第21話

 雅尚は美佳と別れ、街中をぶらぶらした後マンションに帰ってきた。

 空はまだ明るいが、舞台の音響効果のようなカラスの鳴き声が、夕暮れを知らせている。

 オートロックの暗証番号を打ち込んでいた雅尚は、背後から声をかけられた。

「先生」

 雅尚はそのまま暗証番号を入力しながら、振り返らずに返事した。

「やあ、待ったかい」

「ううん、今来たところ――て、どうして私が来ることが分かったんですか?」

 純は切れ長の眼を、少しだけ見開いた。

「なんとなく来るような気がしてたよ。あがってくかい?」

雅尚の言葉に、純は「それでは遠慮無く」と即答した。

 二人は昨日と同様、自動扉をくぐりエントランスを抜けると、エレベーターに乗り込んだ。

「真島さん、ちゃんと勉強してるのかい?」

「先生、私割と成績いい方なんですよ}

「だから聞いてるんだよ。連日こんなところでふらふらしてていいのかい?元担任に関わっていて成績が落ちました、なんて言われたらたまったもんじゃないからね」

「大丈夫ですって。もしそうなっても先生のせいになんかしませんから。ほら、鍵開けてください」

 純はエレベーターを先に降りて、雅尚の家の扉まで小走りすると、振り返ってごまかすように笑った。

 雅尚は玄関の鍵を開けると、開いた扉のドアノブを持ったまま「どうぞ」と、わざとらしくお辞儀した。

「うむ」と純もふざけて胸をそらす。そして土間で靴を脱ぐと、その靴を綺麗に揃えた。

「それでどうなりました」

 靴を脱いでいる雅尚に向かって、純は待ちきれない、とばかりに声をかけた。

「どうなったってどっちのこと?仕事?奥さん?」

「どっちって――奥さんは里帰り出産なんですよね?」

 純は訝しげな顔をしている。

「ああ、そのつもりだったんだけど、向こうはどうもそうじゃなかったらしい。君の言った通りさ。最初から別居のつもりだったんだ。

次の仕事もクビになるようなら別れると言われた」

 リビングに到着し、手早くやかんを火にかけながら、雅尚は困った顔をして言った。

「別れるって、何でですか?」

「次々仕事をクビになって、家族のことを考えてない、てさ。生活は出来るのか、て。そりゃまあそうだよな」

 まるで気に入ったおもちゃを買ってもらえない子供の様な顔の雅尚に、純は食ってかかるように言った。

「奥さんは何で先生と結婚したんでしょうか?」

「何で、て?」

「養ってもらうために結婚したんでしょうか」

 少し苛々した様子の純に、雅尚は戸惑いの色を浮かべた。

「そりゃあそれがすべてではないだろうけど、大前提ではあるんじゃないの?」

「だけど人間は病気や怪我もします。稼げなくなったらはい、さよならなんですか?病める時も健やかなる時も添い遂げることを誓ったんじゃないんですか?先生のピンチを助けようとは思わないんでしょうか」

「僕に聞かれても困るけど――僕は自分がピンチだとは思ってないんだけど」

 心外、といった顔の雅尚を置いてけぼりにして、純は語り続ける。

「浮気や不倫をされて怒ったり、泣いたりする人もテレビでよく見るけど、不思議でなりません。求愛されて一緒になった結果、浮気されたのならまだ理解できます。だけど恋愛なんて、元々どちらかの片思いから始まるわけですよね。最初は、自分のことを好きでもない相手に恋をするんですよね。相手が誰に恋をしていようと関係なかったわけです。どうしてその人を好きになったんですか?どちらが先に好きになったとしても、相手を選んだのは自分なんです。それでも相手を好きなら我慢するしかないし、好きじゃなくなったのなら別れればいいだけだと思います。怒ったって仕方ありません。自分が気に入って買った商品なんです。気に入らなくなったら捨てるか、買い替えるしかないんです。使うだけ使って、思った商品と違ったから文句言うなんて、ただのクレーマーです。今の例え、どうです?」

「――へ?例え?」

 ふんふん、と聞いていた雅尚は拍子抜けしたように訊き返した。

「持論です。先生風に言ってみました」

「何だよ、先生風って?僕は別に――」

「先生、あんな本読むんですか?」

 雅尚が話しているのもお構いなしに、純はリビングのガラス製のテーブルの上に置いてある、一冊の本を指差した。その文庫本の表紙には『亜麻色の髪の爆裂少女』と、全く内容が想像できないタイトルが印字されている。

「まだ僕が話して――ああ、あれ?まさか。奥さんの本だよ」

 純は「奥さんが……」と呟いた後「これ、借りていいですか?」と尋ねた。

「ああ、かまわないよ。確か奥さんが絶賛してたから、もう読み終わったはずだ」

「絶賛――読んでみます。それで仕事は?」

「え?――ああ、仕事ならもう決まったよ。昨日言ってた警備会社だ。さっそく明日から出勤なんだ」

 ころころと調子の変わる純に、雅尚の表情もめまぐるしく変化している。

「明日から?よっぽど人手が足りないんですね。それなら今回は少々やらかしても大丈夫ですよ」

「どういう意味だい?」

 こともなげに言う純に、雅尚はしかめっ面で抗議の意を示した。

 二人でそんなことを言い合っているうちに、気付けば二時間が経過していた。

「君、よくしゃべるようになったねえ。よく笑うようになったし――あれ、もうこんな時間だ。真島さん、そろそろ帰らないと」

 雅尚が十八時を過ぎた壁掛け時計を見ながら言うと、純は何食わぬ顔で返事した。

「ああ、今日うちの親遅いんです。帰っても夕ご飯が無いので、ご一緒していいですか?」

「ああ、そうなの?別にかまわないよ。何か食べたいもの、あるかい?」

「ご馳走していただけるんですか?先生、生活できないって――」

「それくらい大丈夫だ!家族三人なら厳しいってだけだよ」

 心配そうな表情の純に、雅尚は少々むくれ顔で声を大きくしたが、後半はぼそぼそとした声になった。

「わかりました。この近く、どんなお店があるんですか?あ、その前にトイレお借りします」

 純はそう言ってスマホを掴むと、トイレに向かった。

 出かける準備をしながら近くの店を思案している雅尚の元に純が戻ってくるまで、たっぷり五分は経過していた。

「やけに長かったね。うんこかい?」

 雅尚の暴言に、純は上着に袖を通しながら呆れ顔で言った。

「セクハラですね」

 すぐに雅尚が、しかめっ面で言い返す。

「またそれだ。最近は食事に誘っただけでもセクハラになるらしい。受け取り側が不快に感じたらアウトだそうだけど、そんなのはお互い様だ。相手がどんな受け取り方をするかなんて誰にも解らない。不快な思いをせずに、させずに生きていくなんて誰にも出来ない。そんなことを気にしていたら人間関係はどんどん希薄になっていくよ。相手の気持ちが分からないから、知りたいから食事に誘うんじゃないのかい?男が食事に誘ってもいけないのに、一方では草食系男子だの、少子化が問題だの、ちゃんちゃらおかしいよ。そりゃあ男性が女性と付き合うのが面倒臭くもなるさ」

 雅尚に一方的にまくしたてられて、純は目をぱちくりさせて言った。

「そりゃそうですね。今回、私からお誘いしたんですけど、不快ではなかったですか?」

 二人がそんな言い合いをしながら一階のエントランスを抜けて外に出ると、辺りはすでに薄暗くなっていた。

「確かこの先に小さな洋食屋さんがあるんだけど、そこでいいかな」

「はい、いいです」

 雅尚の問いかけに、純は満面の笑顔で返事した。

 二人がしばらく歩いて大通りに出ると、人通りも増えてきた。

「この先だったかな」

 雅尚が、少し歩を速めようとした時だった。

「すいません。ご寄付、お願いできませんか?」

 声をかけられた二人が振り返ると、募金箱を抱えた二十代半ばと思われる女性が、にこやかに微笑んでいる。

 中肉中背で、決して美人とは言えないが、健康的で爽やかな印象の女性だ。ほかにも何人か、同じ年頃の女性達があちこちで同じように、道行く人に声をかけているのが見て取れた。

 明日から出勤とはいえ、一応失業中の身である雅尚が何か言いかけると「何の募金ですか」と、純が素早く質問した。

 女性は得たり、とばかりに「それはですね――」と嬉しそうに説明を始めた。

 その説明によると、どうやら彼女達はあるマイナースポーツの日本代表の選手なのだが、マイナーであるが故資金繰りに困っており、日本代表チームは世界大会に出場すれば確実に上位に食い込む実力がありながら、旅費やその他諸々の経費がまかなえない、ついてはクラウドファンディングや募金で資金を募ろう、ということらしい。

 純は微妙な表情を浮かべながら「それじゃあ……」と百円を募金箱に入れた。

女性は「ありがとうございます」とにっこり微笑みながら「よろしかったら」と、雅尚の前にも募金箱を差し出した。

「どうしてその競技はマイナーなんだと思いますか?」

「――え?」

 雅尚から唐突に繰り出された質問に、女性は微笑みながらも戸惑いの色を浮かべた。

 雅尚は構わずに質問を続ける。

「ちなみにその競技は、最近できたスポーツなんですか?」

「いいえ、歴史自体は大変古く、もう百年以上も――」

「百年以上もマイナーなままなんですか?どこの国が発祥なんですか?その国では盛り上がってるんですか?」

「国は、確か――ちょっと度忘れしてしまいましたけど――現地ではプロ化するとかしないとか――」

「面白くないからマイナーなんじゃないですか?」

 矢継ぎ早に繰り出される雅尚の言葉に、女性の微笑みは凍りついてしまった。

純はいたずらっぽい笑みを浮かべると「始まった」と呟いた。

「そ、そんなことはありません。あなたも実際にやってみたらきっと――」

「やって楽しければいいというものではありません。僕はボクシングを見るのが好きなんですけど、自分がやろうとは思いません。お金を取りたければ、やって楽しいものではなく、見て楽しいものじゃないと。例えば草野球の世界大会があったとして、あなたはお金を出してまで見たいとは思わないですよね。野球自体は誰でも知っていて、人気もあるスポーツなのに。なぜかというと、プロでもなければ知っているわけでもない人達が野球をやっているのを見ても、ほとんどの人は楽しくないからです。ましてや知らない人達が知らないスポーツを、楽しいからやっているというだけで、誰がお金を払いたいと思うでしょうか。一般的に考えて、それは趣味といいます。裕福ではないのにお金のかかる趣味は、普通はみんな諦めます。僕はあなた方の趣味にお金を出すくらいなら、災害の被災地に寄付したい」

 女性の顔からは、既に笑みが消えていた。

「で、でも世界大会で結果を出せば、きっとみんな興味を持ってくれると――」

「ならば募金はやめてクラウドファンディングだけにするべきです。経済的に余裕があるかどうかも分からない人々から、ましてや高校生からお金を巻き上げるような真似は止めるべきだ。クラウドファンディングの集まりが悪いのでは?」

「そ、それは」

「そもそもこの国は募金や寄付と名がつけば、ある程度お金が集まってしまうところがある。この国のいいところといえばそうですが、善意につけ込む人間――あれ?どうして泣いてるんですか?」

 ついに泣き出してしまった女性を見て、雅尚は戸惑っている。

「先生、お腹が空いたので早く行きましょう。すいません、失礼致します」

 純はボクシングのレフェリーよろしく二人の間に割って入り、女性に頭を下げると、雅尚の腕を引っ張って走り出した。

「僕は彼女を泣かすようなことを言ったかい?」

 困惑の表情を浮かべて問いかける雅尚の腕を引っ張りながら、純は満面の笑みで答えた。

「いいえ。正しいことを言っただけです」

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