第34話
診療費を支払う為に、雅尚と美佳は病院の中央ホールの長椅子に並んで腰かけ、名前を呼ばれるのを待っていた。
「あの二人、あなたのことが好きなのね。ふふ、かわいい」
中央ホールの端にある大きな柱の陰から、二人を遠巻きに監視している純と西沙織を見ながら、美佳は微笑んだ。
「私にもあんな頃があったなあ」
どことなく楽しそうな美佳に、雅尚は不思議そうな顔で尋ねた。
「今は違うのかい?」
雅尚の問いかけに、美佳は寂しげな、それでいてどこか穏やかな微笑を浮かべた。
「そうね――今はもう、そんな歳じゃないもの。今のあなたが、あれくらいの年齢の子達にモテるの、解る気がする」
「どういう意味だい?」
今度の雅尚の質問には答えず、美佳は椅子から立ち上がった。
「よく考えたら、ここで一緒に待つ意味も無いから、もう行くね。お母さんが見てくれてるけど、唯が熱を出して寝てるの」
「何だって?そういうことは早く言ってくれないと――」
「なぜ?ただの夏風邪よ」
「なぜって――」雅尚を遮った美佳の言葉に、雅尚はすぐに返事ができなかった。
「あなたは私を愛してる?」
「そんなの考えたことも無いよ――だけどそういうものだろう、家族っていうのは。愛してるとか愛してないとか、理屈じゃないんじゃないのか?」
雅尚の言葉に、美佳は微笑みを崩さずに「そうかもしれないね」としばらく俯いた後、顔を上げた。
「だけどね、私はそれじゃ嫌なの。家族といっても、子供とは違って夫婦は他人だもの。子供っぽいかもしれないけど、いつまでも恋人同士の気持ちでいたいの。私はいつまでも輝いていたい。だって『家族』に対して、綺麗でいなきゃ、とかダイエットしなくちゃ、とか思える?きっとみんな、そうやってどんどん体形が崩れて、服装にも気を使わなくなって、女としての魅力を失っていくんだと思うんだ」
「それでもいいじゃないか。家族になるっていうのは――」
「それにね」美佳は、雅尚の言葉が届いていないかのように続けた。
「あの二人に対して、私何とも思わないんだ。さっき、あなた言ったよね。私を愛してるか、考えたことも無いって。私もそうなんだ。きっと、それって――好きとか嫌いとかじゃなくて、もう恋愛してないってことなのよ」
雅尚は真剣な表情で聞いていた。
「あなただってどう?もし私に新しい恋人ができたって聞いたらどうする?きっと、今のあなたなら怒らない。寧ろ祝福してくれるんじゃない?」
「だって怒ったって仕方ないだろう。僕よりその新しい恋人の方が、君にとって魅力がある、ていうことだ。誰が悪いわけじゃない。強いて言うなら僕自身が悪――」
「違う」
美佳も真剣な眼差しで雅尚を遮った。
「それこそ理屈じゃないの。恋人時代は、あなたが他の女の子と話してるのを見かけただけで、腹が立った。あなたが他の女の子を褒めただけで、その子のことが嫌いになった。あなたのことが好きだという子がいたら、あなたを盗られるかもしれないと、怖かった」
「――難しいね、人の心は」
雅尚の返事に、美佳はふっと笑った。
「簡単よ。今言った通り。今のあなたに、もうそんな感情が湧いてこない――てことが答えじゃない?」
「そんな関係を超越した、ともいえるよ」
雅尚も笑顔で言った。
「そうね」と美佳も笑顔のまま頷いた。そして、自分のお腹をさすりながら言った。
「超越したなら、もういいかな。尚更次のステップに進まないと。もう行くね。この子が生まれたら、連絡する。唯とも普通に会ってあげて。別に私達、ケンカして別れるんじゃないんだから」
「そりゃ助かるよ」
美佳は歩きかけて「あ、そうだ」と立ち止まった。
「そういえば唯が、パパと自分の間にはママも知らない秘密がある、て自慢してたんだけど――何のこと?」
「秘密?何のことだろう」
美佳の質問に、雅尚は暫し考えた後「もしかしてホクロのことかな」と呟いた。
「ホクロ?」
怪訝な顔の美佳に、雅尚は困ったような顔で言った。
「うーん、確かに約束したな――秘密の約束だから言えないんだよ」
美佳は「何それ」と笑った。
「まあいいわ。細かいことはまた落ち着いたら話し合いましょ。じゃあね」
笑顔で別れる二人を遠巻きに見つめながら、純と西沙織はお互いに複雑そうな顔を見合わせ、同時に言った。
「何話してるんでしょうね」
そうこうしていると、料金を支払い終えた雅尚が真っ直ぐに二人の元へ歩いて来た。
あたふたする西沙織とは対照的に、純は落ち着き払った顔で雅尚を迎え撃った。
「何だ、気付いてたんですか」
「そりゃこれだけ不審な二人が周囲をうろうろしてたらね。一応ここの警備員だから」
笑いながら雅尚が答えると、純は真っ直ぐに見返しながら言った。
「奥様とは何のお話を?」
隣で西沙織が「そんなストレートな」と呟く。
雅尚はこともなげに答えた。
「ああ、別れ話だよ」
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