第32話

「おはようございます」

 エレベーターの扉が開くと同時に、純の抑揚のない声が、マンション一階のエントランスに響き渡った。

「おはよう――って、昨日言ったじゃないか。駄目だよ、住人でもないのにオートロックの内側に入ってきちゃあ」

 雅尚は制服姿の純を一別すると、オートロックの解除ボタンを押して外に出た。純は当然のように、雅尚の左側に並んで歩き出す。

「七時半か。思ったより早く出勤するんですね」

 純は学生かばんを左手に持ち替え、およそ女の子らしくないくたびれた腕時計を見ながら言った。

「何だい、知らずに待っていたのか。まさか一緒に病院まで行くわけじゃないだろうね。どこか悪いとか?」

 ヴィンテージ物というわけでもない擦り切れたジーパンに、薄手のパーカーといった軽装の三十代半ばの男性が、制服姿の美少女と早朝に並んで歩く様子は、どう見ても親子や兄妹には見えず、道行く人々の好奇の視線を一身に引き受けている。

「まさか。登校のついでに、バス停まで一緒に歩こうと思っただけです」

「ついでって、君の家からじゃ全然遠回りに――」

「そんなことより!」

 大声で叫んだ純の口から、噛んでいたガムが飛び出した。

「あの本『亜麻色の髪の爆裂少女』読ませていただきました」

「ああ、そう」

 雅尚は、さして興味が無さそうに答えた。

「何というか――お話自体は面白いと思いましたけど……。文章が幼稚というか、表現力がイマイチだなあと思いました。何でこんな本が売れてるのかさっぱりわかりません。奥様には悪いですけど」

 純はちらちらと、雅尚の横顔を窺いながら言った。

「ふーん」

 雅尚は俯き加減で歩きながら、関心が無さそうに相槌を打つ。

「先生はどう思いました?読んだんですよね」

 純の質問に、雅尚はやっと顔を上げた。

「うーん、どうだったかなあ――奥さんに何か感想を言ったはずなんだけど、全く思い出せないな――本当に全く覚えてないな。何て言ったっけ?」

 考え込んでいる様子の雅尚に、純は嬉しそうに言った。

「じゃあ、やっぱり先生も気に入らなかったんですよ。思い出せないくらいの感想なんですもん。駄作ですよ、駄作」

「それは違うよ」

 急にきっぱりと言い切った雅尚を見て、純は自分の意見が否定されているにもかかわらず、目を輝かせた。

「歌唱力や演奏力が高いのに売れない歌手やバンドが、歌唱力や演奏力が低いのに売れてる人を批判するのと一緒だ。作品がたくさんの人に受け入れられる理由はいくつもある。それはメロディだったり、歌詞だったり、ビジュアルだったり、何らかの魅力があるからだ。歌唱力や演奏力は魅力のうちの一つにすぎない。歌唱力や演奏力が高い音楽を聴きたい人もいるだろうが、それだけではつまらないから売れていないんだよね。本も同じだ。話が面白くて、内容が読み手に伝わるのなら、必ずしも文章力や表現力が突出していないといけないなんてことはないんじゃないかな。ちなみに僕自身は、純文学や文芸書を読んでると眠くてたまらなくなるんだけど――あ、コンビニだ。ちょっと寄っていいかい?」

 純はふんふん、と頷いていたが、突然の雅尚の申し出に、一瞬きょとんとした後、はじけんばかりの笑顔で「はい!」と返事した。

 バス停までの道程で唯一のコンビニに二人が飛び込むと、思いのほか多くの客で賑っていた。

「思ってたよりお客さん、多いですね。何を買うんですか?先生」

「昼時の病院の売店は尋常じゃなく混んでいてね。ここで昼飯を買っていこうと思ったんだけど……」

「みんな考えることは同じかもしれませんね。どうします?」

「うーん――昼の売店よりはましだ。ここで買っていくよ。君は学校に行くといい」

 店の自動ドアを指し示す雅尚に、純は首をぶんぶん振った。

「いいえ、お付き合いします。学校なんか少々遅れ――学校の売店は少々流行遅れの商品が多いので、ここで私、いつも買いものするんです。最新の文房具とか」

「へーえ、わざわざこんなところまで?君が最新のものに関心があるなんて思ってなかったなあ。いつも古臭いものばかり持ってるものね。何か特別なこだわりでも――」

「早く!買わないと、弁当を!売り切れちゃいますよ!」

 純は雅尚の顔に唾をまき散らしながら、雅尚の言葉を遮った。

 雅尚は「何だよ急に……」と呟きながら、ハンカチで顔を拭っている。

 雅尚は弁当とお茶を持って、純は適当に選んだボールペンを持って、二台あるレジのうちの片方に、二人並んだ。

「あっちの列に並びなさい」「いやこちらの方が早いです」と二人がやりあっていると、店の入り口から男が二人、入ってきた。

 二人とも二十代前半だろうか、一人はひょろりとした体型ながら軽く百八十はありそうな長身で、もう一人は小柄ながらでっぷりと太っている。ともにトレーナーやスウェットといったラフな格好だが、首元や足首にいかついタトゥーを覗かせ、いかにもな人種であることを隠そうとする気配はない。

 服装から察するに、どちらかの家で朝まで呑んだくれていたのか、二人ともかなり酔っぱらっている様子だ。

 純にとって、いや、ほとんどの日本国民にとって心の底から軽蔑する対象となるであろう人種だったが、そこは女の子。関わり合いになりたくないのは当然で、周囲の人間同様、純もちらっと盗み見る程度にしていた。

(こういう人達を見るといつも思う。自分たちは悪いんだぞ、強いんだぞ、怖いんだぞ、と周囲の人々を威嚇して、怯えさせていい気分になってる。みんな怖いんじゃない。関わり合いになるのが面倒臭い、気持ち悪い、要するに自分たちはほとんどの人間に嫌われているだけだということが解ってない。お店でも駄々をこねて過剰なサービスを要求し、言い分が通ったら得をした、いいサービスを受けたと勘違いしている。違う。お店側は面倒臭いから、早く帰って欲しいから言い分を聞く。早く帰ってほしい、二度と来てほしくない客にいいサービスなんかもてなすわけがない。本当にいいサービスを受けているのはやっぱりいい人であって、結局自分たちは損をしているということが彼等には解らないし、誰も彼等にそれを教えてあげない。当然だ。だって、誰も彼等に関わりたくないのだから――)

 純がそんなことを考えていると、奴らのうちの一人、のっぽの方が雅尚達に近付いて来た。かと思うと、二人には目もくれず雅尚の前にすっとすべり込んだ。手には缶ビールの六本パックを下げている。露骨な割り込みだ。

 純は注意しようとして、躊躇った。相手は酔っている。ただでさえ非常識な輩に『可憐な女子高生に、手をあげてはいけない』といった常識が通用するとは思えなかった。

「何か急ぎの用事でもあるんですか?」

 雅尚のはっきりとした声に、純は「しまった」と思った。今回はさすがに相手が悪い。何か理由をつけて、雅尚を列から連れ出すべきだった。

「あん?」

 のっぽは振り返ると同時に、鼻の頭を雅尚の顔にくっつけんばかりに近づけ、大声で怒鳴った。

「何だ?何か文句あんのかあ!」

「くさっ!いや、文句じゃなくて尋ねてるんです」

 雅尚はしかめっ面で、のっぽから顔を離した。

「てめえ――ケンカ売ってんのか?」

 声を一段低くして凄むのっぽに、雅尚は不思議そうに言った。

「僕がケンカを売ってる?なぜです?どこに引っ掛かったんです?」

「――お前完全に舐めてやがるな。表出ろ!」

 のっぽは顔色を変え、雅尚の胸ぐらを掴んで引っ張ろうとした。

「あ、僕急ぐんで列は離れられません」

 雅尚はあっさりとのっぽの手を引きはがした。ひょろりとしているだけあって、あまり力は強くないらしい。

 純がはらはらしながらレジの店員を見ると、どこかに電話している様子が窺えた。胸ぐらをつかむのは立派な暴行にあたる。おそらく警察に通報しているのだろう。

 雅尚の列に並んでいた客たちも、関わり合いになりたくないのだろう、一人、二人と列を離れ始めている。

「どうした?」

 純が声のした方向に視線を向けると、でっぷりが立っていた。のっぽの加勢に来たようだ。

「いや、こいつふざけてるんすよ」

 のっぽがでっぷりに訴える。敬語を使うところを見ると、どうやらでっぷりの方が立場が上らしい。

「ふざけてる?僕は何かお急ぎの用事があるんですか、と尋ねただけですよ」

 心外、といった様子の雅尚に向き直ると、のっぽを親指で指し示しながら、でっぷりはにやけ顔で口を開いた。

「こいつにお急ぎの用事があったら何だってんだ?」

「皆さん列に並んでいるのに、その方が僕の前に割り込んでこられたので、尋ねたんです。もしお急ぎの用事があるんでしたら、順番をお譲りします。ただ、並んでるのは僕だけではないので、僕の後ろに並んでる方々の許可も必要だと思いますけど」

 こともなげに答える雅尚に顔を向けたまま、でっぷりはちらりと雅尚の後方を見やった。雅尚の後ろに並んでいた二、三人の客が一斉に目をそらす。

 そうこうしているうちにレジに並んでいる客がはけ、雅尚の順番になったが、当然雅尚ものっぽも買い物できる状況にない。かといってこれも当然、誰も雅尚達を追い抜いて買い物しようとはしない。

 レジ打ちの女性店員は、どうしていいかわからない様子で立ちすくんでいる。

「別に急いじゃいねえし、後ろに並ぶ気も無い。要するにただの割り込みだ。どうする?」

 でっぷりがニヤニヤしながら言った。

「それはそれで仕方がありませんね。この世はある程度、人々の常識や倫理観によって成り立っている。それらが通用しない人はある意味無敵だ。僕も急いでいるし、もう時間が無い。ここでの買い物は諦めます」

「何だと?」

 淡々とした雅尚の物言いに、でっぷりは片方の眉毛をつり上げた。

「あと――さっきから、お前達は明らかに僕より年下で、かつ僕らは初対面で、かつ僕が敬語を使っているにもかかわらず、ため口だよな。この国には、親しくない間柄や目上の人間に敬意を表して、余計な争いを避けることができる敬語という、素晴らしい文化がある。知らねえのか?」

「何だその口の利き方はあ、こらあ!」

 のっぽが真っ赤な顔をして、雅尚を怒鳴りつけた。

「僕はあなた方と同じことをしただけだ。腹が立つということはこの国の文化を受け入れているということでしょう。自分がされて嫌なことは相手にもしてはいけない。子供の頃習いませんでしたか?この国は世界一治安がよく、日本人は世界一礼儀正しいとされ、海外からも絶賛されている。恥ずかしいから、海外旅行なんて考えないで下さいよ」

 雅尚の言葉を黙って聞いていたでっぷりが、少し警戒するような、静かな口調で言った。

「自分の腕っぷしに自信があるのは分かった。相手してやるから、とにかく表に出ろ」

 入り口を指し示したでっぷりに、雅尚はすぐさま答えた。

「いや、断る。そっちののっぽはともかく、あなたはわりと強そうだし、喧嘩なんかしたら、勝っても負けても警察の世話になるだろう。あなた方は構わないのかもしれないが、僕にとってデメリットが大きすぎる」

 雅尚の言葉に、入り口に向かって歩き出していたでっぷりは、その体格に似つかわしくないスピードで振り返った。

「じゃあここでやってやるよ!」

 でっぷりの拳が、棒立ちの雅尚の顎にヒットした瞬間だった。

「やった、今だ!」と店の入り口付近から怒声が聞こえたかと思うと、四、五人の警察官が店内に一斉になだれ込んできた。

 ゆっくりと後方へ倒れこむ雅尚を、純が支えるのとほぼ同時に、警察官が一斉にでっぷりに飛び掛かる。

 純が反射的にのっぽの姿を目で追うと、店を出たところで、やはり警察官四、五人に取り押さえられているのが、自動扉のガラス越しに見えた。

(おかしい。ただの一般人のいざこざに対応するにしてはやけに仰々しい。いや、そんなことより――)

「大丈夫ですか、せんせ――」

 雅尚の体重を支え切れなくなって、純は言葉をとぎらせた。

 ゆっくりと雅尚が倒れ込む。

「先生?先生!――ちょっと、誰か救急車!」

 純の叫び声を聞いて、私服警官の一人が駆けつけてきた。

「どうした、大丈夫ですか!――あれ?この人、いつぞや元教え子に殴られた先生じゃあ?」

 ふいに疑問を投げかけられたおかげで、純は冷静さを取り戻した。

「どうしてそれを?」

「いや、私、その時に担当した刑事です。福庭といいまして――それにしてもよく殴られて、よく気絶する人ですなあ」

「まったく……」

 大騒ぎのコンビニ店内で、眼を閉じて横になっている雅尚を挟んで、女子高生と刑事は大きく首を振ったのだった……。

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