第33話

「それじゃあ、奥様に隠れて何か自己啓発のセミナーを受けたとか、本を読んだとか、そういったことは絶対に無いということですね?」

「ええ、もちろん……」

 満足げな表情をした純の問いかけに、美佳は戸惑った表情で答えた。

「前回うちに運び込まれた時を境に、というのは間違いな――」

「じゃあ鈴木さんはそれまで全く違う人格だったと?」

 脳神経外科医の沖の言葉を遮って、西沙織は心配そうな表情で、沖と美佳の間に割り込んできた。

「そこらへんと関係がありそうですね、この短期間に二度も暴行事件に巻き込まれて搬送された原因が。素行の悪い人間ならともかく、普通の生活をしている人間にはまず有り得ません。となると鈴木さん本人にも落ち度があるんじゃないかと、私もちょっと気になってさっき調べさせてもらったんです。ご主人は結婚以前まで遡っても、交通違反なども含めて一度も警察沙汰になっていない。これは寧ろ珍しいくらいです」

「そういえば福庭さん、何であのコンビニにいたんです?おかしいですよね、ただの客同士の揉め事にあの人数の警察官――それに、確かあの時『やった、今だ』って誰かが叫んだような」

 またも自分と沖を差し置いて会話を続ける福庭と純を交互に見やりながら、美佳は相変わらず戸惑った表情を浮かべている。

 ああでもない、こうでもないと話し合う人の輪の中心には、雅尚がストレッチャーに横たわっている。

 なぜこのようなことになっているかというと、殴られて救急搬送される雅尚に、当然純と福庭が救急車に同乗し、当然以前も同じ状況で搬送された国松総合病院に運び込まれ、当然主治医である沖が診察し、当然雅尚が搬送されたことは病院の事務である西沙織の耳にも入り、当然西沙織は自分の仕事そっちのけで救急外来に駆けつけ、当然病院から連絡をもらった正妻の美佳がそこにやって来た、という流れである。

「あの……」

 いや、でも、と雅尚の周りで言い合う人垣に、美佳は痺れを切らして少々大きな声で口を挟んだ。

「皆さんはどういう――」

 会話をやめて、一斉に自分に目を向ける人々の視線に、美佳はなんだか自分が空気を乱してしまったような気がして、申し訳なさそうに口を噤んだ。

「――奥様ですよね。申し遅れました。わたくし、鈴木先――雅尚さんの元教え子で、現在仲良くさせていただいている、真島純と申します。以前からご挨拶させていただきたいと思っておりました。以後、お見知りおきを」

 深々とお辞儀をした純だったが、やり慣れていない所作だったせいか、腰がポキッと鳴った。

「元教え子の方がどうして――ご挨拶って?」

 さらに困惑している美佳と、これまたやり慣れていない愛想笑いのせいで頬がぴくぴくしている純の間に、今度は西沙織が割って入る。

「私、西沙織といいます。鈴木さんが御結婚されているとは存じ上げませんで――申し訳ありませんでした。先日お仕事で助けていただいたお礼にと、ご主人様をお食事にお誘いしてしまいました」

 こちらもまた深々と頭を下げた西沙織に向かって、美佳は手を振りながら答えた。

「いえ、それはいいんだけど――仕事で助けた?あの人が?まだ研修中のはずだと思いますけど」

 西沙織が答える前に、今度は福庭が割って入ってくる。

「あれ?奥様、先日お会いした時とは何か雰囲気が違いますね。何かこう、ますます若々しくなられたというか。いや、まあ元々お綺麗でいらしたけど」

 福庭が、場違いな調子で話しかけたが、美佳は怪訝そうな顔で言い放った。

「どちら様でしたっけ?」

 がっくりとうなだれる福庭を尻目に、沖は声高らかに宣言した。

「みなさん、診察の妨げになりますので、私的なお話があるなら診察室の外でお願い致します!」


         *

 

 救急外来の扉から、沖に怒られてうなだれた様子の大人たちがぞろぞろと待合に出てきた。

 先頭を歩いていた福庭は、待合の長椅子に腰かけながら、純に向かって言った。

「いや、実はなぜ我々があのコンビニにいたかというと、元々あのチンピラ二人組を追っていたんですよ」

「追っていた?尾行していたってことですか?それならもうちょっと早く飛び出してきてくれればよかったのに」

 福庭の告白に、純が不服そうに言った。

「そうなんですが、尾行していたっていうことは、奴らを逮捕するに至るまでの証拠が無かったということなわけで。奴らをしょっ引きたいが、理由が無い。何でもいいから尻尾を出さないか、と尾行していた我々の目の前で奴らが鈴木さんと揉め始め、コンビニから通報も入った。しかしすぐに駆け付けたのでは我々が張っていたことがばれてしまう可能性があるうえ、まだあの段階では奴らを連行できるほどの状況ではなかった。通報で駆けつけた警察官を一旦待機させ、さてどうしたものかとじりじりしていたところ、奴らの一人が鈴木さんに手を出した。これ幸い――コホン。これはいけない、とばかりに我々も飛び出した、というわけです」

「まさか、あのとき『やった、今だ』って叫んだのって福庭さんですかあ?」

 純の呆れたような物言いに、福庭は慌てて手を振った。

「いやいや、まさか!あれは調子のいい同僚が居りまして――だけど結果的に奴らを逮捕することができまして、捜査も進展しそうです。ある意味では鈴木さんに感謝です」

「あの二人、何やったんです?」

「何、窃盗とか特殊詐欺とか、ちんけな奴らですよ」

 純と福庭のやり取りに、太い声が割り込んだ。

「しかし犯罪者には違いあるまい」

 突然声がした方向を皆が一斉に見ると、診察室の扉を開けて、沖が立っていた。

「今回はたまたま殴られただけだったが、もっとおかしな輩はごまんといる。いちいち同じ土俵に上がって相手をしていたら、いつか取り返しのつかないことになるかもしれない」

「先生!鈴木先せ――雅尚さんは?気が付いたんですか?」

 純と西沙織が沖に詰め寄る。美佳は何か考え事をしているのか、一点を見つめて動こうとしなかった。

「ああ、もうすぐ出てくるよ。前回同様、何も異常は見当たらない。だけどやっぱり頭部だからね。ウチの警備員になった、て聞いたけど、まだ研修中なんだろう?今日はもう帰らすといい。鈴木さん――奥さん、今日一日はご主人の様子に気を付けてあげてください」

「私達別居中なんですの」

 沖の言葉に、美佳は間髪入れずに答えた。

 美佳の感情の無い言い方に皆が固まる中、事情を察したのか、沖はまるで何事も無かったように続けた。

「そうか、ふむ。じゃあこうしよう。幸い彼の勤務先はこの病院なわけだ。しかも明日の朝までというじゃないか。家に帰って一人でいるより、このまま勤務した方が安心、安全ともいえる。今日はこのまま勤務することを許可しよう。ただし、巡回など体を動かすことは控えるようにしてね」

 沖の言葉に、純が無表情で言い放った。

「あら、一日くらい私が鈴木先生の家に泊まって付き添いますよ」

「何言ってるんですか!その制服、あなた高校生でしょ?私が付き添います」

 純と西沙織がすったもんだを始めると、診察室入口に立っていた沖の背後から、雅尚が顔を出した。

「このまま勤務に就く」

 雅尚の高らかな一声に、純と西沙織はしゅん、と俯いた。

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