第18話
五月が終わろうとしていた。衣替えまで待ちきれないのか、放課後の校内ではもうすでに半袖姿の学生もちらほら見える。
「朝晩まだ肌寒い日もあるのに元気なこと」
純は小さく呟くと、帰り支度を始めた。
(鈴木先生はどうしてるんだろう。五月に入ってすぐ辞めることになったから、もう三週間以上経つ。あんなことがあるまで、あの先生のことなんかほとんど気にしたことが無かった。いや、むしろ苦手な部類に入る先生だったのに――あ、新しいノート買わなきゃ)
純は、およそ今どきの女子高生に似つかわしくない、くたびれたサラリーマンが持つような黒の肩掛けカバンに、教科書やノートを押し込んだ。
純が校門をくぐると、自転車通学の女生徒が追い抜きざまに「バイバイ」と声をかけて行く。
純はちらっと目をやるだけで、特に返事はしない。大体もう当の本人は、返事を待つことも無く遥か先に行ってしまっているのだ。
(あれはクラスメイトだったっけ?いや、隣のクラスの子だったような。まったく、普段見たことも無いような子まで声をかけてくるんだから――)
純がバス停に到着し、定期入れを出そうと鞄に手を入れた時だった。
(おや?あれは確か――)
人波の間に、金髪の男が見える。バスを待っている何人かの人間に紛れて、まるで純から身を隠そうとしているかのように距離を置いているように思えた。
(ウチの制服に見える。いつぞやラインのIDを尋ねてきた、金髪男じゃないかしら?いや、あの時も今もはっきり顔を見たわけじゃないから、確信は持てないけれど――)
バスが到着し、純が先頭で乗り込んだ。車内はいくつか空席があるが、純は車両前方部分の乗り口側に向かって立ち、吊り革を握った。
続いて何人かが乗り込み、最後に金髪男が乗った。彼が車両後部の、乗り口とは反対側の列の空いている席に座ったのを、純は目の端で確認した。
(確かにあいつだ。ウチは一応進学校だ。そう何人も金髪の生徒は見ない。同じバスで通学しているはずもない。もしそうならとっくにその存在に、気が付いているはずだ。もちろん最近引っ越したのかもしれないし、たまたま同じ時間帯に乗らなかっただけかもしれないけれど――尾けてるのかしら。この間相手にしなかったから、仕返しでも考えているのかもしれない。まあいいや。いざとなったら、一撃必殺、乙女の大声で人を呼ぼう。ああ、でも誰か助けてくれるかな。最近はおかしな人が多くて、皆他人に関わりたくないだろうから――)
純がそんなことを考えていると、降りる停留所に到着してしまった。
バスを降りて歩き出すと、少し間を置いて金髪男も降りてくるのを、純は目の端で確認した。
(まあいい。尾行されていようがいまいが、住所なんてクラス名簿を見れば載ってるんだ。そんなことより、ノートを買って帰らないと……。そういえばクラスの女子はみんなかわいらしいノートを使っているけれど、あんなのどこで買ってくるのかしら。別に欲しいわけではないけれど)
純はあっさりと金髪を思考から追い出すと、行きつけのファンシーな文房具屋――ではなくホームセンターへと入って行った。
文房具から家電商品まで、置いてない商品は無いのではないかと思えるくらい、大量の品数と広大な敷地を誇る、純御用達の大型店舗だ。
その店の中まで、金髪もついてくる。
(間違いない、尾けられている。別にいいけど――)
純が、文房具コーナーでノートを選び始めた時だった。
「だから安くしなさいよ!」
明らかに中年以上と思われる女性の金切り声が、広大な店内に鳴り響いた。
純はその声を聞いて、うんざりといった顔で天を仰いだ。
「隣町の店では同じ物がここより二十円安かったわよ!わざわざこの店を選んで来てあげてるんだから安くして当然でしょ!」
(あーあ、出た出た。完全なクレイマーだ。最近本当に多い気がする。自分が悪いとわかって因縁をつける輩も性質が悪いが、自分が正しいと思い込んでいる人間が一番厄介だ。鈴木先生の件で学んだけど、常識が通用しない人間に常識を理解させるのは至難の業だ。だけど結局みんな悪い。この国はごねればほとんど要求は通ってしまう。そんな輩にはさっさと帰って欲しいからだ。味を占めた輩は、また次もごねてしまう。そうやってクレーマーはどんどん増殖してしまったんだろう……。それにしても、よく人前であんなに大声で叫び続けられるものだ。私の親戚や家族にあんなのがいたら、と思うとぞっとする。相手してる店員さんも可哀想だな)
「お客さんはなぜこのお店に?」
店員らしき男の声が聞こえてくる。聞き覚えのあるその声を聴いて、純ははっとした。
(まさか――)
「何ですって?」
少し間を置いて、女性の苛々した声が聞こえてきた。
純は急いで文房具コーナーの棚を走り抜け、声がするレジ前を覗き込んだ。
そこには歯磨き粉らしき商品を二つ握りしめた、黒の半そでニットに薄紫のミニスカート、さらに焦げ茶色のブーツと、一昔前のアムラーを彷彿とさせるファッションに身を包んだ六十前後の派手な化粧の女性と、ホームセンターの制服に身を包んだ雅尚がいた。
周囲では、他の客も訝しげに立ち止まって様子を見ている。
「ですからこのお店を選んでいただいた理由です」
女性は醜く顔を歪めて、聞き返した。
「何でそんなこと聞くのよ」
「いえ、わざわざこの店を選んで来たと仰ったので、どうしてそんなにお気に召されたのかなと」
雅尚がこともなげに言うと、女性は笑ったつもりなのか、唇の端をさらに歪めて答えた。
「別に気に入ったから来てるんじゃないわ。家が近いから、ただそれだけの理由よ」
「ではお客さんにもメリットがあって、いらっしゃってるんですよね」
「そうなるわね」
「でしたらわざわざこの店を選んで来てるんだから安くしろ、という言い分はどうかと」
淡々とした調子の雅尚の言葉に、女性の顔から薄ら笑いが消えた。
「何を言ってるの?問題はそこじゃないでしょう。この店が他の店より商品を二十円高く売ってることよ」
「違います。他のお店がたまたまその商品を、この店より二十円安く売っているだけです」
「同じことでしょ!」
「全く違いますよ。当店のすべての商品が、他のお店より二十円高いのならば問題でしょうが」
雅尚の言葉に、女性はさらに苛々した様子で言った。
「どっちでもいいわ。この商品が二十円高いのは事実なんだから、これだけでも安くしてちょうだい」
「その商品を買いに、その安いお店に行かれては?」
「たかだか二十円の為にそんなことできるわけないでしょ!」
「たかだか二十円ならお支払しては?」
相変わらす淡々とした雅尚の言葉に、女性は少し黙った後、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「あなたじゃ話にならないわ!上を呼んでちょうだい!」
女性の耳をつんざくような怒声に、棚の陰から様子を窺っていた純は、思わず呟いた。
「あーあ、出た出た。あの手の輩の決め台詞」
「どうしたんだ、鈴木の奴。あんなこと言ったら揉めちまうに決まってるだろうが」
真後ろから突然聞こえた声に、純が驚いて振り返ると、そこに金髪がいた。
純は間髪入れずに金髪を問い詰める。
「尾けてたよね?」
「え?いや――まあそうだな。この間話が途中で終わっちゃったから――そ、それより鈴木って、ここで働いてるんだな」
二人がこそこそ言い合っていると、少し黙っていた雅尚が口を開いた。
「困りましたねえ。店長を呼んでも解決しないと思いますけど」
雅尚はそう言うと、少し考えてから哀れみを込めた口調で言った。
「もしよろしかったら、その商品の差額二十円――あ、二つお持ちだから四十円かな。僕が差し上げましょうか?」
女性はその言葉を聞いた瞬間、少しの間何を言われているのかわからない様子だったが、元々真っ赤だった顔を、さらに赤くして叫んだ。
「な、な、何ですってぇ!ひ、人を何だと思ってるの!私が浮浪者にでも見える、て言うの?」
「え?違うんですか?」
雅尚のきょとんとした表情に、周囲で固唾を呑んで見入っていたほかの客たちから、耐え切れずといった失笑が漏れた。
女性は周囲の見物客にちらりと目をやると、すうっと息を吸い込んだ。
「もういいわ!二度とこの店では買い物はしないから!」
本人的には若々しいファッションに身を包んでいるつもりなのだろうが、そのせいで実年齢よりも老けて見えるその女性は、悲痛な叫び声をあげると、まるで廃車寸前の軽トラックのような鈍い勢いで、店の自動扉にぶつかりながら出て行った。
雅尚がその様子をぽかんとした表情で見ていると、自然と周囲の客から笑い声と拍手が発生した。
ほかの店員も皆、笑顔で雅尚の周囲に集まってくる。
「すっとしたなあ」
「別にあんな客、元々来てほしくないやなあ」
「どうなることかと思ったよ」
代わる代わる声をかけてくる同僚を、雅尚はきょろきょろと見回す。
しかしすぐに仲間達の笑顔は引きつり、散り散りに遠ざかってしまった。
「鈴木君、ちょっと」
この店の店長らしき男が現れ、雅尚に声をかけると、雅尚は店の奥に連れて行かれてしまった。
「クビだな、ありゃ」
金髪が呟くと同時に、純は店の外に向かって駆け出していた。
「あ、おい」
金髪の声に振り返りもせず外に出ると、純は店の裏側に回り込む。
純の予想通り、そこには従業員通用口があった。すると十分もせず、そこから私服に着替えた雅尚が出てきた。
「あれ、よく会うねぇ」
雅尚は純に気付くと、まるで久しぶりに親戚のお姉さんに会う子供のような笑顔で手を振った。
「もしかしてクビですか」
純の言葉に、雅尚は驚きの表情を浮かべた。
「え?また立ち聞きかい?」
「そんなわけないでしょ!たまたま店内で一部始終を見ていただけです」
純が睨むと、雅尚はとたんに叱られた子供のような顔になる。
「そりゃ申し訳なかった――実はそうなんだよ。再就職――といってもまだアルバイトなんだけど――今日が初日だったんだ」
「初日?」
純がわずかに目を大きくして聞き返すも、雅尚は気が付いた様子は無い。
「だけどお客さんにあんなこと言われちゃ困る、てね」
「そりゃそうだろ」
突然あらぬ方向から声が聞こえ、二人が同時に振り返ると、そこに金髪が立っていた。
雅尚はいたずらっぽい笑顔を浮かべて、金髪に向かって言った。
「水上君。一緒だったのかい?あれ、二人はもしかして?」
「ま、まだそういうわけじゃ――」
そう言ってなぜか照れている金髪、いや水上を全く無視して、純は言った。
「一体どうしたんです、先生。一か月で二回目のクビですよ」
「教師はクビじゃないよ」
雅尚はムッとした表情で反論した。
「同じようなもんです。そんなことじゃあ次も――」
「こんなこともあろうかと次はもう考えてある。僕の心配はいいから二人共、もう夕方だよ。早く帰りなさい」
雅尚は純の言葉を遮ると、純と水上の間を通り抜けて歩き出した。
「鈴木ってあんな奴だったっけ?」
遠ざかる雅尚の背中を見つめながら、水上はぼそっと呟いた。
純はそれには答えず、スカートを翻して駆け出した。
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