第24話
警備改革の本社で三日間の新任教育を終えると、季節は六月に入っていた。早朝ならばわずかな冷気が肌に心地よく、冷房など必要無かった。
雅尚は目覚まし時計を止めると、部屋の窓を閉めた。
「やっと今日から本番か」
雅尚はそう呟くと、大きく伸びをした。
三日間、朝から夕方まで本社の一室で何人かの他の新人警備員とともに講義を受けたのだが、発言の機会はほとんど無く、ただただ警備業の法令やマナー、防災関連の知識を詰め込まれた。
教員時代は授業中、居眠りしている生徒を注意していた雅尚だったが、そんな彼自身も何度が落ちてしまいそうになった。
雅尚は手早く支度を終え出発すると、八時半ぴったりに国松総合病院一階の防災センターに到着した。
正面玄関のすぐ横にある防災センターの入り口の前で、雅尚はすうっと息を吸ってから、扉をノックした。
「おはようございます。本日からお世話になる鈴木雅尚です。よろしくお願い致します」
雅尚が扉を開くなりそう挨拶すると、がやがやしていた防災センター内がピタッと静まり返った。
四日前に挨拶に来たときと同様、二十畳ほどのスペースに十人前後がひしめきあっている。違うのは、前回より時間が早いせいもあって、勤務明けの者とこれから勤務開始の者といるのだろう、制服姿の者とまだ私服姿の者が混在していることだ。
その中で上半身が制服、下半身がジーパン姿のやや太り気味な男性が、雅尚に向かって笑顔で手を差し出してきた。
「やあ、下田です。今日から明日にかけて丸一日、君を指導させてもらうからよろしく」
年齢は隊長の小堤と同じく五十前後だろうか、体型もよく似ていて丸々としているが、こちらは少し小柄なせいか、いささか頼りなく見える。小堤が比較的がっしりとしたイメージなのに対し、こちらはぽっちゃりとした感じだ。人の良さそうな笑顔から、悪い印象を持たれることは少ないだろう。
「よろしくお願い致します。こちらの会社は皆さんぽっちゃりしてますね」
差し出された手を握り返しながら、こともなげに言う雅尚に、下田は一瞬きょとんとした後、豪快に笑った。
「正直な人だ。鈴木さんもそのうちこうなるかもしれないぞ。なにしろ二十四時間も勤務するんだ。楽しみは飯の時間くらいだから、ついつい食べ過ぎちまう。そのくせ動かない時間帯も長いもんだから、どうしてもね」
「痩せてる奴もいるぞ」
雅尚が、声が聞こえてきた方向を見ると、隊長である小堤が軽く手を挙げて見せた後、一人の隊員を指差した。
「なあ、中西」
小堤に『中西』と呼ばれた男性は、制服に着替えている最中のようだが、ちらりとこちらを見ただけで、返事をするのもだるいといった様子だった。
肋骨が浮き出たその体は、痩せているというより不健康そのもので、ガリガリといった表現がぴったりだ。目の下のクマと痩せこけた頬は、寝不足の浪人生のようでもあり、くたびれたサラリーマンのようでもあり、まさに年齢不詳といった感じである。ただ一つ言えるのは、その風貌と身にまとった異様な雰囲気からして、間違いなく変人であろうと推測できることだ。
「君の体型なら、Мでいいかな。はい、これに着替えて。君のロッカーはここだ」
下田は周囲の喧騒をよそに、クリーニング後のビニール袋に入った制服を片手に、一つのロッカーを指差した。『中西』の隣だ。
「よろしくお願いします」
雅尚はロッカーに荷物をしまいながら、着替え終わってスマホをいじっている中西に挨拶した。
中西は「どうも」とだけ言って、目も合わそうとしない。「どうも」にしたって実際に声を発したわけではなく、唇の動きでかろうじてわかる程度だ。
「気にしないでくれ。そういう奴だ。さあ、五十分から朝礼だ。少し急いでくれよ」
下田にそう言われて雅尚が時計を見ると、時計の針は八時四十分を指そうとしていた。見れば下田は、いつの間にか着替え終わっている。
雅尚が、胸と肩に社章のワッペンが縫い付けられている青地の半袖シャツに、サイドに青いラインが入った紺色のズボンに着替え終わると、すぐに朝礼が始まった。
昨日から今日にかけて警備員の対応が必要だった出来事、迷惑患者の注意、夜中に抜け出す恐れがある認知症がある入院患者の特徴等、前日同様小堤が淀みなく話すのを、皆が円になって聞いている。
引継ぎが終わると、小堤は下田と雅尚に向かって「じゃあ下田、あとはよろしく。鈴木君、頑張って」と言い残し、さっさと着替えて帰ってしまった。
「よし、じゃあ始めよう。まずは腕章をつけてくれ」
下田は、防災センター内にただ一つだけ置かれている古ぼけたデスクの上を指し示した。そこには確かに腕章が置かれてあり、大きく『研修』と印字されている。確かにこれをつけていなければ、職員にも一般人にもいっぱしの警備員として扱われてしまうだろう。
雅尚は「はい」とだけ返事して、手早く左腕に腕章を付けた。
「ついてきてくれ」
下田はそう言うと、二つある防災センターの出入り口のうち、外に出られる扉を開けて、目くばせした。
防災センターは一階正面玄関の脇に位置しており、建物の中に出られる扉と、直接外へ出られる扉がある。
下田と雅尚が外へ出ると、目の前には患者や見舞客用の平面駐車場が広がっている。ざっと見て、百五十台から二百台は駐車できそうな広さだ。
ついさっき、雅尚が出勤する際にこの駐車場の脇を通った際はちらほらと駐車スペースが窺えたが、今は既に満車の上、入庫待ちの車が敷地外の道路にまで並んでいる。そこに何人かの警備員が、忙しそうに行ったり来たりしているのが見えた。
「見ての通り、午前中は駐車場の整理が主な仕事だ。警備員が何人か見えるが、俺たち施設警備員は発券ゲートにいる一人で、駐車スペースが空けば、車列の先頭の車に駐車券を発行する。空いた場所に車を誘導するのは交通課の警備員だ。交通課っちゅうのは、よく路上で旗振ってるあれだな」
下田の説明に雅尚は頷いた後、少し不思議そうな顔で聞いた。
「先日小堤さんからざっとは説明を受けたんですが、業務内容に対して警備員の数が多くないですか?この間も今日も、朝は十人ぐらいいるように見えたんですが」
「交代の時間だからね。今実際に勤務している施設警備員は四人だ。これに夕方から二人加わる。なぜかというと、夕方から時間外受付や電話対応とかで、我々の持ち場や業務が増えるからという理由と、夜中の仮眠時間の交代要員という役割もある」
「なるほど。だから交替時は十人以上になるわけですね」
「今の時間は駐車場に一人、あ、交通課の連中は車列が引いたら帰っちまうからな――巡回業務や不測の事態に備えて防災センターで待機が二人。あと一人、つまり俺は何をするかというと――」
そう言いながら下田はどんどんと歩いて行く。雅尚も少し速度を上げてついていくと、とうとう駐車場の出口、敷地の外まで来てしまった。
「こいつらの対応だ」
雅尚は、下田が指差した方向を見た。
そこには病院の敷地に沿って路上駐車している車が、ずらっと列をなしている。さながら、花火大会の沿道のようだ。
「駐車場の車列に並ぶのが面倒な奴や、診察が終わってそこら辺の院外薬局で薬をもらう為に、ちょっとくらいならいいだろうと、患者が迷惑駐車していくんだよ。本人達は自分一人くらい、ちょっとの時間くらいと思うんだろうが、近隣の人間からしたらこの状態が朝から昼過ぎまで続く。当然道幅は狭くなるし危険も増えるから、病院に苦情が来るのさ」
「だけど駐禁を切られるでしょう」
雅尚がまた不思議そうに尋ねる。すると下田が「来な」とばかりに手招きして歩き出した。
「見てみろ」
下田は、駐車場の出口から一番近くに止まっていた車を指し示した。ダッシュボードの上には、綺麗にラミネートされた『駐車禁止除外指定車標章』と印刷された紙が、車外から見えるよう置いてある。
「何ですか、これ」
雅尚がそう尋ねると、下田は複雑そうな表情で答えた。
「見ての通りさ。程度はあるだろうが、体の不自由な方が運転する車や、そういう方を乗せている場合は駐車禁止にはなりません、という意味だよ」
「じゃあ仕方ないんじゃないですか」
「ところがだ――」
下田は言いかけた言葉を飲み込んだ。目の前の車の運転手が戻って来たのだ。
年のころなら三十代から四十代だろうか、あまり裕福とはいえない身なりの、浅黒い顔をした痩せ型の男が、車の鍵を開けながら「何だよ」と、下田を睨みつけて言った。
「申し訳ありません。病院周辺の駐車車両に対して、ご近所から苦情が出ておりまして」
下田は先程までとはうって変わって、柔らかい笑顔で声をかけた。
「許可証があるだろうが。見えねえのか?そもそも警察でもないお前に何の権限があるんだよ」
男は車に乗り込みながら、面倒臭そうに返事した。
「ええ、仰る通りでございます。ですからあくまで、ご協力をお願いして回っているわけでございまして――」
「わかったわかった。もう用事は終わったから」
男は乱暴に車の扉を閉めると、こちらを見ることも無く走り去ってしまった。
下田は肩をすくめて、まるで外国人のように両手を広げた。
「こういうことさ」
「今の男は体のどこが不自由だったんですかね。それとも不自由な方を病院に連れて来てたのかな」
雅尚が不思議そうな顔をすると、下田は呆れたように言った。
「本当にそう思うか?まあ、知らない奴はそう思うか――その可能性は低いな。まあ、実際に許可証があるんだから家族にそういった方がいるのかもしれんが、少なくとも今日は連れちゃいなかったな。後ろめたい駐車だから、あんなに攻撃的になるのさ」
「後ろめたい?」
雅尚が聞き返した時、今度は先程の男の隣に駐車していた車の運転手らしき男が戻ってきた。
こちらの男は四十代から五十代くらいだろうか、少し太り気味で、銀縁メガネをかけた神経質そうな見た目だった。まだ六月の初めだというのに汗だくで、癖になっているのか、ずり下がった眼鏡をしきりに中指で押し上げている。
男は車椅子に乗っているが、介助者の姿は見えない。
男が車のキーを操作してロックを外した瞬間、下田が声をかけた。
「ちょっとすいません」
「僕?何ですか」
男はにっこりと笑って返事をした。
「申し訳ありません。病院周辺の駐車車両に対して、ご近所から苦情が出ておりまして」
下田は先程と全く同じ笑顔で、一言一句変わりないセリフを発した。おそらく幾度となく繰り返してきた言葉なのだろう。
だがその瞬間、男は笑顔をさっと消し、無機質な調子で答えた。
「駐車許可証がありますけど」
男の氷のように冷たい表情に対して、下田は下田で何百回と繰り返してきたであろう、嘘臭い笑顔で応戦する。
「仰る通りでございます。ですからあくまで、ご協力をお願いして回っているわけでございまして」
「どうしろというんですか。見ての通り私は車椅子なんですが」
男は抑揚のない調子で淡々と言う。このような事態に慣れているのが見て取れる。
「病院の駐車場には車椅子専用の駐車スペースもございますので――」
「知ってますよ。たかだか十台分。しかも午前中は常に埋まっている」
「全く仰る通りでございます。あくまでご協力のお願いでして――」
「協力はしますよ。私だって御近所に迷惑をかけたくない。だからどうしたらいいのかを訊いてるんです。具体的に指示をしてください」
注意だけして立ち去ろうとした下田の背中に、男はそうはさせじと声をかけた。
下田は思わず、小さく「ち」と舌打ちをした後「しまった」という顔をした。
男はそれを聞き逃さなかった。勝った、といわんばかりの表情で「あれ?今――」と、下田を問い詰めようとした、その時だった。
「車椅子を使っておられますね。見たところ付添いの方もいらっしゃらないようですが、車の運転は大丈夫なんですか?」
男は少し拍子抜けしたような顔で、突然口を開いた雅尚を見た後、不愉快そうに言った。
「――歩いたり走ったりすることができないだけで、足首から下は問題ないので。だから何なんです?」
「車の運転に問題はないわけですよね。でしたらなぜ車列に並ばないんですか?」
雅尚の質問に、男は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「あなた話を聞いていなかったんですか?車椅子の駐車スペースはたった十台分しかないんですよ。だから常に満車なんです。いつ空くかわからないものを待っていられないでしょう」
「いつ空くかわからないのに待っているのは、並んでいる人みんな同じでしょう」
雅尚も、男と同様に淡々と言い返す。
「だ・か・ら!何回も言わせるな!車椅子のスペースは十台分しかないんだよ!普通のスペースはその何十倍もあるんだから、待つ時間も変わってくるだろうが!あんたそんなことも解らないのか!」
男の顔から人を馬鹿にしたような笑みが消え、穏やかだった声も怒声へと変わった。
雅尚はそんな男の様子には構わず、下田の方を向いて言った。
「あの車列は警備員の方々が整理してるんですよね。車椅子のスペースには、ずっと同じ車が停め続けているんですか?」
下田は突然話を振られて少し驚きながらも、すぐに真顔で答えた。
「そんなわけないだろう」
「ではずっと車椅子のスペースが塞がってるわけではないんですよね。普通のスペースを待つ方と比べて、そんなに待ち時間が変わりますか?」
下田は少し考えた後、慎重に答えた。
「車椅子の方と健常者の方の比率が半々、いや四対六でも三対七でもいいが、それくらいの比率なら問題だ。が、実際はやはり一対十にも満たないと思う。そう考えてスペースが空く頻度から判断すると、状況によるがトータルではあまり変わらないと思う」
下田の返答に、雅尚は間を置かず質問を続けた。
「空いた車椅子のスペースに、健常者の方を案内することは?」
「それはない。車椅子のスペースが空いていても、健常者の方には普通のスペースが空くまで待ってもらう。反対に普通のスペースが空いていて、介助者がいる等乗降に問題が無く、了承を得られれば車椅子の方をそちらに案内することはある。あと、車椅子の駐車スペースを『身障者用スペース』と受け取っている方が非常に多いんだが、車椅子のスペースは乗降を考慮して広くとってあるから、あくまで『車椅子専用のスペース』なんだ。車椅子を必要としない身障者の方が『身障者のスペースが空いているなら停めさせろ』と言ってくることが多々あるが、そういった方も含めて、満車時は車椅子の方以外を案内することはまずない」
きっぱりと言い切った下田に対して雅尚は頷くと、男の方へ向き直った。
「やはり車列に並ぶべきでは?」
男は車椅子の肘掛けに置いた手を激しく上下に揺らしながら雅尚と下田のやり取りを聞いていたが、その手を止め、再び能面のような表情で静かに言った。
「そもそも駐車許可証があるんだから、誰にもごちゃごちゃ言われる筋合いは無い」
雅尚が不思議そうな顔で「え?先程協力をしていただけると――」と言いかけるのを、男は遮った。
「そもそも君は研修中の腕章をしているじゃないか」
「それは話の内容とは関係無いでしょう」
「いや、あるね。これ以上研修中の人間に対応させるなら、病院にクレームを入れるぞ」
男は器用に車椅子から自分の車の運転席に乗り移ると、車椅子を助手席に引っ張り上げながら言った。
「わかりました。では上司の者に変わりますので――」
「しつこい!」
男は雅尚の言葉を遮って怒鳴ると、車を急発進させて行ってしまった。
雅尚は唖然とした顔で見送っていたが、下田は満面の笑みで雅尚の肩を叩いた。
「やるじゃないか!舌打ちを聞かれた時はどうなることかと思ったけど、助かったよ」
「クレームになりますかね」
雅尚は苦々しい顔で下田を見た。
「いや、あの手は大丈夫だろう。そこまで頭が悪い奴じゃなさそうだから、自分が悪いことは理解しているだろうな。仮にクレームになったとしても、そういう業務だってことは病院側も理解している」
「だといいんですが」
二人はそう話し合いながら、又歩き出した。
その後は路上駐車中の車に運転手が戻って来ることは無く、一時間が経過した。
「よし、そろそろ交代の時間だ。防災センターに戻ろう」
下田がそう言って踵を返した時だった。
「ちょっとよろしい?」
声をかけられて二人が振り向いたその方向に、女性が立っていた。年の頃なら六十前後だろうか。ふっくらとした丸顔に人の良さような笑みを浮かべた、品の良さそうな婦人だ。
「何か?」
下田も負けじと、判で押したような笑顔で答える。
「貴方達、そこの病院の警備員さんよね?いえね、あそこを歩いてる男性」
女性が指差した方向には横断歩道があり、渡った先の歩道に、スーツ姿の男性の後姿が見える。
「あの方ね、今斜め横断をなさったのよ。この辺りは小学校の通学路になっているでしょう。子供たちが真似をしてしまったら危ないと思うの」
「はあ」
笑顔のままの女性に対して、下田は困惑した表情で答えた。それをなぜ自分に言うのか、と思っているのだろう。
「私もおたくの病院にはよくお世話になってるから知ってるの。あの方、おたくの所の職員さんなのよ」
「ああ、そういうことですか」
下田は得たり、とばかりに手を叩いた。
「わかりました。担当の者に報告しておきましょう」
「余計なこと言ってごめんなさいね。でも心配なの」
「ご指摘ありがとうございます。それでは」
女性はまだ何か言いたげなそぶりだったが、下田は頭を下げてその場を切り上げようとした。
その時、また雅尚が口を開いた。
「ちょっといいですか?」
女性は歓迎するような笑顔で、雅尚を見た。
「どうぞ」
「斜め横断は確かに良くないことです。それを注意なさるなんてご立派だと思います」
「いえ、それほどでもありませんわ。ただこの年になると、悪いことを見たら黙っていられませんの。口うるさいおばさんでごめんなさいね」
女性は気恥ずかしそうな、それでいてどこか誇らしげな笑顔だ。
「悪を見過ごせないんですね。いつもそうやって――あ、あの人」
雅尚は言葉を切って、女性の背後を見た。先程の横断歩道を、今度は向かいから、浮浪者らしき年配の男が斜め横断でやって来る。酒を飲んでいるのか、足元もおぼつかない様子だ。
男は雅尚達の横をふらふらと通り過ぎて行く。風呂に入っていないのかひどい臭いに、下田が顔をしかめた。女性は目を合わせないように俯いている。
「注意しないんですか」
「え?」
不思議そうな顔で尋ねる雅尚に、女性も驚いた様子で答えた。
「今の方、斜め横断でしたよ。注意しないのですか?」
「いえ、それは――だっておかしいでしょう?突然見ず知らずの人間に注意するのは。おかしな人だと思われてしまうもの」
「どうして見ず知らずの人には注意せず、身元が分かっている人間には注意するのですか?」
なおも不思議そうな顔の雅尚に、女性も困惑している。
「だって――注意ってそういうものでしょう?相手の為になると思って注意するのだから、見ず知らずの方には――」
「斜め横断をした者の為ではなく、子供たちが真似をすると危ないから注意されたんですよね?」
雅尚に間髪入れずに言われ、女性はむっとした様子で答えた。
「そうよ。だけど今の方は明らかに不審者でしょう。寧ろあなたが注意するべきじゃないの?」
「なぜですか」
「だってあなた警備員でしょう」
「警備員が交通ルールを取り締まることはできません」
「さっきあなたも斜め横断は悪いことだと言ったじゃないの。注意することは立派だとも言ったわ。覚えてるんだから」
「確かに言いました。それはあなたが私達に注意したからです。だけど次は、同じ状況なのに注意しなかった。だから不思議に思ったんです」
「じゃああなただったらどうしたのよ」
「私は最初から身元が分かる人間だろうと、見ず知らずの人間だろうと注意はしません」
「それは面倒臭いからでしょう」
女性がふふん、と笑いながら言った。
「そうです。相手の気分を害してしまうかもしれないからです。喧嘩になってしまうかもしれないからです。そのようなリスクを負ってまで咎めるようなことではないからです。それよりも子供達に真似をするな、あんな大人になるなと教育をするべきだと思うからです」
雅尚が淀みなく言葉を発すると、女性は黙り込んでしまった。
「もっと言うと、相手が反論できない、言い返せない立場の人間にだけ正義感を振りかざすのは、ただの弱い者いじめだと思うからです」
「――もういいわ!あなた達どこの会社?名前は?」
少しの静寂の後、女性は真っ赤な顔をして怒り出した。
すると女性と雅尚の間に、すっと下田が割り込んだ。
「その前に先程の貴重なご意見を病院の担当者にご報告させていただきたいので、奥様のお名前も聞かせていただいてよろしいですか?」
下田の言葉に女性は「もういいって言ってるでしょ!」とヒステリックに叫ぶと、すたすたと大股で歩いて行ってしまった。
後にはまた不思議そうな顔でたたずむ雅尚と、大爆笑する下田がいたのだった……。
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