第35話
「お疲れ様でした。本当にありがとうございました」
翌日の朝九時、勤務を終えた雅尚は、小堤に頭を下げて、防災センターを後にした。
雅尚は、同じく勤務を終えた中西の背中に「お疲れ様でした」と声をかけたが返事は無く、どんどんとその背中は遠ざかって行った。
「まあ、いつものことだからな」
雅尚は呟くと、自分も歩き出した。
結局昨日から今日にかけての勤務は、ほとんど業務の指導も実践も無く、本来四時間の仮眠時間も、きっちり七時間とるよう小堤から指示された。
「これで給料をもらうわけにはいかない」と雅尚は何度も断ったのだが、小堤も「研修中だけだから」「実戦では勘弁しないからな」と、笑いながらも頑として譲らなかった。
「臭いけどいい人だな」
雅尚がそう呟きながら、国松総合病院の敷地を一歩出ると、そこに私服姿の西沙織が佇んでいた。
西沙織は、出勤時と同じく清楚な印象の服装だったが、いつもは束ねている髪の毛を真っ直ぐ下ろし、少しだけ濃い化粧を施しており、幾分大人びて見えた。
「あれ、どうしたんです?こんな時間に。お休みですか」
雅尚が足を止めて問いかけると、西沙織は一歩前へと進んで微笑んだ。
「今日は土曜日ですよ。そもそも病院が休みです。そろそろ鈴木さんの勤務が終わるかな、と思いまして。逢いに来ました」
「え?昨日お会いしたばかりじゃないですか。職場だって同じなわけだし、わざわざお休みの日に――ああ、食事の件ですか?」
「いえ、それもそうなんですが、それよりも――あの、昨日奥様とお別れしたと伺いましたので――その、まだ気が早いとは思いますが、何というか、お話がありまして……」
頬を赤らめて、もじもじする西沙織を、純は少し離れた街路樹の陰から覗き見ていた。
「出た、必殺の恥じらいもじもじ大作戦」
純は純で雅尚を迎えに来たのだが、病院の正門の横に佇んでいる西沙織を発見し、慌てて少し離れた街路樹の陰に隠れたところ、ほどなくして雅尚が現れ、出るに出られずいつものように監視を始めた、といったわけである。
「畜生、声が聞こえない」
およそ女の子らしくない暴言を吐いて、純はちっと舌打ちした。
初めて制服姿以外で雅尚と会う為お気に入りのジーンズをはいてきた純がそのまま遠巻きに監視を続けていると、西沙織が何かを言った後、深々と頭を下げているのが見えた。
(あーあ、告白とかしちゃったんじゃないの?ああ、先生が何か言ってる。長いな。先生にもしその気があったら、先生はとっくに相手に伝えてる。きっと、言わなくてもいいことまで言って断ってるんだろうな。ほらごらん、西さん泣き出しちゃったじゃん。またこんなところ、あの中西、ていう人に見られたら、何をされるかわかったもんじゃないよ――あれ?あいつ、当人じゃない?本当に現れたよ。あの顔、めっちゃ怒ってんじゃん。ん?何であの人、本当にいるの?何か刃物みたいなの、持ってるし。刃物――)
「あぶない!」
純が叫ぶのと、雅尚の背後から中西が体ごとぶつけるように突進してきたのは、ほぼ同時だった。
時がスローモーションのように流れる。純が街路樹の陰から慌てて飛び出すが、どう考えても間に合わない。
(いつもより足が動かない気がする。もどかしくて、自分の足が自分でないみたいだ。ていうか間に合ったからって、どうなるんだ。自分に何ができるのか。西さんが叫んでる。あ、先生がびっくりした顔してる。西さんの悲鳴に驚いたのか、それとも背後からぶつかられたことに驚いたのかしら。そんなことどうでもいいし。ああ、先生が倒れちゃった――)
「先生!」
純は自分が叫ぶのと同時に、時が動き出したように感じた。
中西が恐ろしく無表情な顔で、純とすれ違う。手には血まみれのナイフを握ったままだった。
それを呆然と見送った西沙織は、はっと我に返ると、国松総合病院の中へと向かって走り出した。
純はそれらを見届けると、足元に仰向けで転がっている雅尚へと視線を落とした。 雅尚の背後に、血だまりが広がっていく。
「あれ……?君、いつの間に――」
「先生、しゃべらないで!刺されてる!」
純は血だまりが広がりつつある地面に膝をつくと、雅尚の頭をジーンズの腿の上に抱え、半泣きで叫んだ。
「刺されて……?ああ、さっきの――」
雅尚は背中に手をやろうとしたが、動けないようだった。
「今……西さんに告白されたんだけど……」
「――いいから!お願いだからしゃべらないでください!」
純は溢れんばかりの雫を瞳に溜めて、また叫んだ。
純の腿の上に頭があるのに、雅尚には純の声がよく聞こえていないようだった。
「……だから、こう……言ったんだ。最近……気が付いたんだけど……どうやら僕は……何だか眠くなってきたな。続きはまた今度――」
腿の上にある雅尚の頭が、急に軽くなった気がした。ゆっくりと雅尚が目を閉じる。
「先生!先生!」
純は右の手の平を雅尚の背中の傷口にあてがいながら、ひと際大きな声で叫んだ。 滲んだ視界の向こうに、西沙織と複数の医師、看護師がストレッチャーを押しながら走ってくる姿が、陽炎のように揺らめき――零れ落ちた。
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