第27話

「だから遅くなるんだってば!」

 純は苛々した様子で母親との通話を終えると、スマホをカバンに放り込んで「ふう」と大きく息をついた。

「友達と勉強だって言ってるのに。『あんたに友達なんているわけない』だなんて、親の言うことかしら」

 純はそう呟くと、国松総合病院の時間外出入り口を窺える茂みから、顔を覗かせた。

「お母さんが疑うのも無理はないか――」

 純はそう呟いて溜め息をついた。

純は幼少の頃から、友達を家に連れてきたことが一度も無かった。そもそも友達と呼べる存在すら、これまで皆無といってよかった。

 けれども純は、友達が欲しいと思ったことも、寂しいと感じたことも無かった。

(周りのみんなを見ていて思う。あんな嘘偽りだらけの、建前の人間関係なんて、まっぴらごめんだ。みんなよくがんばってるよ。一人でいる方がよっぽど気楽なのに――)

 自分の方が変わっていると解っているが、いじめや仲間外れにされていると感じたことも無い。

 クラスで整列すると常に最後尾になってしまう長身とその美貌も手伝って、元々近寄りがたい雰囲気であり、周囲の人間からは妬みよりも寧ろ憧れの対象であった。

 純自身も、別に人間嫌いというわけでも、争いを好むという性格なわけでもない。周囲から話しかけられれば普通に受け答えするし、それなりに仲間意識もある。

 だからこそ、母も純の言葉を疑いこそすれど、そこまで心配もしていない。

母娘共々、お互い複雑な心境なのだ。

(だけど今は、そんなことどうだっていい。生まれて初めてといっていいほど、他人に興味を持ち、もっと仲良くしたいと望んでるのだから――)

 純はそう考えながら、自然と笑みを浮かべている自分に気が付いた。

 時刻は十七時を過ぎているが、当然まだまだ明るく人通りもある。閉館した病院を茂みから窺う輩は、周囲から見れば完全に不審者だが、そこは女子高生。こそこそする純を見ても、かくれんぼでもしているのだろうと、道行く人も微笑ましく見てくれる。

 時間外出入り口は、正面玄関とは建物の正反対に位置している。既に施錠してある正面玄関が、二か所の自動扉で大きな風除室を挟んでいるのとは対照的に、時間外出入り口は手動の扉が一つあるだけで、病院の営業時間は終わっていること、裏口であることを来院者にさりげなく主張している。

 今日雅尚が勤務している日なのは承知しているが、雅尚から勤務先の様子を見に来ることは一応禁じられている。

 だから純は、病院の建物には入らず、すっかり得意になってしまった忍びの術で、敷地内のこの場所まで歩を進めて来たのだった。

 問題はここからだ。雅尚から、十七時以降は時間外受付の業務を学んでいると聞いてはいたが、純は時間外受付がどこにあるのか知らない。

 一応変装用のダテ眼鏡をかけては来たが、制服まで着替える時間は無かった。

 時間外受付というからには、場所は時間外出入り口から入ってすぐの所にある可能性が高い。そうであれば、建物に入った途端雅尚に見つかる可能性がある。見つかればもう雅尚のシフトは教えてもらえなくなるかもしれない。

 純が迷っていると、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。

 その音は次第に近付いて来る。

「もしかして」純はそう呟くと、時間外出入り口から二十メートル程離れた同じ壁沿いに、やけに大きなすりガラス状の自動扉があるのを見て取った。

 サイレンはみるみる大きくなり『救急搬送口』と表示された通用口から救急車が病院の敷地内に侵入すると、純の目の前を風のように通り過ぎた。

 すると純の予想通り、救急車はすりガラス状の自動扉の前にぴた、と停車した。

「今だ」

 この喧噪にまぎれて時間外出入り口を突破しようと、純は茂みから飛び出す準備をした。

 すりガラス状の自動扉から、すぐに看護師と医師が飛び出してくるだろう。救急車からも、救急隊員と患者を乗せたストレッチャーが飛び出してくるはずだ。もしかしたら警備員、つまり雅尚達が救急車の対応にあたるかもしれない。その間を狙って時間外出入り口に突入だ、と純は身構えたが現実は少々違った。

 特に急ぐ風も無く救急車から降りてきた救急隊員が、ゆっくりと車体後部のハッチを開けると、これまた特に苦しそうな様子はない、七十歳前後(そう見えるだけで、実際はもっと若いかもしれない)の浅黒い顔をした男性が、自分の足で降りてきた。

 もう普段着にしているのだろう、古い薄汚れた何かの作業着に、赤黒く痩せこけた頬、千鳥足は明らかに酔っぱらっているように見える。もしかしたら浮浪者かもしれない。

 救急隊員も近付きたくないのか、特に手を貸す風もなく、男性を取り巻くようにして、一団は自動扉の向こうへと消えて行った。

「ドラマとは違うのね」

 純はそう呟くと、気を取り直して一気に時間外出入り口の突破を試みた。

 女の子には少々重いガラスの扉を押して中に入ると、純の予想通り目の前に、救急の受付も兼ねているのだろう『時間外受付』と表示された受付がある。

 が、これまた純の予想通り救急車の対応に行っているのだろう、受付に人の姿は見えなかった。

 純はすばやく周囲を見渡した。

 時間外出入り口から入って正面に時間外受付があり、その横に病院の奥へと続くかなり広めの通路がある。救急外来の待合も兼ねているのだろう、通路には複数の長椅子が置いてあり、そのために通路が広く作られていることが窺える。

 待合の長椅子の正面、通路に沿って複数の救急外来の診察室がある。先程のすりガラス状の自動扉の位置関係を考えると、おそらく診察室の奥には、救急車専用の処置室もあるはずだ。この病院の救急外来の面積はかなり広くとってあることが予想できる。

 純が次の行動に迷っていると、時間外受付の中の奥にある扉が開いて、警備員が三人ほど現れた。その中に雅尚の姿を見て取った純は、慌てて待合の長椅子へと走って行き、腰を下ろした。幸い時間外受付の窓口は出入り口正面を向いており、中から待合は見えない。

「付添者がいる場合は――」

「患者一人の場合は救急隊員から患者情報を受け取って――」

「まずは端末で患者履歴を探って――」

 研修中の雅尚に対して先輩が指導しているのだろう、業務を説明する声が聞こえてくる。

 純は雅尚から大体は聞いていたが、どうやら国松総合病院では警備員が時間外の来客対応、救急車の対応から受付までこなすようだ。

 がたがたとプリンターから書類を排出する音が聞こえた後、先輩警備員がまた何事か説明する声が聞こえる。

 そして警備員達は、再び時間外受付の奥に消えてしまった。おそらく受付した書類を、処置室かどこかに届けるのだろう。

 純はそうっと時間外受付の中を覗こうとしたが、思い直したように座り直した。

 すると、すぐにまたどやどやと警備員が受け付けに戻ってくる。と同時に、純の目の前にある診察室の扉が開いて、先程運び込まれた浮浪者風の男が現れた。どうやらこの男が運び込まれたスペースと、この診察室はつながっているらしい。

(運び込まれて十分と経ってないけど、もう治療が終わったのかしら?確かに重病には見えなかったけど――)

 純がそんなことを考えていると、男は目の前の女子高生の頭の先からつま先まで舐めまわすように見た後、ふらふらと雅尚達のいる受付に向かって歩いて行った。

(近くで見ると気味が悪い。昔見たカンフー映画に出てくる酔拳の達人にそっくりだ)    

 純はすっかりずれ下がってしまたダテ眼鏡をかけ直すと、ぼりぼりと体を掻きむしった。

「おい、終わったぞ」

「え、もう?」

 男が受け付けで声をかけると、受付の中から警備員の驚いた声が聞こえてきた。

 やはりさすがに早過ぎると思ったのだろう。

「ただの呑み過ぎだ、医学的には何もすることがねえだとよ。看護婦からここに声をかけて帰るように言われたんだ。何があるか知らんが早くしてくれ」

 待合からも受付の様子は死角になっているが、男の苛々した声は聞こえる。

「そうですか。この病院は初めてですね。今日は保険証はお持ちですか」

 純の耳に、雅尚の先輩警備員であろう声が聞こえてくる。

「持ってるわけねえだろうが。救急車で運び込まれてきたんだぞ。病院に行くつもりで出かけたんじゃねえんだ」

(出かけたってことは家があるのね。浮浪者じゃないんだ)

「でしたら本日は預り金として、一万円お支払していただいてよろしいですか」

「何?何もしてもらってねえぞ。何で一万円もかかるんだ!」

 男は苛々した様子で声を荒げた。

「時間外ですので診療費の計算ができません。保険証をお持ちでしたら五千円の預り金なのですが、保険証をお持ちでない方からは一万円預かる決まりになっておりまして」

 警備員の冷静な声が聞こえる。こんなことは慣れっこなのだろう。

「そんなこと聞いてんじゃねえ。何もしてもらってねえと――まあいい、俺は生活保護を受けてるんだ。医療費はかからない」

「ですがその証明書をお忘れということですので――」

「生活保護を受けてるんだぞ。一万円も取られたら飯が食えなくなっちまう。お前ら弱者をいじめて楽しいか?」

 男はなぜか得意げに言った。警備員も負けじと言い返す。

「ですから明日にでも病院に証明書をお持ちいただいたら、返金されますから」

「いや、家が遠いんだ。交通費がかかっちまう。最近体調が悪いから、近いうちにまた救急車で来るさ。その時に持ってくる。それでいいだろう」

 男は悪びれる様子も無く言い放った。

純は思わず「信じられない」と呟いた。

「ちょっといいですか?」

 純が聞き慣れた声が聞こえてきた。雅尚の声だ。

「運転免許はお持ちですか」

「――あ?」

 雅尚の質問に、男は少し戸惑った様子だ。

「持ってるがそれがどうした」

「では免許不携帯が交通違反で罰金を取られるのはご存知ですよね」

 雅尚の声を聞いた純は、小さく「キター」と呟いてほくそ笑んだ。

「何の話だ?」

「警察にいくら『免許証は家に置いてある、俺は無免許じゃない』と言ったところで許してくれません。だってその免許証が無いと、免許を取得している証明ができないのですから」

 男はふふん、と鼻で笑った。

「ああ、だから預り金を払えって言うのか。だが法律と病院の規則を比べるのは無理があるんじゃねえか?」

「そんなことはありません。病院はあなたを診察しました。あなたは生活保護受給者だから診察費は無料だと主張するが、その証明ができない。なので現時点では支払いをする義務があるが、それを拒否している。既にサービスを受けているんです。既に商品を受け取った後なんです。返品がきく商品ではありません。食い逃げと同じです。犯罪と同じです。法律に触れているのと同じです」

 一気に、だが淡々とまくしたてた雅尚を、男はしばらく驚きの表情で見ていたが、やがて薄ら笑いを浮かべて言った。

「いや、それを言うなら違う。飯は食ったが財布を忘れたことに後から気付いたんだ。財布を持って、また来るから待ってくれと言っている。支払う意思はあるんだから食い逃げにはならないはずだ」

 今度は雅尚が驚きの表情を浮かべた。

「なるほど――仰る通りです。食い逃げに例えたのは間違いでした」

「いや、何に例えても難しいな。そもそも正規の診療費じゃない。預り金だろ?なぜ最初から正規の診療費を請求しない?時間外だからだ。二十四時間、診療費を計算できる事務員を置いておくにはコストがかかるからだ。一次救急なら話は別だろうが、ここは確か三次救急だな。救急患者数に対して事務員のコストがペイできないんじゃないのか?だから警備員なんぞに受け付けをやらせてるんだ。だがそれは病院側の都合だ。預り金の支払いを拒否したからといって、俺を犯罪者として扱うのは無理だ」

 先程までとは違って、冷静な様子で言い放った男に、雅尚は再び驚きの表情を浮かべて言った。

「あなた、見た目よりもずいぶん賢いですね。あなたにとってお金を稼ぐことは難しくないはずだ。なぜ生活保護を受けてるんです?」

「お、おい」

 何食わぬ顔で言い放つ雅尚を、隣の先輩警備員――下田がさすがに制した。

男は下田を手で制して、唇を歪めて笑った。

「面白いことを聞く奴だな。俺に言わせたらお前らこそなぜ中途半端に働く?俺は贅沢には興味が無い。もちろん多くはねえが、生活保護の受給額で十分ハッピーに暮らしていける。別に楽して生きていきたいわけじゃねえ。だが、わずかな賃金の為に胸糞悪い思いやストレスを抱えて、人生の大半を過ごしたくはねえ。俺みたいな面倒臭い奴を相手にしなきゃならない、お前らの様にな」

 先程までふらふらと立っていた男は、真っ直ぐに背筋を伸ばし、なぜか誇らしげにさえ見えた。

「なるほど――なぜ働くかなんて考えたことも無かったな。しかし――わずかな賃金なのは否定しませんが――僕は働くことにあまりストレスを感じていませんがね。あなたを面倒臭いとも思いませんし」

 真っ直ぐに見つめてくる雅尚の言葉に、男は豪快に笑った。

「それが本当だとしたら、お前は俺よりもよっぽど変人だ。お前が言ってることが事実だとしても、そんな奴はごくわずかだ。どんなに好きな仕事に就こうが、仕事にストレスはつきものだ。プロ野球選手になろうが、医者になろうが、ほとんどの人間は仕事のストレスから逃れられねえ。しかも成功すればするほどそいつは大きくなる。いや、ストレスなんてもんじゃねえ。時には恐怖さえ覚える。もうそうなっちまったら本末転倒だ。生きる為に働いていたはずなのに、そいつが原因で自殺する奴さえ出てくる。俺はそんな人生を送りたくはないね」

「あなた、もしかして――」

「とにかく」と男は、口を開きかけた雅尚を遮った。

「俺は自分が正しくてお前らが間違っているなんて言わねえ。だからお前らにも何も言って欲しくない。俺はこの国の間違った制度を有効利用させてもらっているだけだ」

「間違った制度?生活保護自体はこの国の素晴らしい制度のひとつだと思いますよ。間違っているのは制度ではなく、悪用する人間なのでは?」

 ついに下田まで口を挟んだが、男は気分を害した様子は無く、寧ろ愉快そうに笑った。

「俺が悪用してる、ていうのか?まあいい。では聞くがその素晴らしい制度を、どう利用すれば悪用になるんだ?」

「それは――あなたみたいな、働けるのにわざと働かないとか――」

 下田が口ごもっていると、雅尚が続きを引き受けた。

「まあ、一般的に考えて、理由もないのに定職に就かないとか――ちょっと前まではその筋の方が普通に受給していたと聞いたことがありますが、そういう場合ですかね」

 男は楽しそうに笑った。

「それが悪用になるのか。では聞くが、お前らはそういう奴らに働いて欲しいか?お前の会社に入社して欲しいか?そんな奴らがまともに働けると思うか?トラブルを起こさないと思うか?」

「それは――」

 男に指差された下田は、返事ができない。

「世の中には根本的に社会に適応できない奴が必ず一定数いる。働きたくない。我慢できない。他人の正論が理解できない。常識が理解できない。お前らはそいつらの頭の中が理解できないかもしれないが、そいつらもお前らの頭の中が理解できない。それは言ってしまえば病気だ。そいつらは制度を悪用してるわけじゃねえ。仕方がないんだ。もしそんな奴らを無理やり働かせたって、困るのは結局お前らみたいなまともな人間なんだよ」

「しかしあなたは間違った制度だと言ったじゃないですか」

 下田はやっと言い返した。

「そうだな。この国は全国民に人間らしい最低限度の生活を保障してくれるらしい。そりゃすばらしいことだが、人間らしい最低限度の生活って何だ?一か月に一度、食っていけるだけの金をもらうことか?それであいつらは人間らしい生活を送っていけると思うか?いいか、あいつらは働いてないんだぞ。時間は腐るほどある。お前らには想像できないほど暇なんだ。そんな人間にわずかな現金を渡したから、て何になる?中にはギャンブルに突っ込んで食えなくなる奴もいる。中には酒におぼれてアル中になっちまう奴もいる。ましてや、すでにアル中になってまともな思考能力を持ち合わせていない奴にも同様に金をばらまく。どうなるか分かっていてな」

「それはその人たちが悪いんでしょう。自業自得だ」

 下田は吐き捨てるように言った。

「違う。さっきも言ったろう。そいつらは病気なんだよ。お前らのような常識的な思考回路は持ち合わせちゃいないんだ。そんな奴らに金を渡すことが『人間らしい最低限度の生活を保障すること』じゃねえんだ」

「じゃあどうすればいいんですか」

「知るか。何で俺がそこまで考えなきゃいけねえんだ。それを考えるのが一生懸命勉強して、好きで国民に奉仕する道を選んだ官僚や政治家だろうが」

 面倒臭そうに言う男に、雅尚が答える。

「確かにそうだ。しかしほとんどの官僚や政治家の偉そうな態度を見る限り、彼らは国民に奉仕しているという自覚は無さそうですがね」

「そうだ。だから貧乏な奴や、非常識で面倒臭い奴らには金でも渡して黙らせとけ、て発想になっちまう。非常識で面倒臭い俺はその制度を利用させてもらっている。何が悪い?」

 それを聞いた下田が、悔しそうな顔をして言う。

「しかし――それでは働いている我々がバカみたいだ」

「そうだよ。だから言ったじゃないか。お前達はわずかな賃金でなぜ働くのかと。俺達が羨ましいと思うなら、俺達の側に来ればいい。その安いプライドさえ捨てれば簡単だ」

「いや、羨ましいとは思わない。だけど――せめて税金を払っている人達に迷惑をかけないでいただきたい。今みたいに、緊急性も無いのに救急車を呼んだり、大した症状でもないのに病院にかかったり。それらは全部税金でまかなっているんだ」

 下田は切に訴えた。もはや男に気を使うそぶりもない。

「何度も言わせるなよ。俺は間違った制度を有効利用しているだけさ。タクシーで薬局に行ったら金がかかっちまう。無料の救急車を使って無料の病院にかかった方がいいに決まってる。どうしてもっていうなら救急車も生活保護者の医療費も有料にすればいいじゃないか。まあ、有料にしたところで金を払えるかどうかは分からんがな」

「めちゃくちゃだ。やったもん勝ちじゃないか。恥を知れ!」

 下田は思わず怒鳴っていた。 

「無駄だ。俺達はそれを恥ずかしいと思っていないし、誰も俺達を咎めることはできない。国の制度に従っているだけだからな」

 男は、また唇の端を歪めた。

「彼の言う通りです」

 しばらく黙っていた雅尚が、口を開いた。

「確かに、我々がとやかく言うことはできません。下田さん、お引き取り願いましょう」

 下田は悔しそうに唇を噛んでいたが、仕方無さそうに口を開いた。

「失礼致しました。どうぞお引き取りください」

 男は下田の言葉を聞くと、黙って出口へと歩み始めたが、ふと立ち止まると、振り返らずに言った。

「苦情なんて入れやしないから安心しろ。そっちの若いの、久しぶりにまともな奴と会話できて楽しかったぜ」

 そのまま建物の外へと消えて行く男の後姿を見つめながら、雅尚は呟いた。

「正しくない――間違ってもいない」

 下田はしばらく端末の画面を睨んでいたが、突然ハッとした顔で叫んだ。

「高橋順三――思い出したぞ!あいつ元プロ野球選手だよ。だいぶ年を取っちゃいたが間違いない。どこの球団だったか覚えてないが、確か俺が中学生の頃、一度だけ首位打者を取ったことがある選手だ」

「下田さん、本当ですか?そんな人がなぜ生活保護なんか受けてるんです」

 それまで成り行きを見ていたもう一人の若い警備員が、疑い深そうな顔で尋ねた。

 下田は「そりゃあ知らんが」と考え込んだ後、続けた。

「確か首位打者を取った次の年から、からきしだったのを覚えてる。その後二、三年は名前を聞いたがいつのまにか見なくなったな。当時まだ二十代だったと思うが――コーチや解説者をやってる、て話も聞いたことが無いな」

「それじゃ落ちぶれて――」

「どうでしょうね」

 若い警備員の言葉を、雅尚が遮った。

「少なくとも本人は今の生活に満足しているようでした。他人から見たら落ちぶれていても、本人は幸せなんじゃないですかね」

 雅尚の言葉に、下田も若い警備員も黙り込んでしまった。

 そんな受付の様子を窺いながら、純もまた複雑そうな表情を浮かべて呟いた。

「先生が周りの人を制止するなんて――」

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