した。

 タナベはそれを両手で強く握りしめると、刃先を前に向けて荷田に近づく。

「おい、そういうのを向ける相手は、選んだ方がいい」

「ああもう! 貴方の言葉なんか聞きたくない! 貴方は俺たちの気持ちも知らずに……! いつも下に見て!」

 二人の男の距離はあと数歩というところまで迫っていた。

「荷田、貴方は報いを受けるんだ!」

 男は感情に任せて刃物を振り下した。

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