第25話

 雅尚は昼食を終えると、まるでリスのように口いっぱいにご飯を頬張っている下田に声をかけた。

「下田さん、残りの休憩時間を利用して院内を見て回っていいですか?建物の構造を早く把握したいので」

 下田は目をぱちくりさせて、ゆっくりと口の中の物を飲み込んでから言った。

「別に構わないけど、初日からそんなに飛ばさなくていいぞ。まだまだ明日の朝まで長いんだから」

 下田の言葉に雅尚は心外、といった表情で言った。

「いえ、別に飛ばしてるわけじゃないんですが――嫌なんですよね。お金もらってる以上、早く皆さんの戦力にならないと。現状は皆さんに手間をかけさせているだけで給料をもらってるわけですから」

「最初は誰だってそうなんだから――まあいい。行くなら上に何か羽織るといい。研修中の警備員が一人でうろうろしているとまずいだろう」

「わかりました」

 雅尚はそう言うと、出勤時に着ていた長袖のTシャツを、制服の上から着た。

 雅尚は防災センターを出ると、一般の来客のふりをして外来、検査室、病棟と順番に見て回った。

「ふむ、なるほど。だいぶ院内の構造が分かってきたぞ」

 雅尚がそう呟いて、一階の中央ホールまで戻って来た時だった。

「だから入院させてくれえと言うとろうが!」

 八階建ての病院の屋上まで響き渡らんばかりのその大声に、雅尚は驚いて振り返った。『内科外来』と書かれたカウンターの前で、受け付けの若い女の子に向かって、老人が物凄い剣幕で捲し立てている様子が見える。

 行きかう患者や看護師、職員が皆、何事かと立ち止まって見ていた。

 この病院は総合病院だけあって、患者は一階の広い中央ホールにある総合受付で受付を済ませた後、各外来にある小さな窓口に受付票を提出し、その前にある待合スペースで待たなければならない。現在その内科外来の窓口の中に座っている受付の女の子は、老人とはいえ男性の太い声で一方的に怒鳴りつけられて、今にも泣きだしそうな様子だ。

「だからわしゃあ一人暮らしなんよ!家に帰っても誰もおらんのじゃから、倒れたらどうするんか!もしわしが孤独死したらあんた責任取れるんか?」

 そう怒鳴っている老人男性は、年の頃なら七十代後半くらいだろうか、まだ六月にもかかわらずその日焼けした肌は、頻繁に屋外で活動していることを窺わせ、とても今日明日に孤独死するとは思えなかった。

「ですから先生のお話では、今現在入院の適応にあたる症状ではなく、家で様子を見ていただくしかないと――」

「症状が出てからでは遅いじゃろうが!わしをいくつじゃと思うとるんか!」

 老人は、自分の孫くらいの年齢の女の子に向かって、真っ赤になって怒鳴り続けている。     

 どうやらこの老人男性は、自分は入院するほどの病状ではないが、一人暮らしで不安だから入院させろと主張しているようだ。

 老人とはいえ男性に怒鳴りつけられている女の子は、恐怖で固まってしまっている。

「どうしてそんなに大きな声を出すんですか?」

 老人男性は、この状況で突然割って入ってきたTシャツ姿の男、つまり雅尚を見て一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐにまた真っ赤になって怒鳴った。

「やかましい!貴様に関係無いじゃろうが!」

「関係無いことはないです。物凄くうるさいので迷惑をかけられています。周りの皆さんも同じ気持ちだと思います」

 ことも無く答える雅尚に、老人男性も少しばかり気後れした様子だ。周囲の者も皆どうなることかと、はらはらした様子で見守っている。

 老人男性は周りを見渡して気恥ずかしくなったのか、若干落ち着いた様子で言った。

「そりゃあ悪かったが、こっちも命がかかっとる。なのに、この娘が解らんことを言うから、そりゃ声も大きゅうなるわい」

 老人男性に、その年季の入った人差し指を向けられた受付の女の子は、まるで拳銃を突きつけられたかのようにふるふると震えている。

「要するに、今は大丈夫でも一人暮らしの家で体調が悪化して倒れたらそのまま死んでしまうかもしれないから、医師や看護師が監視してくれる病院に入院させて欲しい、と」

「そうだ。あんた物分かりがいいのう」

 満足そうにうなずく老人に向かって、雅尚は続けた。

「あなた、車は持っていますか?」

「何?」

「車、自動車ですよ」

「持っとるがそれがどうかしたのか」

 老人が訝しげに尋ねた。

「車を車屋に預けるのは、車検の時か故障したときであって、あとは自分の駐車場に駐車しますよね」

「当たり前じゃ」

「最近調子が悪いから、明日壊れて動かなくなってしまうかもしれないから、今日から車屋に駐車する、とはならないですよね」

 雅尚の言葉に老人は得たり、とばかりに半笑いで答えた。

「ああ――言いたいことは分かるが、車と人では話が違うじゃろう」

「同じですよ。明日壊れるかもしれないのは車も人も同じです。年寄りも若者も同じです。男も女も同じです。あなたも僕も同じです。車も人間も壊れなければ治せません。壊れるかもしれないから預かってくれ、は通用しません。それを言い出したらきりがないからです」

「機械は動かなくなってからでも直せる。だが人間はそうはいかん」

 老人は不愉快そうに反論した。

「そうならないよう日頃からメンテナンスをするしかありません。それでもどうにもならないかもしれません。僕だって明日、くも膜下出血で死ぬかもしれない。でも心配だから入院させてくれないかな、とは思いません」

「それは健康で若いからじゃ。わしとお前さんとでは動けなくなる確率が違う。医者からも何かあったらすぐ病院に連絡するよう言われておる。じゃが何かあってからでは、一人暮らしのワシは連絡もできん。先生にも心配かけるし、わしも不安じゃ。じゃからいっそのこと入院させてくれえ、思うたんじゃ。それがそんなに悪いことか?」

 苛々した様子の老人に向かって、雅尚はこともなげに言い放つ。

「誰も心配なんかしてません」

「何?」

 一瞬、老人は何を言われているのかわからない様子だった。

 きょとんとしている老人に向かって、雅尚は尚も続ける。

「先生が心配するのは、仕事だからです。心配しないと、いえ、心配するふりをしないと苦情になるからです。苦情が増えると患者が減るからです。患者が減ると仕事にならないからです」

「そんな奴に医者が務まるか」

 老人はいきり立って反論するが、雅尚は怯まない。

「こんな大病院で、一人の医者が何人の患者を抱えているか想像つきませんか?一人一人心配していたら身が持ちません。いや、その前に赤の他人を心配する人はあまりいません。明日あなたがどうなろうと僕は全く気になりませんし、あなただって僕がどうなろうと気にしないはずだ。医者だって同じです。人間なんですから」

「むう」

 老人はしかめっ面で、低く唸った。

「もっと言えば、大勢の人の前で若い女の子を怒鳴りつけて半泣きにさせるような人間を、誰が心配しますか?この女の子にしてみれば、寧ろそんな人間に、自分が勤める病院に入院して欲しくないと思うんじゃないですか?」

「いえ、私は――」

「僕ならそう思います」

 雅尚と老人のやり取りをはらはらした様子で見守っていた受付の女の子は、突然自分が話題に上ってとっさに否定しようとしたが、すぐに雅尚の言葉に遮られてしまった。

「ご自分を客観的に見て、他人が心配すると思いますか?自分のことしか考えていない人間のことを、他人が考えてくれると思いますか?入院させてもらえたとして、病棟のスタッフさんたちに歓迎してもらえると思いますか?医療従事者といえど、ボランティアで働いてるわけではありません。他人に心配して欲しければ――」

「もうええ」

 老人は、固唾を呑んで成り行きを見守っている周囲の人間をゆっくりと見渡すと、ポツリと呟いた。

「わしゃ帰る」

 心持肩をすぼめて中央ホールを歩いて行く老人を、雅尚と周りの患者や職員たちはしばらく見つめていたが、老人が自動ドアをくぐって見えなくなると、誰からともなく拍手と歓声が沸いた。中には、雅尚に向かって指笛を吹く者までいる。

「あの、ありがとうございました」

 取り巻く拍手の中、受付から出てきた女の子は雅尚に向かって頭を下げた。

「え?いや、別に――」

 雅尚は困惑した表情で答えた。

「あの、警備の方ですよね」

 女の子は、雅尚の下半身にちらりと目をやって言った。

 雅尚は上半身こそTシャツ姿だが、下半身は警備改革御用達の、濃紺に青字の縦ラインが入った、病院関係者にはすっかりお馴染みのズボンだったのだ。

 女の子の指摘に、雅尚は少し気まずそうに言った。

「ああ、いえ、そういえば今は一般人でした」

「え?」

「ここの警備員であることがばれるとまずいので。失礼します」

 いまだ歓声が鳴りやまぬ中央ホールの真ん中をそそくさと歩いてゆく雅尚の後姿を、女の子はいつまでも見つめていたのだった……。

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