第20話
国松総合病院の二階にある喫茶店の自動扉を、雅尚は少し躊躇してからくぐった。
客はまばらだった。時刻は昼の一時を過ぎている。
仕事はあっさり決まった。午前中、目星をつけていた警備会社に応募の電話をしたところ、よほど人手に困っているとみえ、明日からでも来てほしい、履歴書等はその時でよい、との返答であった。
仕事が決まったこと、いや、また変わったことを妻の美佳に早速知らせた。
ホームセンターで働くことを知った時は「あ、そう」としか言わなかった妻が、今回はなぜか会いたいと言ってきた。ちょうど美佳は産婦人科の診察日だというので、ならば病院で一緒に昼食でも、と雅尚は誘った。
だが美佳は、一緒に昼食をとる気分ではないし、昼時は店が混むだろうからとの返答で、この時間にこの場所での待ち合わせとなったのだった。
美佳は店の奥まった席に座っていた。待ち合わせをしているはずなのに、店内に入ってきた客を全く見ようとせず、伏し目がちに座っている。
雅尚が近づいて行っても全く気付いておらず、向かいの席についた雅尚に「やあ」と声をかけられて、ようやく視線を上げた。
「体調はどう?」
「唯はどうしてる?」
二人は同時に声を発すると、しばらく見合って笑った。
「ちゃんと幼稚園に通ってるわ。そんなに距離が遠くなったわけじゃないから大丈夫。毎日いつ家に帰るのか聞いてくるから、困ってる。今日あなたに会うことは言ってないの」
「何だよ、言えばいいじゃないか――僕の方は体調はばっちりだよ。何なら、何日かごとに唯を預かろうか」
美佳は表情を曇らせた。
「新しい仕事があるでしょ」
「そうなんだ。今度の仕事は夜勤だから、何日も連続で、てわけにはいかないけど」
それを聞いて、美佳は再び俯いた。
「どうしたんだい?」
「……また仕事を辞めたのね。ううん、クビになったんじゃない?」
雅尚はまるで叱られた子供のように首をすぼめると、少し小さな声で反論した。
「また、て――教師はクビじゃないけどね」
「少しは考えを改めて以前のあなたに戻ってくれたら、と思っていたけど――その様子じゃ難しいみたいね」
「考えを改めるって――」
「どうするの?そうやって行くとこ行くとこで揉めて、仕事をクビになって、家族を養っていけるの?何をしたって生きていける?ううん、自分の生活だって怪しいものだわ」
美佳はそこまで一気にまくしたてると、目の前の冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
雅尚が何か言いかけたとき、店員が雅尚のオーダーを取りにやって来た。
「僕もコーヒーで――いや、待って。久しぶりにクリームソーダを飲みたいな」
メニューを開いて、まるで子供のように迷っている雅尚を、美佳は訝しげに見つめた。
店員が一礼して去った後、二人の間に少しの沈黙が流れた。
「今度は警備会社なんだ。正しいことを当たり前にこなせばいいはずだ。同じようなことにはならないよ」
美佳は、ぼんやりと笑った。
「そんな仕事、世の中にあるわけないでしょう?どんな仕事だって正しいだけでは務まらない。ううん、仮にそんな仕事があったとしても、いつもあなたが正しいとは限らない。そもそも、家族四人やっていけるお給料はもらえるの?」
「お金のことは、だから前に――君には迷惑をかけることになるかもしれないと――」
言い淀む雅尚をよそに、美佳は続けた。
「今回が最後にしたいの。今度の仕事ももしクビになるようなことがあったら――そのときは離婚を考えてる」
それだけ言い終えると、美佳は伝票を掴んで立ち上がった。
立ち去っていく美佳の背中に、雅尚は声をかけなかった。
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