第2話 満たされぬ欲望

 朝方になり、ようやく満足したのか、雪守は安らかな寝顔を浮かべている。

 相変わらず満足するまで時間がかかるやつだ。

 裸の雪守に、風邪をひかないよう布団を掛けてやった。



「愛欲、か。厄介なもん抱えるてるな、こいつも」



 愛欲というのは、宮部さんから聞いたものだ。

 雪守の家族は年中忙しく、雪守はまともに愛情を注がれずに育てられたらしい。

 勿論、宮部さんたちが家族のように接していても、あくまで主人と従者。それ以上にはなりようがない。

 そうして育てられた十六年。

 雪守の中に、『愛したい欲』と『愛されたい欲』が芽生えたらしい。

 それを総称して、【愛欲】。

 その愛欲を満たすため、半年前に白羽の矢が立ったのが、俺だ。

 なんでも体の相性を遺伝子レベルで隅々まで検査し、俺が最適だという結論になったらしい。

 このことを知っているのは俺、雪守、宮部さん。そして屋敷の極一部の腹心のみ。

 はっきりいって、体の相性はいいと思う。経験人数一人だからなんとも言えないけど。



「はぁ……でも、複雑だよな……」



 役得とはいえ、肉体的快楽を使って愛を実感する。

 それでいいのか、雪守は……?

 頬にかかった髪を直して頭を撫でると、赤ん坊のように擦り寄ってきた。

 ある時はみんなに笑顔を振りまく女神。

 ある時は俺だけに見せる獣のような雌。

 ある時は可愛らしい天使のような寝顔。

 どれも雪守で、どれも愛らしく……だからこそ、このままじゃいけないとわかっている。

 でも今の俺には、この子の欲を満たす方法がわからない。



「よいではないですか。欲望に身を任せられるのも若いうちだけですよ」

「それもそうか。……ん?」



 あれ、今俺誰に返事した?

 声のした方をゆっくりと振り向く。

 ベッド脇に立っている黒い影──宮部さんだった。



「キャーーーーーッ!?」

「おや、可愛い悲鳴ですね」

「喧しい!」



 ちょっ、こっち全裸! 全裸ぁ!

 急いで布団に潜り込むと、宮部さんは口に手を当てて上品に笑った。



「あらあら。毎週お嬢様とハッスルしてますのに、生娘のような反応をするのですね」

「ゆ、雪守とはもう結構してるから慣れてるんですよっ。というかいつ入ってきたんですかっ」

「愛欲、か。の所から」

「やだ恥ずかしい」



 ちょっと自分でもクサイかなと思ったセリフを聞かれてるとは。

 バツが悪くなって視線を逸らすと、雪守の寝顔が視界に入った。

 てか、こんなに騒いでるのに雪守の奴全く起きる気配がないな。この一週間、相当疲れてたんだろう。

 雪守はストレスレベルによって、行為後の熟睡度合いが違う。今週はかなりストレスがかかってたみたいだ。



「祈織様。お食事の準備が出来ていますが、いかがしますか?」

「……いただきます」

「かしこまりました」



 宮部さんがワゴンカートの蓋を開けると、焼きたてのパンとコンソメスープの香りが鼻腔をくすぐった。

 そういや、昨日の晩も何も食べてない。いつもは食べてからやることやってたが……異様に腹が減ったな。

 ベッド脇に置いてあったガウンを着て起き上がると、宮部さんが入れてくれたコーヒーを渡してきた。



「先程の話の続きですが」

「さっきの?」

「複雑と仰ってたではないですか」

「ああ、あれですか」



 宮部さんは俺の思考を読んでるみたいに肯定してくれたけど……本当にこのままでいいのか?



「いいと思いますよ。お嬢様も今の関係に満足しているようですから」

「そう……ですかね……?」

「少なくとも、半年前よりは格段に」



 半年、クリスマス。

 あの時のことはよく覚えている。

 雪守雫の中に眠っている欲の話をされたあの時……雪守の心は、泣いていた。

 表面上は申し訳なさそうな笑顔を見せていた。けど……目の奥に見えた悲しみだけは、隠しきれていない。

 確かにあの時に比べたら、雪守の心の隙間は埋まっているだろう。

 でもそれも一時的なもの。週に一回の欲望の解放と、欲情の発散が無ければ、雪守の心は擦り切れ、壊れる。



「……俺は、雪守はこのままじゃいけないと思ってます」

「そうですか」

「いや軽いな」

「私はお嬢様の従者。お嬢様が変わりたいと思えば肯定し、このままでいいと言うのであれば肯定する。それだけですから」



 そんなもんかね。

 気持ちよさそうな寝息を立てる雪守を横目に、俺はトーストへとかじりついた。



   ◆



 いつも通りシャワーを借り、雪守家の車で自宅近くの裏路地まで送られた。流石に家まで送られると、近所の迷惑になるし。



「それでは祈織様。お給金はいつも通り、口座に振り込んでおきますので」

「お願いします」

「それでは、失礼致します」



 宮部さんを乗せた車が走り去るのを見送り、俺はようやく息を吐き出した。

 半年間、毎週のようにある送迎とはいえ、高級車に乗るのは精神的に来るな。

 とりあえず帰って着替えよう。

 鞄を背負い直し、裏路地を出て住宅地を歩く。

 歩くこと数分。入り組んだ場所にある、建物の前で立ち止まった。

 寂れたアパートだ。お世辞にも綺麗とは言えない。雪守家の屋敷とは比べ物にならないものだ。

 八つある部屋のうち、埋まっているのは二つだけ。

 俺が借りている部屋と、節約好きのOLさんの部屋だ。

 ワンルーム月々三万円。俺は学生だから、更に一割引してもらっている。

 鍵を開けて中に入ると、静かな部屋が俺を出迎えた。



「……ただいま」



 誰もいない部屋に、俺の呟きが溶けて消える。

 もう慣れたもんだが、週に一回のこの瞬間は嫌いだ。寂しさによって、雪守の体の熱や声を思い出してしまう。



「クソッ」



 最低だ、俺。

 雪守をどうにかしてやりたいと思いながら、俺の寂しさを雪守で補ってる……はは。死ねよ、俺。

 自己嫌悪と罪悪感で押し潰されそうになりながら、制服から私服に着替えて布団に横になる。

 冷たく、硬い布団。

 これが現実。これが、リアル。

 孤独を噛み締めていると、不意にスマホが鳴った。このタイミングだと、振り込みの通知だろう。

 スマホに入れている口座アプリを開き、明細を確認する。


【雪守家:100,000円】


 月収四十万、か。破格といえば、破格のバイトだよな……。

 これだけの金があれば、正直このボロアパートじゃなくてもいい。もっと立地が良くて、もっといいアパート……マンションにだって住める。

 だけどこの金は、必要最低限しか使わないと決めている。家賃含めて月に五万円しか使わないこともざらだ。



「こんな金、使えるかよ……くそったれ」



 俺は布団を抱きしめるようにしてかき集め、現実から逃げるように眠りについた。

 深く、深く、深く……。



   ◆雫side◆



「お嬢様、このままでよろしいのですか?」



 初瀬くんを送っていった玲奈さんが帰ってくると、突然そんなことを言い出しました。

 ピアノのレッスンの準備をしている手が止まり、横目で玲奈さんを見ます。



「……なんのことですか?」

「起きていましたよね。祈織様がお嬢様のお話をしている時」



 チッ、バレてましたか。

 玲奈さんは相変わらず目敏いですね。

 私は椅子の上で三角座りをし、頬を膨らませました。



「わかってますよ、こんなの不純だって。でも……」

「最初は本当に欲情の発散のためだった。しかし体を重ねる毎に意識してしまい、そして……」

「みなまで言わないでください」



 うぅ、顔が熱い。

 そりゃそうですよ。DNAレベルで相性のいい相手と毎週ですよ? こんなの意識しない方がどうかしてます。

 ええ、ええ好きです。好きですが何か?

 でもこんな不純な関係で始まった恋、初瀬くんだって嫌でしょう。

 ならこの現状が、私と初瀬くんを繋ぐ唯一のもの。

 半年というのは短いようで長い。

 この関係を進めるのも、退くのも……怖い。



「もし祈織様とお付き合いしたり、ご結婚を望まれるのであれば、欲望のコントロールをご検討した方がよろしいかと」

「……そう、ですね……そうかもしれません」



 この欲望の爆発は本当に嫌になる。

 自分で自分をコントロール出来ず、本能に身を委ねるだけ。

 そんな私が嫌いだ。

 でも、これを変えなきゃいけないのはわかってる。



「……私、頑張ります」

「その意気です」

「明日から」

「…………」



 そんなゴミを見るような目で見ないで!

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