第28話

「それってただ単純に、人生諦めたってことじゃないですか?」

 雅尚の前にカラッと揚がったとんかつ、美しく盛られた刺身、野菜たっぷりのポトフ、交通事故にあったかのようなつぶれたアボガドサラダを並べながら、心音は言った。心音の手料理だが、アボガドサラダだけは純の手作りだった。

「君たち暇なのかい?」

 キッチンを忙しく動き回る二人の女性を眺めながら、雅尚は両肘をダイニングテーブルに乗せたまま言った。

「そう見えます?」

 割烹着、いや本人いわく「純白のエプロン」を身に付けた純が、両手を広げながら雅尚を睨んだ。

「いや、今現在暇なのかと訊いてるんじゃなくて、こうしょっちゅう家に来て――」

 雅尚は言いかけて諦めた。

 夜勤明けの雅尚は、帰宅してそのまま夕方まで仮眠した後、夕食の買い出しにとマンションのエントランスを出た途端、それぞれ別々の方向からやってきた純と心音にばったりと出くわし、そのまま二人に買い物についてこられ、心音に「この間のお礼に、今日は私が夕食を作りましょう」と宣言されてしまった、という流れだ。その前に心音と純の間に、どちらが食事を作るのかで、いざこざがあったのは言うまでもない。

「どうですか鈴木先生、味の方は」

 雅尚のグラスにビールを注ぎながら、心音が尋ねる。

「もう教師じゃないんだから鈴木先生は止めてくれよ――このとんかつ、おいしいよ。橘先生、料理上手なんだねえ」

 雅尚は、まるでクリスマスにご馳走を並べられた子供のような笑顔で答えた。

 それを聞いた心音も「そんなこと」と言いながら、まるで小さな子供を見守る母親のようなニコニコ顔だ。

「このアボガドサラダも絶品でしょう?」

 純も得意げな顔で、自分のグラスにビールを注ごうとして、心音に瓶ビールをひったくられた。

「どうやったらこんなにアボガドがつぶれるんだい?ちゃんと包丁で切らなかったのか?」

 雅尚は、まるで嫌いな給食を完食出来ない子供のようなしかめっ面で答えた。

「そんなことより鈴木先生」

 むきになって、キッチンに残っていたもう一つのアボガドを切ろうとする純の腕を掴んで制止しながら、心音は言った。

「今回だってたまたまですよ。その元プロ野球選手のおじいさんが苦情を入れたら危なかったです。いや、まだわからないわ。今日の昼間にでも病院に苦情を入れてるかもしれない」

「大丈夫ですって。当の本人が苦情は入れないから安心しろ、って言ってましたもん。お話が楽しかった、って。やっぱり変人には変人――いえ、個性的な人には先生みたいな真っ直ぐな人の方が話が合うんですよ。本当にこの仕事向いてるんじゃないですか?」

 ようやく席について、アボガドサラダを頬張りながら純が言った。

「君もそう思うかい――あれ、高橋さんが苦情は入れないって話、僕したっけ?」

「し、しましたよ!」

 雅尚の指摘に、純は口の中のアボガドをテーブル上に盛大にまき散らしながら怒鳴った。

「考えさせられますよね、おじいさんのお話」

 テーブルの上に散乱した純のアボガドを拭きながら、心音は首を振った。

「私はただの言い訳に聞こえるわ。さっきも言ったけど、人生諦めた人が強がってるようにしか聞こえない」

 心音の言葉に、雅尚は不思議そうな顔で答えた。

「落ちぶれた、とか惨め、ていうのは結局誰が決める?人生を諦めたとして、何が悪い?いや、そもそも何をもって諦めたというんだろう?本人が現状に納得しているなら、強がる必要など無いんじゃないかな」

「それはそうですけど――」

 腑に落ちない様子の心音を置き去りにして、雅尚は続けた。

「例えば芸能人でも、一発屋と呼ばれる人達がいるよね。一時的に爆発的に売れて、テレビで見ない日は無かった。その人がお笑い芸人だとしよう。やがてブームが去ってテレビで見かけなくなり、地方のショッピングモールや、パチンコ屋の営業の仕事がメインになっていく。だけど営業の収入は悪くないと聞いたことがある。収入としては一般人よりはるかに多い。はたして、彼は落ちぶれて惨めなのだろうか?」

 雅尚の質問に、心音は少し考えてから答えた。

「わたしだったら、落ちぶれて惨めだと感じます。お金じゃありません。光り輝いていた自分が影になってしまった。こんなことなら売れなかった方が良かったかも、とまで思ってしまうかもしれません」

 雅尚が心音の話に頷いて純を見ると、純も口を開いた。

「その人がどこに価値を見出しているかによるんじゃないですか。例えば純粋にお笑いが好きで、形はどうだろうと好きな仕事で生活できるなら幸せ、という価値観。単純にお笑いは仕事としてみていて、形はどうだろうとたくさんお金を稼げるなら幸せ、という価値観。スターとしての地位や名誉に価値観を見出していた人は、落ちぶれて惨めだと感じるでしょう」

「うーん。きれいごとを言えばそうだけど、誰だって一度強烈なスポットライトを浴びたら、ライトが当たらなくなった薄暗さが気になると思うけど。それが気にならなくなって、ましてや生活保護を受けるまでになって今の方が幸せだなんて、精神的に病んでしまったといえるんじゃないかしら」

 それぞれの意見を言い終わった純と心音は、雅尚を見た。

雅尚はしばらく考え込んでから口を開いた。

「彼は病んでいるんだろうか。彼は非常識なんだろうか。常識とは何だろう。常識とはある意味洗脳だ。生まれた時から考える間もなく『これは正しい』『これは間違っている』と刷り込まれるけど、時代によってその価値観は全く真逆になったりもする」

「でもほとんどの『常識』って、正しいと思いますけど」

 と心音が口を挟む。雅尚は頷いて続けた。

「例えばある少年が大人に訊く。『頑張れば夢は叶うのか』と。大人は言う。『頑張れば夢はきっと叶う。もし叶わなくてもその努力は人生の糧になる』と」

「だってそうでしょう。私でも生徒にそう言います」

 心音はそう返事したが、純は見向きもせず雅尚を見ている。

「僕ならこう言う。『頑張るのは構わないが、ほとんどの夢は頑張っても叶わない。もし、頑張れば夢が叶うのなら大変だ。世の中はめちゃくちゃになってしまう』と」

「なぜですか?理想論ですけど素敵なことじゃないですか」

 心音が不思議そうに訊いた。

「頑張れば夢が叶うのなら、みんな頑張る。だが努力だけではどうにもならないことはたくさんある。それは大人ならだれもが知っている『常識』のはずだ。そして世の中には誰もやりたがらない、だけど誰かがやらなければいけない仕事というものが必ずある。努力すればみんな夢が叶うのなら、そういった仕事は誰が引き受けてくれるんだい?」

「それは――じゃあ子供に、夢は叶わないからどうしろ、と指導するんですか?」

「別に指導なんてしないよ。僕は自分が知っている『常識』を伝えるだけだ。それに二人とも知っての通り、子供に人生を指導できるほど、僕は思い通りに生きてはいない」

「ということは橘先生は人生を思い通りに生きている、ということにもなりますね」

 純が無表情で言い放つ。

「そんな。私は教育者として理想論を――」

「そう、それもまた考え方だ。夢を持たないのも考え方の一つ。嫌な仕事に就くくらいなら生活保護を受けるのも、考え方の一つだ」

「お互いに批判するべきじゃないということですかね。おじいさんも自分を批判しないで欲しい、って言ってましたもんね」

 純の言葉に、心音は強い口調で反論した。

「それは違うわ。生活保護のお金は税金だもの。不正受給者と納税者では、加害者と被害者くらい立場が違うわ。少なくとも私達には批判する権利がある」

「それもおじいさんが言ってましたよ。『不正な受給』とはどういうことを指すのか、と。自分達は常識や正論が理解できない、ある意味病気だと。そんな人が働けると思うか、と。そんな人が働いても結局困るのは私達だ、と」

「働けないなんて屁理屈だわ!誰にだってできる仕事は山ほどあるのに。それこそ誰もやりたがらないような――」

 言いかけて心音は、自分の言葉を飲み込んだ。

「何です?」と純が不思議そうに訊ねる。

「止めた。駄目なこと言っちゃう。職業差別に人権侵害。教師として口にできないわ」

 心音は首を左右に振って、溜め息をついた。

「それも考え方の一つだよ――ところで勤務先の病院の職員さんに聞いたんだけど、どこの病院でも診察費の未払いが多くて、それが原因でつぶれてしまう病院もあるそうだ」

 雅尚の唐突な話に、心音は目をぱちくりさせ、純はふんふん、と頷いた。

「もちろん経済的な理由で払えない人がほとんどらしいけど、意図的に払わない人も凄く多いらしいんだ」

「意図的って、そんなことできるんですか?」

 純が怪訝な顔で訊ねた。

「救急患者や時間外受診者に多いらしいんだけど、お金を持ち合わせていない、もしくは病院側が時間外なのでお金を取れない。そういったときは後日の支払いになるんだけど、そのまま支払わずに踏み倒す人が結構いるらしいんだ」

「どうしてですか?それこそ食い逃げと同じですよ。普通に犯罪じゃないですか」

 雅尚の話に、純は眉間にしわを寄せて嫌悪感をあらわにしている。

「日中は仕事があって支払いに行けないとか、家が遠いからとかいろいろ理由をつけて、結局支払わない。あくまでその職員さん曰くだけど、そういう人達のほとんどは通院している患者と違って、一過性の病気や怪我に過ぎないので、『治療してもらった』『お世話になった』という自覚が無く、自分は被害者であるという意識が強いんじゃないかと。さらに言えば喉元過ぎれば何とやらで、元気になったらお金を払うのが面倒臭くなるんじゃないか、と。もっと言えば、この国では救急車が無料だからか、医療機関に対してボランティアのようなイメージを持っていて、少々支払わなくても訴えたりされないだろうと思っている人が多いんじゃないか、ということだ」

「そんなの勝手です。『苦しい』『つらい』と自分から病院に来ておいて、治してもらったら『仕事があるから』『ボランティアだから』なんて理由でお金を払わないなんて。恥ずかしくないのかしら」

 純は、薄い唇を尖らせた。

「ほとんどは金額にして数千円から数万円、保険証もきちんと持っている、一般的には『常識人』の患者らしい。給食費を払わない親と同じだよ。『お金を払わなくても学校が子供に給食を食べさせない、なんてことはないだろう』『お金を払わなくても病院が患者の治療をしない』なんてことはないだろう、とね。だけど僕には高橋さん達と、そういう人達のどちらがまともなのかわからない。『俺達は非常識だ、病気だ』と主張して制度を利用して支払いをする人間と、きちんと働いてお金も持っているのに『せっかく稼いだお金を支払うのがもったいない、面倒臭い』と食い逃げをする人間」

「どっちもまともじゃないです。極論過ぎます」

 雅尚の言葉に対して心音が口を挟む。

 純も冷静な表情に戻って、口を開いた。

「私は見るからに非常識な人より、常識人の仮面を被った非常識人の方が怖いですね。明らかに非常識な人はこちらも気を付けようがあるけど、仮面を被られたらお手上げです」

 純の言葉に、雅尚も両手を広げた。

「そうだね。もはや何が常識で何が非常識か、僕には判らなくなってきたよ」

 向かい合って「そうだそうだ」と両手を広げている二人を見つめながら、心音はそっと呟いた。

「あなた方二人とも、結構非常識ですけどね……」

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