天狗の棲む山(山新文学賞準入選)
タカハシU太
天狗の棲む山
草の上に横たわる青年は、まるで眠っているかのようだった。
× × ×
「天狗伝説?」
エリは気だるげに水割りを作っていた顔を隣に向けた。
カウンター席には、四十そこそこの男……といっても、こんな田舎ではまだ青年と呼ばれる客の海老原がいた。彼は町役場で働いており、このスナックに足しげく通っていた。
「うん。天狗から生まれた子供がいるんだ。興味ない?」
「そういう言い伝えがあるのって、歴史があって素敵な町ね」
エリは余裕の笑みを浮かべて、海老原へグラスを差し出した。
「実際にあったんだよ。僕が高校生の頃だから、二十年くらい前かな? ねえ、ママ?」
カウンター内でママの由紀恵がおつまみを作っていた。
「そんな噂、あったわね。道の駅の近くの神社だったかしら?」
「違う、違う。天ノ山の裏手に神社があるんだ。あ、エリさん、天ノ山っていうのは、天狗の住む山と言われていて、大岩、中岩、小岩という三つの峰があって……」
海老原がエリに説明していると、二人の男客が入ってきた。
「エリちゃん、会いに来たよ~」
「海老原、抜け駆けかよ! 卑怯者!」
みんな、若くて洗練されたエリが目当てだ。さびれた田舎町の新人ホステスに。
× × ×
エリは後方へと流れていく車窓からの景色を、助手席でぼんやりと眺めていた。運転するのは海老原だ。
空と緑が美しい。空気と水が美味しい。そしてとても静か。そんな地方の小さな町は、言い換えれば、時が止まっていた。
各地のスナックを渡り歩くエリは、地元の住人にとっては異質な存在だ。それでも皆、気になって仕方がない。特に刺激のない男たちは飢えていたといっても過言ではないだろう。
今、エリを乗せた車は、森に挟まれた県道を走っていた。県道とはいえ、車がすれ違うのも難儀である。
「まさか、本当にオーケーしてくれるとは思わなかった」
「別にデートってわけじゃないし、天狗の子供を見るだけでしょ?」
エリは視線を外に向けたままだった。海老原の内心、いや下心を無視して。
「それより、いいの? よそ者とドライブなんかして」
「僕はね、エリさんのような新しい住民と地元の人たちがうまくいくように活動しているんだ。僕は大学も就職も東京だったし、今は町役場の企画政策課担当として、両方の視点で……」
「あ……そこの脇道じゃないの?」
熱弁する海老原をさえぎって、神社の鳥居が通り過ぎていくのを目で追った。
エリはカラフルな日傘を差して、海老原と一緒に山の中腹にある神社の境内を歩いていた。天ノ山にある一番低い小岩という山だ。
そしてもう一人、神主には似つかわしくない好々爺然とした古田という年配が同行していた。
「どうですか、この土地は? お若い方だと、何もなくて退屈でしょう?」
エリはこの境内までの長く急な石段を上ってきた疲れで、返事をする気力もなかった。どこかで休みたい。
ふと周囲を見回した。誰かの視線を感じたのだ。
「ご不便なことはありませんか? 自治会には入れました?」
古田が親身になって、ひたすら話しかけてくる。やはりこの老人も海老原たちと同じだ。適当に流すしかない。
「あっ!」
突風が吹き抜けた。バランスを崩して、エリの手から日傘が離れた。
海老原が追うが、日傘はコロコロと逃げていく。そして、柵を越えて斜面を転がり落ちていった。三人とも見下ろすだけで、どうすることもできなかった。
いきなり一方から飛び出し、斜面を駆け下りていく作務衣の男の姿があった。難なく日傘を拾うと、俊敏な動きで境内へと戻ってきた。
「梶人、でかした」
カジト……と、古田に呼ばれた男は思いのほか若かった。端正な顔立ちもさることながら、透き通るような肌の白さが印象的だった。
若者は視線を合わさず、震える手でエリへと日傘を差し出した。しかし、日傘は壊れてしまっていた。
「使い物にならない……捨ててくれますか」
エリは梶人青年に突き返し、歩き出した。あの日傘は東京で買ったものだ。もう手に入れることはできない。
「あれが天狗の子ですよ」
エリと海老原は、社務所の座敷で古田からお茶をご馳走になっていた。どうやら神主の住居も兼ねているらしい。
「鼻が突き出た、もののけみたいな姿と思いましたか?」
楽しそうに語りかける古田に、海老原も愛想笑いをした。しかし、エリは期待はずれでがっかりしていた。
「かれこれ、二十年以上になりますか……天ノ山で女性が行方不明になりましてね」
古田は窓の外に目を向けて続けた。
「消防団や青年団が探し回っても見つからなかったんです。神隠しに遭ったとしか思えませんでした。それが数か月後に発見されて……」
その女性が木々の間から覚束ない足取りで現れた時、服はあちこちが破け、汚れた顔、乱れた髪、裸足のままで、目の焦点も定まっていなかったという。
「女は身ごもっていました。そして、生まれたのがあの子です」
先ほどの梶人青年のことか。
海老原が興味津々に聞いてきた。
「母親は今……?」
「死にました」
古田の即答に、エリも海老原も思わず見返した。
「発見された時、すでに精神的に不安定になっていたのでしょう。生まれた赤ん坊を見て、天狗だと叫んで殺そうとしたんです。赤ん坊は保護したものの、母親のほうは……」
この山で自ら命を絶ったという。木から垂らした素足を宙に浮かせ、ぶらんぶらんと揺らしながら。
× × ×
あれからすぐに、エリの中では天ノ山の神社へ行ったことなど忘れてしまっていた。暇をつぶしようにも何もすることがない、どこにも行く場所のない死んだような土地で、代わり映えのしない毎日を繰り返していた。
今夜も海老原は律儀に来店して、水割りを頼んでいた。エリはカウンター内で真っ赤なカクテルを飲む。ドアが開き、海老原の仲間二人がまた入ってきた。
「お客さんだよ!」
「ほら、びくびくすんな!」
ドアの外にいた人物を無理やりに連れ込んだ。
梶人だった。
相変わらずの作務衣を着て、胸にはあの日傘を抱きしめて。慣れていないのだろう。梶人はおびえきった様子だった。
「どうぞ」
エリは笑顔でカウンター席を示した。梶人はもじもじと突っ立っているので、エリがカウンターから出てきて、海老原とひとつあいだを空けて座らせた。
「何、飲む?」
梶人は小さな巾着袋を取り出し、小銭をカウンターにばらまいた。しわくちゃの千円札もあった。
「好きなもの選んで」
メニューを見せたが、梶人はエリが手にしているグラスを指差した。
「ブラッディ・メアリー? トマト、好きなの?」
梶人が何度も力強くうなずいた。由紀恵ママはボックス席で、男客二人の相手をしていた。エリが作っていると、海老原が梶人に話しかけていた。
「君のこと、ちょっと調べさせてもらったよ。あの神主さんのところで育ったんだってね」
梶人は返事をせずに、うつむいていた。
「あの人は地元の名士だし、君は運がよかったよ」
「はい、お待たせ」
エリがカクテルを梶人の前に置いた。喉が渇いていたのだろうか。梶人はすぐさまグイっと飲むが、むせて吹き出してしまった。海老原がびっくりして飛び退き、梶人は混乱状態に陥った。
「いいの、いいの。気にしないで」
エリがふきんでカウンターを拭きながら笑いかけると、梶人は安心したかのように、はにかんだ。
× × ×
その日、エリはまたあの神社の社務所にいた。今日は海老原はいない。
やはり、あの石段を上るのはしんどかったので、こうして出されたお茶を美味しくいただいていた。向かいの古田が紙包みを差し出してきた。
「これ、どうぞお持ち帰りください。牡丹肉です」
「ボタン?」
イノシシの肉だという。
「自治会に入れてもらえるよう、お口添えをしていただいたのに、こんなことまで……」
「なに、今後もこうやって、エリさんにお越しくだされば」
エリはふと気になって、廊下に接する戸に視線を向けた。同時に、古田が室外に向かって怒鳴った。
「梶人! あっちに行ってろ!」
物音がして、遠ざかっていく気配がした。梶人が盗み聞きでもしていたのだろう。
エリもそろそろ帰ることにした。
「まだいいじゃないですか。ご自宅まで車でお送りしますから」
「いえ、そんなお気遣いは……」
立ち上がろうとしたが、足に力が入らなくなり、エリはよろめいた。目がとろんとなり、頭に手をやる。
古田が怪しげにほほ笑んでいた。
「まさか……」
エリは卓の上の湯呑み茶碗を見た。何かを盛られたのか。その瞬間、崩れ落ちると、弾みで茶碗がひっくり返った。
そこでエリの意識は途絶えた。
目が覚めると、そこは土蔵のような場所にいた。畳敷きの上で体を起こすと、神具や古い家財道具に囲まれていた。
「もう少し寝顔を見ていたかったのだがな」
エリがハッと見返すと、蔵の出入口は堅牢な木組みの格子でさえぎられていた。そして、格子の向こうの土間に古田がゆるりと椅子に腰をかけて眺めていた。その表情は別人のように冷たい。
エリは格子戸の出入口に駆け寄ったが、錠が掛けられていて、ビクともしなかった。
「何の真似? 開けて!」
「お前は天狗にさらわれたのだ」
エリは困惑した。何を言っているのだろう。
「もう戻ることはかなわない。死ぬまでここにいてもらう」
そう、古田はこうやって女性をさらってきたのだった。昔からずっと。
「もしかして、彼の母親も……」
「あの時は失敗して逃げられた。さいわい、おかしくなっていたからよかったが」
「こんなことして、無事ですむと思うの? 私がいなくなったら、大騒ぎよ」
「移住者のことなんか、誰も気にとめない。皆、目ざわりでうとましく思っている。特にお前のような素性の分からない女など」
やはりそうなのだと、エリは改めて思った。流れ者はどこへ行っても奇異の目で見られる宿命なのだ。
「梶人、しっかり見張っていろ」
庭先にいた梶人が戸口から入ってきた。目を伏せ、エリを見ようともしない。まるで人形のようだ。
「こいつは私の言うことに忠実だ。まあ、心配することはない。三食昼寝つきで仕事もしなくていいと思えば、気楽な立場だぞ。だけど、歯向かうようなら、牡丹肉になる運命だ」
梶人が食事を運んできて、格子の隙間から差し入れた。しかし、エリは奥の壁際に寄りかかったまま動かなかった。
古田は母屋に在宅中なのだろう。あれから姿を見せない。
「トマトが食べたい……」
そう訴えても、梶人は何も反応せず、そのまま出ていってしまった。
エリは意地になって食事に手を付けなかった。縮こまるように横になった。
「……?」
コツコツと叩く音に、エリは気づいた。格子の向こうに、梶人が戻ってきていた。格子の隙間から差し入れられたのは、丸ごとのトマト。
エリはすぐに飛びついて、梶人の手に握られたままのトマトにむしゃぶりついた。
「ほら、あなたも食べて」
エリに手で押し返されて、梶人は食べかけのトマトをかじった。エリは彼の手を握りしめて、笑顔を向けた。
「もうひとつ、お願いがあるの」
梶人は言われるがままに格子戸の錠を外し、中からエリを出してあげた。
「それ……」
梶人の手には、あの壊れた日傘があった。
二人は手をつないだまま、外へ出ようとした。だが、戸口を塞ぐように、古田が仁王立ちしていた。
「その女をすぐに戻せ!」
じっと見返す梶人の姿に、古田はいやらしく笑みを浮かべた。
「ほう、その女がほしいのか? だったら、お前にも分けてやるぞ」
歩み寄ろうとすると、梶人が立ちはだかり、身を挺して古田の胴に食らいついた。
「育ててやったのに、逆らうとは!」
梶人が体ごと思いっきり押し進み、古田を壁に激突させた。うめき声が上がる。古田の胸に日傘の先端が深く突き刺さっていた。
崩れ落ちた古田は虚空を見つめたまま動かなくなった。梶人は急いで傘を引っこ抜いたが、血が噴き出すばかりだった。どんなに必死に揺すっても、もはや古田が目を覚ますことは永遠にない。
エリは梶人が号泣している隙に逃げ出した。夢中で走り、石段を駆け下り、どうにか県道へ出ると、通りがかりの車に乗せてもらった。
走り出した瞬間、エリは気づいた。木の陰から梶人がじっと見つめているのが車窓から見えた。
× × ×
エリは開店前のボックス席で、ぐったりしていた。海老原が心配そうに向かいの席におり、由紀恵ママが温かいお茶を持ってきてくれた。しかし、湯呑み茶碗を見るなり、エリはうんざりして手を引っ込めた。
「こんな町、もういや……」
「たまたま、あの神主が問題だったんだ。とにかく落ち着いて」
海老原が説得していると、外からいつもの男客二人が入ってきた。手には捕り物道具の刺股を持っていた。ここはいつの時代なのかと、エリはあきれた。
「神主の遺体が見つかった」
「今、警察、消防団、青年団が梶人の行方を追っている。海老原、俺たちも行くぞ」
海老原はエリのことが気になったが、仕方なく男たちと一緒に出ていった。
「ママ、今日までの給料、清算してくれる?」
とっとと、こんな土地から去ろうと決心した。
その時、勢いよくドアが開いた。荒い息の梶人だった。やはりあの日傘を大事に抱いていたが、その先端は赤黒く染まっていた。
「ちょっと、あんた!」
由紀恵ママが声をかけるのも無視して、梶人はエリのいるボックス席へ歩み寄り、手を差し伸べてきた。
エリは無視して、カウンターの中へ行こうとした。とっさに梶人が腕をつかんできた。エリはその手を振り払う。
「バケモノ!」
梶人の表情が豹変した。
「消えなよ、バケモノ!」
梶人の手がエリの喉元をつかんだ。彼の顔は涙でくしゃくしゃになっていた。エリはもがいて逃れようとするが、梶人は背後から腕を喉に絡めて締めあげた。
「何してるの!」
由紀恵ママが割って入ろうとしたけれども、梶人に弾き飛ばされ、尻もちをついた。
梶人の腕に力が入る。エリの両足が宙に浮く。声も出ない。目を大きく引ん剥くだけ。由紀恵ママが恐怖で腰を抜かして見返しているのが、エリが最後に見た光景だった。
× × ×
エリが連れ去られたと、由紀恵ママの知らせで、海老原たちは山の中を捜索した。夜が明け、天ノ山の神社裏の崖下で、飛び降りたと思われる梶人の亡骸が発見された。
草の上に横たわる青年は、まるで眠っているかのようだった。その表情には、かすかにほほ笑みが浮かんでいたともいう。
しかし、エリの姿はどこを探しても見当たらなかった……。
(了)
天狗の棲む山(山新文学賞準入選) タカハシU太 @toiletman10
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