第19話
「ここに住んでるんですか?」
マンションのオートロックを解除してエントランスに入ろうとした雅尚は、背後から声をかけられて立ち止まった。
「あれ、今度は尾行かい?いよいよスパイじみてきたね」
雅尚が振り返ると、そこには無表情の純が仁王立ちしていた。
「割とうちと近いですよ。最寄りのバス停も一緒のはずです。会わないもんですね」
「そりゃあ、教師と生徒じゃ登校時間も違うさ」
雅尚の返答には答えず、純は少し迷うように、雅尚から視線をそらして言った。
「少しお話がしたいんですけど」
「ああ、いいよ。上がっていくかい?」
「え、いいんですか?」
「いいよ。もう教師と生徒でもないし」
少し意外そうな表情の純に、雅尚はひょうひょうとした調子で答えた。
「奥様とか……」
「奥さん、今いないんだ」
「え――変なことしません?」
「変なこと?ああ――やらしいこととか悪戯っていうこと?」
不思議そうな顔で尋ねる雅尚に、純の方が「え?まあ、いや、そうといえばそうなんですけど……」とどぎまぎしている。
「別にしたいと思わないから、しないよ」
エントランスからエレベーターに乗り込む雅尚の後について歩きながら、純は少し複雑そうな顔で「ああ、そうですか」と呟いた。
雅尚の部屋がある階で二人が降りると、同じ階の住人らしき中年女性が一人、エレベーターの到着を待っていた。
女性はすれ違いざまに「こんにちは」と挨拶しながらも、怪訝そうな顔をしてエレベーターに乗り込んだ。
「変な風に思われちゃいましたかね」
「変な風、て?」
純の問いに雅尚は、また不思議そうに訊き返した。
「ですから――援助交際とか。私達、どう見ても親子や親戚の雰囲気ではないと思いますから」
「ああ――でも違うんだからいいんじゃない?」
まるで興味の無いおもちゃを与えられた子供のような表情の雅尚を見て、純は微かに笑みを浮かべた。
雅尚は玄関の鍵を開けると、先に土間で靴を脱いで、純に「どうぞ」と声をかけた。
「おじゃまします」
純は靴を脱ぎ棄てると、そのまま雅尚の後について歩きかけたが、思い直したように振り返ると、二人の靴を綺麗に揃えた。
「奥様はいつ頃お帰りなんですか」
純は廊下で、前を歩く雅尚の背中に声をかけた。
「さあ、しばらく距離を置きたいと言っていたからねえ。いつになるやら。コーヒーでいい?インスタントだけど」
雅尚はキッチンでやかんを火にかけると、隣接したリビングに移動し、薄手のカーデガンを脱ぎながら答えた。
「え?それって――」
純は自分も制服の上着を脱ぎながら言いかけたが、手を差し伸べてきた雅尚に自分の上着と鞄を渡すと、黙ってダイニングテーブルの席に着いた。
雅尚は、純の上着と鞄をリビングのソファーに無造作に置くと、キッチンでインスタントコーヒーを作り始めた。
「砂糖とミルクは?」
「あ、一つずつお願いします」
純の分のコーヒーに砂糖とミルクを一つずつ入れた後、雅尚は自分のコーヒーに砂糖を三つ、ミルクを一つ入れた。
「先生、甘党なんですね」
純が目を丸くして尋ねると、雅尚は当然、といった顔で答えた。
「だって、コーヒーは苦いじゃないか」
雅尚の言葉に、純はフッと笑うと、気恥ずかしそうにカップを差し出した。
「やっぱり私も、砂糖をもう一つお願いします」
雅尚は、純のコーヒーに砂糖を一つ足すと、両手にマグカップを持って、純の向かいの席に着いた。
「それで話って?」
雅尚の問いかけに、純は待ってましたと言わんばかりに前のめりになると、間髪入れずに答えた。
「先生、一体突然どうしたんですか」
「またそれかよ。どうしたって何が?」
雅尚は、少しうんざりした様子を見せながら、コーヒーを一口啜った。
「まるで人が変わったようです。こうやって日常生活が激変するくらい。何か自己啓発の本でも読んだんですか?」
純の言葉に、雅尚は困ったように頭を掻いた。
「それ奥さんにも聞かれたんだよ。どうしたって言われてもなあ。僕はそんなに変わったかい?」
「それはもう」
「どんなふうに?」
雅尚の言葉に、純ははっとした表情で聞き返した。
「先生――もしかして記憶喪失?」
「え?ああ、そういうわけじゃないんだ。もちろん過去の記憶は、あるにはあるんだけど――」
雅尚は、まるで解けないテストを目の前にした子供のような顔で考え込み、やがてぽつぽつと話し始めた。
「あの時は何て言ったかな、とかあの時は何をしたかなって、ときどき思い出せない場面があるというか。過去の出来事の全体的な流れは分かってはいるんだけど、細かいやり取りを思い出せないことがあるんだ。もちろん、全くすべて、というわけじゃないんだけど」
今度は純が考え込む。
「……うーん、わからないな。それと性格の激変と何の関係が?」
「性格、以前と比べてそんなに変わってるかな?僕自身は何も変わったつもりはないんだけどね。どんな風に変わった?」
「うーん――そう言われると説明しづらいですね。熱血になったというか――ううん、そんなことないな。どちらかと言えば、以前の方が嘘くさい熱血漢があったな。そうだ、気が強くなった。空気を読まなくなったというか――ううん、空気が読めなかったのは以前からだわ……。どう言えばいいんだろう?」
「途中から悪口じゃないか?」
考え込む純に、雅尚は苦虫を噛み潰したような顔で抗議した。
「まあいい。それより君の話って、そんなことかい?」
「え?――ああ、そうですね」
雅尚の言葉で、考え込んでいた純は我に返った。
「君はどちらかというと、僕のことを煙たがっていた様子だったけどね。いや、あくまで印象だけど」
「そうですね。嫌いというわけじゃなかったですけど、苦手でした」
無表情でこともなげに答える純に、雅尚はくすっと笑ってしまった。
「嫌われてはなかったんだね。そりゃよかった」
「だけど職員室でのやり取りを見て、印象が変わりました」
「職員室?何のことだろう」
分かっていない様子の雅尚に対して、純は構わず続けた。
「そして貝切君の一件で、すごく不思議な気持ちになりました。大人、て変だなって。何で一番正しくて、当たり前のことを言ってる人が非難されるんだろう、て」
雅尚はまじめな顔で、純の方に向き直って言った。
「人はそれぞれ考え方があるんだよ。僕は自分が思ったことを言っただけだけど、貝切さん達はそうは思わなかった。それだけじゃないの。その後、貝切君はどうだい?」
「当然何も変わりません。相変わらず誰も貝切君には話しかけないし、だからといって母親が学校に怒鳴り込んできてる様子も無いですけど。先生の方が正しかったって、みんな解ったんじゃないですか。そんなことより、これからどうするんです?」
「どうするって、仕事のこと?」
「もちろんそれも含めて――奥さんのこととか」
純は、窓の外を見やった。
「仕事はホームセンターとどっちにしようか迷った仕事があるから、明日にでもそっちに電話してみるつもりだ。奥さんは里帰り出産しているだけだから、どうもこうもないよ」
「へ、別居じゃないんですか?距離を置きたいって、てっきり――」
「いやなこと言うなあ。てっきり何だよ?」
睨む雅尚に、純は「いや、その」とごにょごにょと口ごもる。
「そうだ、仕事って何ですか?」
純が話をそらすように訊くと、雅尚はぱっと顔を輝かせて言った。
「泊まり込みの施設警備員。警察官がよかったんだけど年齢的にね。この仕事なら正しい行動だけとっていればいいはずだから、これまでのようなことはないはずだ。そう思わないか?」
はつらつとした笑顔の雅尚に、純は不安の色を隠せない、ひきつった笑顔で返事をした。
「そうだといいですね……」
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