第31話
純がためらうこと無く玄関横のインターホンを押すと、ほどなくして「はい」と返事が聞こえた。
「真島です」
純が間髪入れずに言うと「ああ、ちょっと待って」と、雅尚が慣れた様子で返事を返し、すぐに玄関の扉が開かれた。
「あれ?そういえば一階のオートロックはどうしたの。誰か住人と一緒に入ってきたのかい?」
土間の自分の靴を脇に押しやりながら、雅尚が尋ねた。
「先生が開けてるのを見て暗証番号は覚えました」
純は無表情で、こともなげに答える。
「ああ、また忍びの術か。別にいいけど、よそでやっちゃいけないよ」
純をリビングに迎え入れながら、雅尚は笑った。そして、ふと真顔に戻って言った。
「そういえば、あれほど職場に来ちゃいけないと言ったのに昨日――」
「あの西さん、ていう人とご飯に行くんですか?」
純はリビングの入り口で突っ立ったまま、相変わらずの無表情で雅尚の言葉を遮った。
「ああ、聞いてたんだね。いや、お断りさせてもらうよ。あの時も何度も言ったんだけど、そんなお礼をしてもらうようなことじゃないんだよ」
相変わらず笑顔の雅尚だが、純の表情は変わらない。
「先生、本当に――あの子が本当にただのお礼で食事に誘ったと思ってるんですか?」
「あの子って、君より年上だけどね――どういう意味だい?」
きょとんとした顔の雅尚に、純は苛立ちを隠さなかった。
「若い女の子がただのお礼で男性を食事に誘うと思いますか?お礼なら先生の言ったとおり、二、三千円のお菓子で十分です。あ――あれ、私に与えると仰ってましたよね。ください」
「ああ、いいよ。ほら――お礼以外に何があるというんだ?」
純は未開封の菓子折りを受け取ると、かわいらしい洋菓子の包みを乱暴に破りながら返事した。
「恋ですよ。恋愛感情です。ほかに何があるっていうんですか?」
「ええ?ほとんど会話も交わしてないのに、まさか――それに、それならそうと言うだろう、普通」
「言いませんよ、普通。誰もが先生みたいに何でもかんでも思ってることを口にするわけじゃないんです。現に私だって――」
純は言いかけて、乱雑に引き裂かれた包みから出てきた、かわいらしいラスクにかじりついた。
「現に?何だい」
「とにかく!」
純は、口の中のラスクを盛大にばらまきながら雅尚を遮った。雅尚は、流しにある布巾を取りに行く。
「どちらにせよ行っては駄目です!勘違いさせるだけです!歳の差を考えてください――恋愛に歳の差は関係ありません!」
「どっちなんだい?」
床に散らばったラスクを掃除しながら尋ねる雅尚から目をそらすと、純は俯いたまま「失礼します」と呟いた。
「え?」
雅尚が顔を上げると、そこにはもう純の姿は無く、玄関から靴を履く音が聞こえた。
「帰るのかい?夕食を――」
雅尚が言い終わる前にバタン、と玄関の扉が閉まる音が鳴り響く。
「一体何だったんだ……」
ダイニングテーブルの上に残された、破れた包装紙と散らばったラスクのかけらを見つめながら、雅尚は呆然と立ち尽くした……。
*
一階のエントランスを抜け、オートロックの自動扉をくぐると、純は大きく溜め息をついた。
「あれでもわかってないんだろうな――ま、いいけど」
純は歩き出そうとしたが、道路を挟んだ向かい側の歩道に佇む人影に気付いて、先程よりもさらに大きく溜め息をついた。
「何⁉また尾けてきたの⁉ストーキングもいい加減にしないと――」
向かい側の歩道から大声で声をかけられ、水上は慌てて純に走り寄った。
「ば、よせよ!人聞きが悪い!あの後すぐ次のバスが来たんだよ――もう分かってるだろう、俺の気持ち。この際だから言っちまうぞ!真島、俺と付き合って――」
「ごめんなさい。あなたのことは何とも思っていません。まったく興味がありません。最近まで存在も知りませんでした。あと、他に好きな人がいます。」
純に一秒で断られ、水上はへなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「そうか……。もしかして、その好きな人っていうのは――鈴木のことか?」
「そうよ」
腕組みをしてあっさりと認めた純に、水上はさらに項垂た。
「ついに言っちまったな……。いけねえ、それだけはいけねえよ、真島。元とはいえ、教師と生徒だぞ。鈴木の奴、結婚だってしてんだろ?年齢だって――」
「そう、あんたの言う通り。教師と生徒だったのは以前の話。変わってしまった先生は、奥さんと別居中で離婚寸前。恋愛に年齢は関係無い。全く何も問題無い!」
水上は、頭上から仁王立ちで見下ろす純の顔をしばらく見上げた後、意を決したように立ち上がった。
「まだ離婚してないわけだから、問題なくは無いと思うけど――でも、そこまで自分の気持ちを教えてくれて、ありがとうな。一応真剣に向き合ってくれたのが、すげえ伝わったよ。やっぱお前、いい奴だわ。俺の目に狂いは無かった!」
水上の言葉に、純はふ、と表情を緩めた。
「あんたこそ、そんな風に受け止められる人、なかなかいないと思うよ。今日はあんたの株、うなぎ上りよ」
「ちぇ、今さらなあ。それでも鈴木には遠く及ばないんだろ?」
水上は頭を掻きながら、何かに気付いたように言った。
「そっか、真島が出入りできるってのはそういうことか。鈴木の奥さん、出て行ったんだな――ちょっとひでえな。旦那が職失ったらはい、さよならなんて」
水上の言葉に、純は頭を振った。
「私も最初はそう思ったけど――奥さんが好きになったのは変わる前の鈴木先生。私が好きになったのは変わった後の鈴木先生。それだけのこと」
「そっか――お前のことだから、もう鈴木には気持ち伝えたんだろ。あいつ、何て?」
純の表情がみるみる曇るのを見て、水上は恐る恐る尋ねた。
「もしかして、断られたのか?」
純はふるふると頭を振った。
「ううん、まだ言ってないし、伝えるつもりもない」
「何で?」
水上は不思議そうな顔で訊いた。
「だって考えてもみてよ。鈴木先生だよ?もし先生が私に少しでもそういう気持ちがあるなら、向こうからそう言うに決まってるでしょ。今の鈴木先生が私に何も言わないっていうことは、私のこと何とも思ってないってことよ。玉砕は決まってるの」
「それはそうかもしれないけど、気持ちを伝えることによって、相手が自分を意識するようにはなるだろ?もしかして、万が一、いずれ真島だって俺に――」
「ううん、全くない。意識っていうか存在は知ったけど」
同じ女の子に短時間で二度振られるという離れ業をやってのけた水上の表情は、引きつった笑顔のまま凍り付いた。
「いいの。何年かかるかわからないけど、振り向いてもらえるように頑張る。私も先生も、時間はたっぷりあるんだから」
水上はしばらく複雑そうな表情で、少女のようにキラキラした笑顔の純を見つめていたが、やがて吹っ切れたように「いいねえ、若い二人は」と冗談めかして言った。
そして、そっと呟いた。
「まあ、いっか。こいつのこんな顔、学校じゃ絶対見れないもんな――」
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