11
算数のクラスが終わるまであと10秒。時計の針を見たら、そうだった。でも少しだけズレている。期待に裏切られながら40秒を過ぎてからチャイムが響いた。
「はーい、では終わります。宿題のプリントを忘れないでね」
軽やかな小林先生/このクラスの担任/38歳。
起立、礼、「ありがとうございました」。いつものルーティーン
45分のストレスから開放されて、あちこちでがやがやと話し声が起こる。その隅で、親友のひーちゃんが一目散に教室から出ていった。いつもなら自分のところに来てくれるのに。
モモはその後を追うために、ふざけあってる男子たちを押しのけて進んだ。ここ2日ほどずっとこんな感じだった。言葉を交わしたのは朝の挨拶くらいだけ。なんか変だ。
「あら、どこいくの、モモさん」
教室の後ろ側の出入り口、そのすぐ外にきらきらと目立つ、目鼻の整った女子がいた。
「あなたには関係ないでしょ!」
ややきつい口調をエリに投げる。そのとなりにはいつもの腰巾着がいた。名前は知らないが、エリと比べてかなり見劣りのするルックスの同級生だった。
「あらまあ。ひどい言葉。お友達がいなくて寂しそうだから声をかけてあげたのに。ボタンちゃんも、あなたを心配してるのよ」
そうか、その腰巾着はボタンというのか。ふたりしてクスクス笑う。
確信/怒りと憤り。この女王様はひーちゃんをいじめたに違いない。
「あんたたち、何したの!」
「何って、何も。私はただ、『モモさん、最近冷たいよね。悲しいわ』って言っただけなの」
「それに、目つきもなんか怖いし」
調子に乗った腰巾着も余計なことを付け加えた。
「うるさい、ブス!」
誰になんと言われようと関係ない。ニシ兄ぃは、かわいいと言ってくれたから。
「でもきっと、モモさんの友達も悪い人ってみんな思っちゃったかもね」
ボタンはニチャニチャと薄気味悪い笑みを浮かべる。
熱い。何かがこみ上げてくる。ひどく残酷な方法で、めちゃめちゃにしたい。そうすればどれだけ心が晴れるか。武器もないし、自分より背の高いこの女に腕力もうはずがない。でも魔導なら。
ふわりと暖かさが身を包んだ。マナが迸る。心のイメージを作れるのが魔導。
しかし脳裏に浮かんだのはニシ兄ぃだった。その優しい笑顔が語りかけてくる。『魔導は人を救うためにあるんだ。己の欲望に負けちゃだめだ』。
熱が反転して急に寒気を覚えた。
「いいよ」
唇がわなわなと震える。喉も棘が刺さったみたいに動いてくれない。
「ふーん、何が」
お高く止まった女がした。
「だから、あんたたちが行きたいって行ってたおばけ退治に付き合ってやるって言ってるの」
「あらそう。行ってくれるのね。てっきり怖いから嫌がっていると思ってたの。じゃあ、今日の深夜2時に、水宮の交差点で会いましょ」
「え、今日? 先生が、危ない事件が起きているから早く帰って家から出ないように、って言ってたじゃん」
「殺されてるのはオジサンばかりでしょ? 小学生は大丈夫よ。もしかして、怖いの?」
「怖いわけない!」
「ではモモさん、約束通り、会いましょうね」
エリが取り巻きを連れ添ってクスクスと笑いながら自分の教室へ戻っていった。
次のクラスを知らせるチャイム。目元を赤く腫らしたひーちゃんが教室へ入ろうとしていた。一瞬だけ、目が合った気がしたがそのまま過ぎ去ってしまった。
私のせいで。こんなこと誰にも相談できない。私だけの責任。だから私だけで解決しなくちゃいけない。
1日の最後のホームルームでは、やはり担任の小林先生からクドクドと、事件やら安全やらについて聞かされた。同級生たちは休校にならないことに落胆し、短縮授業で早く帰宅できることに歓喜していた。
一目散に家へ帰った。夜、家を抜け出す準備をしなくちゃいけない。持ち物は何が必要だろう。懐中電灯は、魔導で光を作るのでいらない。飲み物は、硬貨を何枚か持っていけば自販機で買える。傘は、必要だ。今日は雨が降りそうな気配がする。たぶん使わないと思うけど、ケータイも持っていく。
家の引き戸を掴む。キーキーと錆びた戸のレールがきしんで、はめ込まれたガラスがガタガタと揺れた。
眼前にあったのは、果てしなく大きい巨躯。そして引き伸ばされたハイビスカスの柄。
「う、うわぁ!」
思わず尻もちを着いてしまった。ランドセルが重しになって起き上がれない。
玄関にギュウギュウに体が詰まっている。その巨体がのっそりと前かがみでこちらを覗いている。
「小さき童、モモであったか」
「カグツチおじさん! どうして、なんというか、詰まってるの?」
「ふむ、ニシから童たちを守るように言いつかっている」
カグツチは野球グローブのような手を貸して、モモを立たせた。
「だから詰まってたの?」
「ニシのところから今、帰ってきたところだったのだ」
モモは目をかせた。
「歩いて帰ってきたの、もしかして?」
「たまにヒトのように振る舞うのも楽しいものだ」
カグツチは窮屈そうに玄関をくぐると、器用に靴を脱ぎ、そろえて居間へ上がった。ヒトのように振る舞う、という意味がよくわからなかったが、カグツチはソファに腰掛け、テレビをつけて、夕方の料理番組を見始めたので、合点が行った。
ランドセルを自室に置いて居間に戻る。冷蔵庫に入ってるコーラを飲むため。夜のことを考えると不安と期待で落ち着かない。とりあえず今は普段どおりにしたい。
コップに手を伸ばしたところで、カグツチが目に入った。ニシ兄ぃが言うには、カグツチは人でも神でもない、こーじげんの存在らしい。こーじげんはよく知らない。きっと魔導の奥義か何かなのだろう。すごい。
とはいえ、「ちょっと変だが人と同じように接したらいい」ということは分かってるし、他のきょうだいたちも普通のおじさんと思っている。
キッチンの調理台に、開封済みで半分になっているコーラとコップを2つ並べた。その横に手を付くと、短く息を吐いて意識を集中させた。ポケットから2枚の紙を並べて置いた。
「式神! お願い」
すると、紙人形がひとりでに立ち上がった。それぞれが意識を持っているかのように、空中へ浮かび上がった。顔にあたる部分にそれぞれ「A」と「B」とマジックペンで書いてある。Aの式神がコーラのボトルを持ち上げ、Bの式神ががコップを持って傾けた。
シュワーと爽やかな音と、発泡の水滴が手に降りかかる。
1つ目が完了。Bの式神が次のコップを持ち上げる。
「ホウ! おもしろい!」
「ヒャゥっ!」
集中していたせいでカグツチの接近に気づかなかった。カウターテーブルの上の壁のせいで、顔が半分隠れていて見えない。
「マナの流れを感じたからな」
ヌッと顔出しながら言った。その高すぎる位置にある顔を見るために首をめいっぱい後ろに傾けなくてはいけない。
「はい、どうぞ。コーラ、飲むでしょ?」
Aの式神が空中を移動して、カグツチにコップを渡す。その体躯と比べて、コップがまるでお猪口みたいだ。
モモがコーラを飲むと、カグツチもそれに倣った。カグツチの盛大なげっぷが響く。
「もー、お行儀悪いよ、おじさん」
「ふむ、それは失敬。して、どうすればよいのだ」
「ん、それは、静かにするんだよ」
炭酸のガスをどう処理するか、そんなのわからない。出そうになったら静かに、なるべく頑張る。そうとしか言えない。
モモの感情に合わせて、その周囲で式神が上下左右に浮遊する。
「ところで、赤いパッチンの童」
「もう、モモだって。名前覚えてよ」
無意識に赤いパッチンを撫でる。左のおでこで2つ、髪を留めているそれはニシ兄ぃがかわいいと言ってくれたトレードマークなのだ。
「モモ、今日、初めて見たがおもしろい魔導だ。昔の魔導士もそのように擬似人格を使役していた」
「ぎじ……? ん、よくわかんないけど。そう、これがあたしの魔導。こっちががアニラ」
モモは顔にAと書いてある式神を右手に載せた。
「そしてこっちがバサラ」
Bと書いてある式神が左手に登ってきた。2枚のアニラとバサラは、カグツチに挨拶するようにお辞儀した。
「かわいいでしょ」
「おもしろい」
「もーそればっかじゃん。もっと褒めることないの。私、普通の人みたいに魔導が全然扱えなくて。魔導へのニンシキブソク?とかチョージガとのタイワとか。よくわかんないけど。で、ニシ兄ぃがね、『他の人に魔導使わせるイメージで』ってアドバイスしてくれて。だから紙で人形を作って、式神が魔導を使うなら、できるかなって思ったの」
「モモも、優秀な魔導士になるだろう」
「だって、教えてくれる先生が優秀なんだもん」
「ほう、ニシのことか」
あの時、潰瘍で迷子になった時、ニシ兄ぃが助けてくれた。ずっと5年間一緒に暮らしている。もう、あの時のことを思い出して泣いたりなんてしない。この力のおかげで潰瘍から生きて出られた。だから魔導をとことん極めてみせる。
「おもしろい。それを愛というのだな」
「へ?」
思いがけない言葉に、間抜けな返事をしてしまった。岩壁のような大男がニコリと頭上で笑っている。
「違ったか? 我が以前に学んだヒトの愛というものは、今まさにモモの童が抱いているそれこそまさに、愛にほかならないだろう。金八先生が言っていた……と、噂をすれば」
バイクのエンジン音が家の前まで来て、止まった。ガラガラとガラスを揺らしで玄関の戸が開く。
「あっ、ニシ兄ぃ、おかえり。早かったね」
「ただいま。といってもすぐまた出るんだけどね。今日は夜から仕事だ」
「えー今日も?」
「こればっかりはしょうがないよ。いつ仕事になるかわからないからね。時間が空いたから帰ってきたんだ。ほら、洗濯とか夕飯とか作らなきゃいけないだろ?」
ニシ兄ぃは、スーパーの袋を掲げてみせた。夕飯の材料がぎっしり入っていて、長ネギの頭が飛び出している。
「大丈夫、そーゆーのは私がやっちゃうから。アニラ! お願い」
Aの式神がふわりと舞い上がると、部屋の方々に落ちているシャツ/靴下/タオルを集めて回る。短い紙の手足では掴むことができないが、魔導でひとまとめに器用に積み上げて抱えあげると、脱衣所の洗濯機へ向かった。
「料理も、できるから。バサラ! お願い」
Bの式神が鋭角的に空を飛んで、ニシ兄ぃの持つスーパーの袋を代わりに持った。
「魔導か。よく使えてるじゃないか。すごいぞ」
「ヘヘヘ。時々練習してるんだ」
「部屋から流れてくるマナは、そのせいだったか」
ニシ兄ぃはヘルメットを玄関脇の棚に置くと、常磐の刺繍が入っているジャケットを脱いでダイニングの椅子に掛けた。
「覗いてたの?」
「違う、使ったら分かるんだ。でも──」
ずいっとニシ兄ぃが顔を近づける。どうしてだろう、ドキドキする。普段はドキドキしないのに。カグツチおじさんのことばが反響して聞こえる。愛。
「──マナの流れがまだ、多いか。少し絞ったほうがいい」
「う、うん、わかったから」
嬉しい/恥ずかしいので自分でニシ兄ぃから離れた。
「家の仕事、本当に任せて大丈夫なのか」
「うん、全部やっちゃうんだから!」
嬉しい/ニシ兄ぃは自分を信じてくれる。最近ニシ兄ぃはサナにつきっきりだったけれど、ちょっとは見てくれるようになったかな。
「ちょっと寝てくる。8時くらいにまた常磐の仕事だから」
「起こしに行こうか」
「ハハ、自分で起きれるよ。ハナたちの面倒も、よろしくな」
お姉さん役/お母さん役は任せてほしい。完璧に、ニシ兄ぃのためにこなしてみせる。でも今日の夜、こっそり家を抜け出ることを考えると、胃に重いものが落ちる気がした。
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